2009/11/12 - 2009/11/12
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ムッシュさん
(編集中)
木曽路を妻籠に向けて南下します。今回は、狭い木曽谷に位置する木曽川沿いの須原宿、野尻宿へGO!
須原宿 第三十九宿 (日本橋より299.5km)
:大桑村須原
宿場の中心地は、本町で本陣、脇本陣があり今も風格ある姿で残っています。木曽谷の中で一番古くに栄えた歴史ある宿場町。
[木曽の須原で自慢のものは、須原ばねそと定勝寺」と謳われた宿場。街道沿いに丸太をくり貫いた水舟が置かれ旅情を誘う。
幸田露伴の「風流仏」の舞台になった所でもある。
野尻宿 第四十宿 (日本橋より306.5km)
宿場には外敵を防ぐために左右にうねらせた「七曲がり」の道が特徴
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赤がきれい!
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【読書(よみかき)水力発電所】国の重要文化財
桃介橋、柿其水路橋とともに国の近代文化遺産として指定されており、大正期の水路式発電施設を代表するものである。
大正12年最大出力40700kwの水路式発電所。本館は煉瓦壁・半円形の明かり窓などの近代西洋様式の意匠が特徴。 -
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大桑町の表示
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桑の表示してます
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【幸田露伴の碑と、水舟】
須原駅前広場の江戸側寄りの隅に幸田露伴と須原宿碑があります。
文豪幸田露伴(こうだろはん)は明治22年(1889年)の冬、木曽路を旅し須原に宿泊しました、この地を訪ねた縁をもとに、二十二歳の時に出世作小説風流仏(ふうりゅうぶつ)を執筆。
「旅の若き仏師が須原宿で出会った花漬売りの娘に恋してしまう、悶々たる気持ちで仏師は娘の姿を彫る、像は娘になり抱きしめ合い、互いに手を携えて天にのぼりました」
碑の前には水舟があります。
道路を挟んだ向かいに須原宿名物桜の花漬を商う老舗大和屋があります、桜の花漬は塩で漬けた桜の花です、湯のみに入れ、熱湯を注ぐと桜の花が開く桜湯になります、結婚式等で出されます。 -
水舟
水舟は木を舟のように刳り抜いて、中に湧き水を入れたものである -
【幸田露伴の碑】
小説『風流仏』は、須原宿を舞台にした作品。
文豪幸田露伴は明治二十二年冬の頃木曽路を旅して須原に泊る。
彼は此の地を訪ねた縁を基にその出世作小説風流佛を著す時に二十二歳
ここに文中の一部を抜粋して記念碑として文豪露伴を偲ぶ
「名物に甘きものありて空腹に須原のとろゝ汁殊の外妙なるに飯幾杯か滑り込ませたる・・・」(以下略)
平成五年十月吉日 大桑村観光協会 -
大和屋の並びに【一里塚跡碑】があります
碑には「須原宿 一里塚跡 江戸へ七十五里 京へ五十七里」と刻まれています、須原の一里塚跡です、江戸より75里目です。 -
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著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています。
【木曽街道六拾九次之内 須原 広重画】
*須原宿の北の外れにあった村の鎮守鹿島祠へ、突然の大雨で飛び込できた人達を描いている。 -
JR須原駅。 ちょっと、休憩に立ち寄り。
須原宿は、正徳五年(1715)の木曽川大洪水で流失し享保二年(1717)に現在地に移転しました。
江戸時代には、木曽十一宿の一つとして繁盛し、本陣・問屋のほか三十余軒の旅篭・茶屋が立ち並び、多くの旅人が行きかってにぎやかな宿場でした。
また、文化の中心として、重要文化財の浄戒山定勝寺があり、その中に素朴な民謡「須原はねそ」が庶民文化として現在も唄い踊り継がれ、ゆったりとし、街道とともに古くからの文化が伝わってくる宿場です。
大木をくりぬいて作られた水舟は、昔も今も人々の憩いの場であり、清水が湧く宿場として知られた。 -
【須原宿の本陣跡】
須原宿は正徳5年(1715年)木曽川の氾濫で流失し、享保2年(1717年)一段高い現在地に移転しました。
水に恵まれ宿内には丸太をくり抜いた「水舟」が随所に置かれ水舟の里と呼ばれました、桜の花漬やとろろ汁が宿場名物でした、慶応2年(1866年)の大火で宿並は灰燼に帰してしまった。
天保14年(1843年)の頃、須原宿の宿内家数は104軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠24軒で、宿内人口は748人でした。
本陣跡標識があります、木村平左衛門が勤めました、皇女和宮は本陣にて昼食を摂りました。 -
醸造する「木曽のかけはし」は、浮世絵画家”英泉”の伊奈川をデザインしたもの。
西尾酒造店があります、”銘酒木曽の桟”の蔵元です、西尾家は木曽義元の重臣でした、後に木曽代官山村家に仕え、尾張藩の山林取締役等の重責を担いました。
須原が中仙道の宿駅になると西尾家は脇本陣を勤め問屋、庄屋そして酒造業を兼ねました。
向いに水舟と正岡子規歌碑「寝ぬ夜半を いかにあかさん 山里は 月出(いつ)るほとの 空たにもなし」があります、子規は明治24年(1891年)須原に一泊しました、碑の前の水舟は木曽五木の一つサワラの大木ををくり抜いたものです。
次いで右手に清水医院跡があります。
島崎藤村著のある女の生涯の舞台となりました、島崎藤村の姉園(その)は実際に清水医院に入院し治療を受けました。 -
【もう、新酒も搾れたよー】
酒屋さんの、新酒ご案内です。”木曽のかけはし” -
木曽の加工品で有名な”お六櫛”のお店
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正岡子規歌碑
「寝ぬ夜半を いかにあかさん 山里は 月出(いつ)るほとの 空たにもなし」
があります、子規は明治24年(1891年)須原に一泊した、碑の前の水舟は木曽五木の一つサワラの大木ををくり抜いたものです。 -
【ねえー。これって飲めるの。飲んでいいの?】
水舟のお水で喉を潤してるところです。
山から湧き水を引き、八か所に水場を設置、水舟に水神を祭る。 -
【須原宿の定勝寺(じょうしょうじ)】国指定重要文化財
今から600年前の室町時代初期(永享2年、1430年)創建の古刹である
臨済宗妙心寺派浄戒山定勝寺(じょうしょうじ)があります、木曽三大寺(木曽福島の興善寺、長福寺)中の最古刹です。
嘉慶年間に木曽家十一代源親豊が木曽家祖先の菩提を弔う為に木曽川畔に創建。
その後、木曽川の洪水により流失し、慶長3年(1598年)に現在地に移建された。
本堂は慶長3年(1598年)に木曽代官石川光吉の建立、庫裏は承応3年(1654年)の建立、山門は万治4年(1661年)の建立で、共に国重要文化財指定です、参道口には明治天皇行在所碑があります。鴬張りの本堂、庫裏、桧皮葺きの山門は桃山時代の様式で見事。
民謡「須原ばねその里」の大きな石碑が境内にあった。ばねそとは、はね踊りと衆という意味で定勝寺を建てた大工の棟梁が京から伝えたという
「木曾の須原で 自慢のものは 須原ばねそと定勝寺
すばらしーぞえ 須原の桜
漬けて 煮え湯の中で咲く
漬けて 煮え湯の中で咲く ・・・・」と謡われている
寺の前に立派な水舟があった -
桃山時代の豪壮な建築物が美しい。国の重要文化財にしていされている
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【つるし柿だ、秋の風景ですね】
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【これって歴史有りそう!】
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国道と鉄道に並行して山よりを歩いています。
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【これは何ですか?】
【岩出観音堂】です。高いやぐらの上にお堂があり、木曽の清水寺ともいわれる。
懸崖造りの堂が印象的。江戸中期に建立された御堂。
英泉「木曽街道・伊奈川橋遠影図」に描かれた崖屋造り。
山腹に崖屋造りの岩出観音堂があります。
本尊は馬頭観世音で伊奈川観音、橋場観音、木曽の清水寺とも呼ばれ、日義村の岩華(いわはな)観音、開田村の丸山観音と共に木曽三大観音の一つです。
文化10年(1813年)に焼失したが、須原の定勝寺十九代住職によって再建されました。 -
【 岩出 観音】
奉仏 馬頭観世音菩薩
別名を伊奈川観音又は橋場観音といい、口伝によると三百余年前須原の一老父が馬の省を作り商いをしていた。
或日一人の威厳ある馬上の侍が馬の省を求めたが折り悪く片足分しかなかつたのでその旨を伝え、不足分を早速作り後から追いかけて現在の橋場の入口付近で渡した。侍は喜んで代金を渡そうとした
が老父はその侍の尊容に打たれて代金を辞退したところ傍らにあつた木片を取らせ馬上で『馬頭観世音』と書いて渡し『必ずこれを信仰せよ、御利益があるであらう』と言って立ち去ったと云う、俗にこれをコッパ観音とも云う。老父はそれを家に安置したところ光明を放つたので、恐れを抱いて橋場の岩出山の岩間に
祀ったところ一層赫々と光明を放ったので、忽近郷近在の評判となり来拝するものが多くなったので、近隣の助力を得て、この木片に観世音菩薩と刻み京都まで出掛けて妙心寺の名僧愚堂国師の開眼を受けて持ち帰り、一宇を建立して、奉安したところ 信仰する者多く、
縁日(一月十七日、二月の初午)には遠くから大勢御詣りに来られる様になった様です。
毎年一月十七日 初観音縁日、1月の初午縁日は午前十時半より法要を行っております。福ダルマ、お守り、お札の頒布も行います。
大桑村須原 定勝寺
平成十四年一月十七日
掲示板寄贈
柳橋政明氏 」 -
【天長院】
当寺の往古は、室町時代木曽家祈願所として真言宗に属し、木曽東古道沿いの伊奈川大野の地に菊名山広徳寺としてありましたが、天文年間(1540~)武田軍或いは山賊に焼き討ちにより廃絶してしまったといわれています。
その後、文禄年間(1594~)定勝寺七代天心和尚を開山として旧地に禅宗地久山天長院として開かれ、街道の変遷により、寛文年間(1662~)地蔵堂のあった合いの宿平沢の現在地へ移転し現在に至っている。 -
ここは、天長院
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伊奈川
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著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用
「木曽路駅 野尻 伊奈川橋遠景 英泉画」
伊奈川を伊奈川橋で渡ります、英泉は野尻としてこの伊奈川と伊奈川橋を描いています。
文化2年(1805年)刊の木曽路名所図会に伊奈川は「水流奔騰(ほんとう)して其声雷霆(らいてい)の如し、水漲(みなぎ)りて畏るべし」と著されています。
橋脚を立てても、一旦増水すると、流れ来る大石で破壊されてしまうため、橋脚の要らない刎橋(はねばし)が架橋されました。
画面左上に岩出観音がシルエットとして描かれています。 -
JR野尻駅まで、あと100mです。
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野尻宿の”西のはずれ”
宿の終わりを意味します。 -
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本日の宿、あてら荘です。
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風景遠望
一番左の峰が、木曽駒ケ岳の頂上です。その二つ右の峰が宝剣岳です。丁度、駒ヶ根の真西辺りにいます。
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