2009/11/13 - 2009/11/13
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ムッシュさん
編集中
妻籠宿を、散策しましょう
妻籠宿 第四十二宿(日本橋より322.5km)
島崎藤村は、「木曽路はすべて山の中である」と書いたが、彼の脳裏にあったのは、妻籠、馬籠に象徴されるこの原風景であったに違いない。かっての宿場町の趣をよく保っており、木曽路の代名詞ともいえる景観を形成してる。
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著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用
【木曽海道六拾九次之内 妻籠 (広重)】
広重は妻籠として画面の左に恵那山、中央に妻籠宿に向かう峠道、そして右手に妻籠城があった城山を描きました。
妻籠城主の木曽義昌は甲斐の武田信玄に従属していましたが、天正10年(1582年)武田勝頼を裏切り、織田信長に寝返りました。
信長はこれを機に甲斐の武田勝頼を攻め滅ぼしました。
天正12年(1584年)小牧長久手の戦いに際し、木曽義昌は徳川家康に従っていましたが、羽柴秀吉に寝返りました。
天正14年(1586年)秀吉と家康は講和を結び、義昌は再び家康の傘下に入りました、戦国時代を器用に泳ぎ切った義昌でしたが、晩年は家康に嫌われ、天正18年(1590年)下総國阿知戸一万石に移封され、失意のまま文禄4年(1595年)没しました。 -
南木曽方面から、妻籠宿に到着です。
妻籠宿内を散策しましょう。
天保14年(1843年)の頃、妻籠宿の宿内家数は83軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠31軒で、宿内人口は418人でした。 -
【”高札場”】
宿場の出入り口辺りの共同掲示板です。
今日で言う「官報掲示板」で、幕府が庶民に対し禁制やご法度を示したもの。
お上の御威光そのままに、見下ろすような高さに掲げられてる。
高さ二間、長さ二間、横五尺五寸と往時の通りに復元されています、次いで左手に水車小屋があり稼働しています。 -
現役の水車小屋です
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土産物屋の岩井
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建物は出梁により二階を張り出した切妻造、平入りが特徴で、江戸時代末期から明治にかけて再建されたものが多く、大規模な建物も残されています。
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そばの よしむら さん
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渋柿を皮を剥かずに藁でくるみ、甘く熟すのを待つ「つとっこ」というもので、秋の風物詩
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渋柿を皮を剥かずに藁でくるみ、甘く熟すのを待つ「つとっこ」というもので、秋の風物詩
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手打ち蕎麦屋さん えのき坂本店
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妻後宿は、入り口付近が下町、そして中町、上町と続き一番京都側が寺下と呼ばれている
木曽11宿では一番小さい宿場であった。住民のほとんどが宿場関係の従事者であった
従って、明治になり宿場が廃止されると急速に寂れてしまった
それが、却って昔の宿場の姿を留めたまま残され日本で白川村、京都の産寧坂と並んで、最初に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された -
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和菓子屋さん えびや茶房 店内ショッピング可能
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そば、五平餅の湯屋さん
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旅人宿 坂本屋(現在は閉業)
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民宿坂本や(現在 閉業)
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【本陣跡】
脇本陣とあったところで、木曽路歴史資料館となっている
島崎藤村の母ぬいはこの妻籠本陣の出である
藤村の次兄島崎広助は、ここに養子に入っている
「妻籠宿の本陣は、代々島崎氏が務めました。馬籠の島崎氏とは同族で、幕末にも妻籠から「ぬい」が、馬籠の正樹(「夜明け前」の主人公青山半蔵)のもとに嫁ぎました。
七人の子供をもうけ、末子が春樹(近代の文豪島崎藤村)でした。藤村の次兄広助は妻籠宿本陣の養子となり、最後の当主となりました。
その後本陣は取り壊されましたが、平成七年に江戸時代後期の見取図を元に忠実に復元されたのが現在の建物です。」 -
これは、妻籠宿本陣”です。
ナント、あの文豪、島崎藤村の母の生家であり、最後の当主は、藤村の実兄で馬籠から叔父の所に養子にきた広介だった。
明治に本陣は壊されたが、平成7年に、島崎家所蔵の江戸後期の図面を元に復原された。 -
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上町に入ると右手に妻籠郵便局があります、郵便資料館になっています、当初は本陣敷地に、明治6年(1873年)3月妻籠郵便御用取扱所として開設されました。
島崎藤村の「夜明け前」にも開局当時の様子が描かれている。妻籠郵便局である
全国で唯一の黒いポストが復元されている -
郵便資料館
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ます形(桝形)
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【桝形部】
ここで直角に曲がり、下り坂です。
江戸時代のはじめに制定された宿場は、一種の城塞の役割も持たされて整備され、宿場の出入口には必ず枡形が設けられた。宿場の桝形とは、街道を二度に直角に曲げ、外敵が侵入しにくいようにしたものである。
この妻籠宿の桝形は、明治三十二年からの大平(おおだいら)街道の改修工事により、その上部斜面を掘り割られているが、よく当時の姿を伝えている。 -
桝形に立つ常夜灯と、後方は、下丁子屋(宿坊)
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この角地を【”枡形”】と呼びます。
右から来て、左に曲がり、下ります。
宿場は、幕府からのお達しにより、防塞施設として、敵の侵入を阻むために”道”を二度直角に折り曲げた「桝形」が作られた。
この角と左を少し下ると、次の直角があります。
これが往時のまま保存されている。
表は、土産物屋です -
同じく桝形の道、左は下丁子屋さん。フォトは坂の下より見上げてる。
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桝形を2度目に曲がった場所から、街道を眺める。
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これは、旅の思い出に、描いた油絵です。(マイ作品) サイズF15号
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松代屋旅館さんです
江戸時代から営業している旅館「松代屋」 -
丸田屋さん(インテリア土産物屋)
「この下嵯峨屋は、建造当初長屋であったものの一戸分を昭和四十三年に解体復元したものである。
妻籠宿における庶民の住居を代表する、片土間に並列二間取の形式をよくとどめている。】 昭和四十九年十一月三日 南木曽町教育委員会 -
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通りには、水舟
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2階が張り出している出梁(だしばり)造りで
細い格子(縦繁格子、たてしげごうし))の並ぶ家並みが続いている -
【寺下の町並み】
2階が張り出している出梁(だしばり)造りで
細い格子(縦繁格子、たてしげごうし))の並ぶ家並みが続いている -
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和菓子屋 澤田屋妻籠店
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ここは衣料品店 OBARAJUN
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防火用水
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新まきの土産物店
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郷原酒店と売店
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