2009/08/10 - 2009/08/15
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fukubaraさん
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2009夏、盆連休を利用して韓国南部の地方都市を巡回してきました。各都市の訪問記を連載する予定です。
やや小説仕立てですが、全てドキュメンタリーです。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 船 自転車 タクシー
-
8月10日9:10、韓国鉄道(以下KR)釜山発急行ムグンファ7号車、窓側9番席の私の隣に若い女が座った。片言で自己紹介位できたが、旅始めの緊張が先立ち躊躇する内、女は眠りに落ちた。
秀吉による文禄慶長役は小西行長ら先鋒の快進撃で幕を開けた。釜山市内諸城撃破し密陽へ向け北上、密陽府使・朴晋は約10キロ手前、鵲院(チャグォン)関に兵を集めた。この一帯は山裾が洛東江の際迄迫り、漢陽(ソウル)への街道も三国志に出てくる蜀桟道の如くで、その終端を扼す鵲院関の死守は倭軍侵攻を阻む上で必須だった。
手前駅を通過したのを確認し、桟道付近地形を観察せんと女の眠りを破り、その膝を擦り抜けてデッキへ出た。指定席が最後車両だったお陰で後ろの風景を広角に捉える事ができた。動画撮影してると不意に車掌に呼びかけられた。検札を避けデッキに隠れたものと怪しみ、女が密告したに違いない。 -
9時46分、三浪津下車、タクシーに乗ると鵲院関址迄6,000W(480円。以下0.08掛けて円換算して下さい)と云う。本来メータを倒すべき。しかもすぐ着いたので「正直5,000Wデエーヤロ」と迫ると運転手はビビって反論しなかった。
木造の拱雲楼が石造の捍南門の上に載る。付近に2001年建造の壬乱(壬辰倭乱の略、文禄慶長役の韓国側呼称。以下、文禄慶長役を壬乱に統一する)殉節勇士慰霊碑がある。
関を敵兵が固めてる事を察した倭軍は、桟道は渡らず後山を蟻が這う様に攀じ登り背後に回ったので、密陽兵は戦わずして逃亡した。 -
駅迄歩き再びタクシーで密陽へ。KR隣駅と気楽に構えてたが、17,000Wも要した。
韓国の城は都邑全体を城壁で囲む邑城が主流だが、密陽江に隣接する丘の頂上に邑城の復元城壁があった。城壁内側では主婦集団がシートを広げ弁当を食っており、城壁上を欧人若者が独り歩いてる。
朴晋は鵲院関陥落を知るや武器庫・食糧庫に自ら火を放ち山奥へ逃げた。釜山僉使・東莱(トンネ)府使が城を枕に討死したのに比べ、その後の地方武官は軟弱さが目立つ。士気低下させ戦況一層不利にした事は否めない。
丘中腹の嶺南楼内は、密陽江を渡る風が通り抜け涼しい。正午の時報と倶に川面から噴水が吹きあがる。 -
密陽駅迄婦人とタクシー相乗りし、12:36発急行で大邱(テグ)13:24着、タクシーで北部市外バスターミナルに。
韓国第4の市・大邱には壬乱時も周辺兵力が真っ先に集められたが、釜山密陽戦況を噂に聞いた兵士らは倭軍到着前に雲散した。
出発迄15分を利用しターミナル前ロッテリアに走り、プルコギバーガを注文したが、注文を受けて調理し始めた。焦る私を見てレジ女も厨房を催促してくれた。
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