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 岩船(新潟県村上市)の古刹諸上寺は大化年間(645〜650年)の創建とも言われている。この年代は斉明天皇の御世であり、磐舟柵が造られた大化4年(648年)に合致している。花の寺とも呼ばれ、春には庭園にサクラのほか、ツバキやツツジが咲く。古くは天台宗「感応寺」と呼ばれ、この地方の名称「神納」もここから由来しているという。当時の国人本庄繁長が、天正元年(1573)耕雲寺第13世の巖室文松禅師を迎え、再興し現在に至っている。寺名は分福茶釜伝説との関係はない。現在の本堂は文久9年(1826)の火災の後に再建されたものである。この寺は小学生か中学生の時に写生会で訪れた思い出がある。重要文化財になっている目黒家(新潟県魚沼市須原768)の玄関の萱葺き屋根よりも立派で大きな萱葺き屋根を裏の庭に入って写生したのである。それも今では銅版を被って趣がなくなってしまっている。大きな本堂の欄間には彫刻が施されている。菊のご紋(写真写りが悪いため確認できない)と3点の兎の彫刻である。なお、山門上部にも彫刻が施されている。<br /> 裏の諸上寺山は現在では諸上寺公園になっており、染井吉野と八重桜が植えられ、桜の名所となっている。山道にはカタクリが群生している。個人的には、10数年前の暖冬の1月に帰省した時に山頂に車で登り、雪のない新潟平野と日本海、それに佐渡島と粟島を眼下に一望できた時の感動は忘れられない。全てが輝いていた。<br /> 余談になるが、参道入り口には延喜式に磐舟郡8座の筆頭に記されている石船神社が鎮座している。新潟県内では、「弥彦神社」につぐ古い神社で、磐舟柵が造られた大化4年(648年)に一緒に創られたとも言われている。80を過ぎた神社の神職に話を聞くと、6世紀に蘇我氏に敗れた物部氏が落ち延びて来てここに神社(祭神は饒速日命)を祀ったのであろうとのことである。境内には大正時代に建てられた「磐船柵跡」と彫られた磐舟柵石碑がある。境内ではなく、諸上寺を想定する者もいる。地元郷土史家の波済健氏は諸上寺の南面の伽藍配置や境域の面積、中門、大門の旧位置を調査し、大宰府政庁との近似性を指摘して諸上寺政庁説を説いている。筆者は古代の琵琶潟(岩船潟)を舟で渡り、古代の山辺里川(門前川)を多少上った辺り、具体的には村上市山屋から村上市日下にかけた丘陵部ではないかとぼんやりと思っている。今では磐舟柵の発掘をライフワークにと考えている。<br /> 岩船神社の境内には2つの芭蕉句碑もある。一つは赤い大鳥居の手前に、「花咲きて七日鶴見る麓かな」の句碑があり、もう一つは「岩船神社」の石碑近くの松の木の根方に、「文月や六日も常の夜には似ず」の『奥の細道』越後路の一句が刻まれた句碑がある。芭蕉の有名な句「荒海や佐渡に横たふ天の河」は北の地から見ないと読めないはず。岩船郡のいずれかの地での情景であろう。瀬波湊付近か岩船湊付近であっても構わないはず。

諸上寺の欄間彫刻

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2009/05 - 2009/05

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ドクターキムル

ドクターキムルさん

 岩船(新潟県村上市)の古刹諸上寺は大化年間(645〜650年)の創建とも言われている。この年代は斉明天皇の御世であり、磐舟柵が造られた大化4年(648年)に合致している。花の寺とも呼ばれ、春には庭園にサクラのほか、ツバキやツツジが咲く。古くは天台宗「感応寺」と呼ばれ、この地方の名称「神納」もここから由来しているという。当時の国人本庄繁長が、天正元年(1573)耕雲寺第13世の巖室文松禅師を迎え、再興し現在に至っている。寺名は分福茶釜伝説との関係はない。現在の本堂は文久9年(1826)の火災の後に再建されたものである。この寺は小学生か中学生の時に写生会で訪れた思い出がある。重要文化財になっている目黒家(新潟県魚沼市須原768)の玄関の萱葺き屋根よりも立派で大きな萱葺き屋根を裏の庭に入って写生したのである。それも今では銅版を被って趣がなくなってしまっている。大きな本堂の欄間には彫刻が施されている。菊のご紋(写真写りが悪いため確認できない)と3点の兎の彫刻である。なお、山門上部にも彫刻が施されている。
 裏の諸上寺山は現在では諸上寺公園になっており、染井吉野と八重桜が植えられ、桜の名所となっている。山道にはカタクリが群生している。個人的には、10数年前の暖冬の1月に帰省した時に山頂に車で登り、雪のない新潟平野と日本海、それに佐渡島と粟島を眼下に一望できた時の感動は忘れられない。全てが輝いていた。
 余談になるが、参道入り口には延喜式に磐舟郡8座の筆頭に記されている石船神社が鎮座している。新潟県内では、「弥彦神社」につぐ古い神社で、磐舟柵が造られた大化4年(648年)に一緒に創られたとも言われている。80を過ぎた神社の神職に話を聞くと、6世紀に蘇我氏に敗れた物部氏が落ち延びて来てここに神社(祭神は饒速日命)を祀ったのであろうとのことである。境内には大正時代に建てられた「磐船柵跡」と彫られた磐舟柵石碑がある。境内ではなく、諸上寺を想定する者もいる。地元郷土史家の波済健氏は諸上寺の南面の伽藍配置や境域の面積、中門、大門の旧位置を調査し、大宰府政庁との近似性を指摘して諸上寺政庁説を説いている。筆者は古代の琵琶潟(岩船潟)を舟で渡り、古代の山辺里川(門前川)を多少上った辺り、具体的には村上市山屋から村上市日下にかけた丘陵部ではないかとぼんやりと思っている。今では磐舟柵の発掘をライフワークにと考えている。
 岩船神社の境内には2つの芭蕉句碑もある。一つは赤い大鳥居の手前に、「花咲きて七日鶴見る麓かな」の句碑があり、もう一つは「岩船神社」の石碑近くの松の木の根方に、「文月や六日も常の夜には似ず」の『奥の細道』越後路の一句が刻まれた句碑がある。芭蕉の有名な句「荒海や佐渡に横たふ天の河」は北の地から見ないと読めないはず。岩船郡のいずれかの地での情景であろう。瀬波湊付近か岩船湊付近であっても構わないはず。

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  • 良く見ると菊のご紋が彫られている。

    良く見ると菊のご紋が彫られている。

  • 諸上寺本堂の兎が彫られた欄間彫刻(右)(彩色が施されているようにも見える)。最近ではこの地域では蛇と兎が減ってほとんど見かけなくなってきているそうだ。この欄間彫刻を見て、「岩船にも兎がいたのかな。」などと言うのを耳にする日が来ないように願っている。

    諸上寺本堂の兎が彫られた欄間彫刻(右)(彩色が施されているようにも見える)。最近ではこの地域では蛇と兎が減ってほとんど見かけなくなってきているそうだ。この欄間彫刻を見て、「岩船にも兎がいたのかな。」などと言うのを耳にする日が来ないように願っている。

  • 諸上寺本堂の兎が彫られた欄間彫刻(中央)(彩色が施されているようにも見える)。

    諸上寺本堂の兎が彫られた欄間彫刻(中央)(彩色が施されているようにも見える)。

  • 諸上寺本堂の兎が彫られた欄間彫刻(左)(彩色が施されているようにも見える)。

    諸上寺本堂の兎が彫られた欄間彫刻(左)(彩色が施されているようにも見える)。

  • 近くの石船神社にある「磐船柵跡」石碑。神社境内には2つの芭蕉の句碑もある。

    近くの石船神社にある「磐船柵跡」石碑。神社境内には2つの芭蕉の句碑もある。

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