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2009/07/10金 クリミア半島2日目(現地英語ガイド&車付)<br />ヤルタ近郊めぐり<br />・聖ミハイル教会(アルプカに向かう途中)<br />・アルプカ宮殿&庭園<br />・ツバメの巣の写真を撮る<br />・オレアンダー・サナトリウムの巨大なプラタナスとニコライ2世王室教会<br />・リヴァーディア宮殿<br />・ニキーツキー植物園<br />(マサンドラ宮殿は大雨で断念)<br />ホテルに戻った後<br />・ヤルタの海岸沿いのプロムナードを一人で散策<br />【ヤルタ泊:ホテル・ブリストル(Bristol)】<br /><br />「ヒロシマに原爆は必要なかった。全く必要なかった」<br />リヴァーディア宮殿を見学中、現地ガイドのニーナは何度もそう言いました。<br />それが一番印象的だったので、たくさんたくさんしてもらったニーナの他の説明は、記憶に残りませんでした。<br />……と言ったら、記憶力の悪さを責任転換しただけかしら。<br /><br />でも、ニーナは説明の最中、「聞くことに集中しなさい」とメモをとらせてくれませんでした。<br />もともと近現代史にうとい私にとって、初耳に近かったことばかりだったから、忘れてしまっても無理ないと思うんです。<br />ただし、あのヤルタ会談の現場はここなんだ!───という感動は確かにありました。じわじわと。<br />試験や受験のために覚えた知識が、紙の上だけのものでなくなったのです。<br /><br />よく見かけるヤルタ会談のときのチャーチルやルーズベルトたちの写真が、実はドキュメンタリーフィルムからとってきたものだったということも印象的でした。<br />ニーナは付け加えのようにぼそっと言っただけでしたが。<br /><br />2階に残された、ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世の家族の部屋も印象的でした。<br />ニコライ2世がとても家族愛にあふれた皇帝であったことは有名です。<br />2階に残る皇帝一家の部屋は、庶民の私の目にも心地よさそうな空間で、仲睦ましい家族の様子が伺えました。<br />たくさん残っていた写真も、背景はいま自分がいるヤルタだったり、昨日車で越えたアイ・ペトリ山頂だったり。<br />名前だけ知っていて私にとっては紙の上の存在だった人物たちが、かつて肉体をもっていた人間として再現されました。<br /><br />リヴァーディア宮殿では、併設のギフトショップでの買い物も楽しかったです。<br />ニーナが薦める店なので、品物は確かでしょうから、おみやげはここでほとんどそろえてしまえ!───と思ったので。<br />ここでまとめて買えばカードで支払いができて、現金を下ろす回数が減ります。<br />ガイドがお薦めするところなんて、マージンをもらってるかもしれないから怪しい?<br />実は、ここで買ったものを、他で全く見かけなかったわけではないです。もう買ってしまったから、その際に値段を比べたりしませんでしたけど。<br />でもね、私一人しか案内しないのに、マージンも何もないと思うんですよ。<br />それにニーナは、ガイドしてる私に金を使わせようにするより、節約できるなら節約を薦めていました。<br />他でも店を薦めてくれたとき、「ここなら安くて品質もよいのよ」と言って、どのくらいお得なのか、具体的な数字も挙げて自慢したこともあったくらいでした。<br /><br />リヴァーディア宮殿併設のギフトショップで買ったものがある写真<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/16662517/<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/16662518/<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/16662519/<br />関連の旅行記<br />「2009年ウクライナ・ハイライトその8:ウクライナでゲットしたもの」<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10361990/<br /><br />「リヴァーディア<br /> 皇帝ニコライ2世の夏の別荘として1911年に建てられたリヴァーディア宮殿は、有名なヤルタ会談が行われた場所。周りの庭園は美しく手入れされ、宮殿内部も一般公開されている。<br /> 1階は会談当時の様子が再現され、歴史の現場に“いる”という感慨が沸いてくる。会談が行われた有名な円卓はもとより、ルーズベルトの寝室や食堂、中庭など、歴史的写真や新聞記事などが添えられ、雰囲気を盛り上げてくれる。<br /> 2階は皇帝一家の展示で占められていて、家具や写真、皇女たちの自筆の絵などが並んでいる。帝政時代を再評価する今の時世を反映して、こちらの展示のほうも非常に人気が高いようだ。」<br />(「地球の歩き方ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、コーサカスの国々」(&#39;08〜’09年版)より)<br /><br />※2009年ウクライナ旅行の旅程一覧はこちら。<br />簡易版「2009年ウクライナ旅行プロローグ(旅程一覧)地図付」<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10359084/<br />詳細版「2009年ウクライナ旅行の詳細旅程」(もう1つのブログ「まみ’s Travel Diary」より)<br />http://mami1.cocolog-nifty.com/travel_diary1/2009/07/2009-2271.html<br />

2009年ウクライナ旅行第6日目(4)ヤルタ:ヤルタ会談が行われたリヴァーディア宮殿

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2009/07/10 - 2009/07/10

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まみ

まみさん

2009/07/10金 クリミア半島2日目(現地英語ガイド&車付)
ヤルタ近郊めぐり
・聖ミハイル教会(アルプカに向かう途中)
・アルプカ宮殿&庭園
・ツバメの巣の写真を撮る
・オレアンダー・サナトリウムの巨大なプラタナスとニコライ2世王室教会
・リヴァーディア宮殿
・ニキーツキー植物園
(マサンドラ宮殿は大雨で断念)
ホテルに戻った後
・ヤルタの海岸沿いのプロムナードを一人で散策
【ヤルタ泊:ホテル・ブリストル(Bristol)】

「ヒロシマに原爆は必要なかった。全く必要なかった」
リヴァーディア宮殿を見学中、現地ガイドのニーナは何度もそう言いました。
それが一番印象的だったので、たくさんたくさんしてもらったニーナの他の説明は、記憶に残りませんでした。
……と言ったら、記憶力の悪さを責任転換しただけかしら。

でも、ニーナは説明の最中、「聞くことに集中しなさい」とメモをとらせてくれませんでした。
もともと近現代史にうとい私にとって、初耳に近かったことばかりだったから、忘れてしまっても無理ないと思うんです。
ただし、あのヤルタ会談の現場はここなんだ!───という感動は確かにありました。じわじわと。
試験や受験のために覚えた知識が、紙の上だけのものでなくなったのです。

よく見かけるヤルタ会談のときのチャーチルやルーズベルトたちの写真が、実はドキュメンタリーフィルムからとってきたものだったということも印象的でした。
ニーナは付け加えのようにぼそっと言っただけでしたが。

2階に残された、ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世の家族の部屋も印象的でした。
ニコライ2世がとても家族愛にあふれた皇帝であったことは有名です。
2階に残る皇帝一家の部屋は、庶民の私の目にも心地よさそうな空間で、仲睦ましい家族の様子が伺えました。
たくさん残っていた写真も、背景はいま自分がいるヤルタだったり、昨日車で越えたアイ・ペトリ山頂だったり。
名前だけ知っていて私にとっては紙の上の存在だった人物たちが、かつて肉体をもっていた人間として再現されました。

リヴァーディア宮殿では、併設のギフトショップでの買い物も楽しかったです。
ニーナが薦める店なので、品物は確かでしょうから、おみやげはここでほとんどそろえてしまえ!───と思ったので。
ここでまとめて買えばカードで支払いができて、現金を下ろす回数が減ります。
ガイドがお薦めするところなんて、マージンをもらってるかもしれないから怪しい?
実は、ここで買ったものを、他で全く見かけなかったわけではないです。もう買ってしまったから、その際に値段を比べたりしませんでしたけど。
でもね、私一人しか案内しないのに、マージンも何もないと思うんですよ。
それにニーナは、ガイドしてる私に金を使わせようにするより、節約できるなら節約を薦めていました。
他でも店を薦めてくれたとき、「ここなら安くて品質もよいのよ」と言って、どのくらいお得なのか、具体的な数字も挙げて自慢したこともあったくらいでした。

リヴァーディア宮殿併設のギフトショップで買ったものがある写真
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/16662517/
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/16662518/
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/16662519/
関連の旅行記
「2009年ウクライナ・ハイライトその8:ウクライナでゲットしたもの」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10361990/

「リヴァーディア
 皇帝ニコライ2世の夏の別荘として1911年に建てられたリヴァーディア宮殿は、有名なヤルタ会談が行われた場所。周りの庭園は美しく手入れされ、宮殿内部も一般公開されている。
 1階は会談当時の様子が再現され、歴史の現場に“いる”という感慨が沸いてくる。会談が行われた有名な円卓はもとより、ルーズベルトの寝室や食堂、中庭など、歴史的写真や新聞記事などが添えられ、雰囲気を盛り上げてくれる。
 2階は皇帝一家の展示で占められていて、家具や写真、皇女たちの自筆の絵などが並んでいる。帝政時代を再評価する今の時世を反映して、こちらの展示のほうも非常に人気が高いようだ。」
(「地球の歩き方ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、コーサカスの国々」('08〜’09年版)より)

※2009年ウクライナ旅行の旅程一覧はこちら。
簡易版「2009年ウクライナ旅行プロローグ(旅程一覧)地図付」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10359084/
詳細版「2009年ウクライナ旅行の詳細旅程」(もう1つのブログ「まみ’s Travel Diary」より)
http://mami1.cocolog-nifty.com/travel_diary1/2009/07/2009-2271.html

  • 宮殿というより別荘という風情のリヴアーディア宮殿<br /><br />「(前略)ロマノフ王朝の中初めてクリミアで別荘を作ったのはアレクサンドル1世であった。クリミア半島の旅行の時に、オレアンダという地方が非常に気に入って、そこで土地を買った。彼がなくなった後、その別荘はニコライ1世の財産になった。1860年にニコライ2世がリバーディア宮殿を別荘として購入した。その別荘があった地域が段々発展してきた。19世紀―20世紀の始め頃にクリミアの南部にはヤルタ会談が行われたリバーディア宮殿だけでなく、現在クリミアの名所である立派な宮殿が次々と建築された。それと同時に転地治療が研究されていて、きれいな空気、薬草などで恵まれたクリミア半島が貴族のリゾート地になった。(後略)」<br />(ウクライナ政府観光通商センター公式サイトのウクライナ観光情報「クリミアの歴史」より)<br />http://www.unttc.com/Crimea.html<br />

    宮殿というより別荘という風情のリヴアーディア宮殿

    「(前略)ロマノフ王朝の中初めてクリミアで別荘を作ったのはアレクサンドル1世であった。クリミア半島の旅行の時に、オレアンダという地方が非常に気に入って、そこで土地を買った。彼がなくなった後、その別荘はニコライ1世の財産になった。1860年にニコライ2世がリバーディア宮殿を別荘として購入した。その別荘があった地域が段々発展してきた。19世紀―20世紀の始め頃にクリミアの南部にはヤルタ会談が行われたリバーディア宮殿だけでなく、現在クリミアの名所である立派な宮殿が次々と建築された。それと同時に転地治療が研究されていて、きれいな空気、薬草などで恵まれたクリミア半島が貴族のリゾート地になった。(後略)」
    (ウクライナ政府観光通商センター公式サイトのウクライナ観光情報「クリミアの歴史」より)
    http://www.unttc.com/Crimea.html

  • ヤシの木と噴水の組合せが南欧風の印象を与える中庭

    ヤシの木と噴水の組合せが南欧風の印象を与える中庭

  • 中庭を囲む回廊

    中庭を囲む回廊

  • 有名なヤルタ会談の円卓<br /><br />この場所で、1945年2月、チャーチルとルーズベルトとスターリンによって、第二次世界大戦後の主な世界地図が当事国抜きで決められました。<br />

    有名なヤルタ会談の円卓

    この場所で、1945年2月、チャーチルとルーズベルトとスターリンによって、第二次世界大戦後の主な世界地図が当事国抜きで決められました。

  • この部屋に飾られていた、ヤルタ会談のときの写真<br /><br />ドキュメンタリーフィルムから作られた写真です。<br />ニーナいわく、クリミアが会談の場所に選ばれた理由の一つに、気候が温暖で、そのとき病気だったチャーチルの体には良かったからだそうです。<br />あとは、スターリンがなるべく自分が早く駆けつけやすいようにソ連に近いところを選んだということも言っていたかな。<br />

    この部屋に飾られていた、ヤルタ会談のときの写真

    ドキュメンタリーフィルムから作られた写真です。
    ニーナいわく、クリミアが会談の場所に選ばれた理由の一つに、気候が温暖で、そのとき病気だったチャーチルの体には良かったからだそうです。
    あとは、スターリンがなるべく自分が早く駆けつけやすいようにソ連に近いところを選んだということも言っていたかな。

  • ヤルタ会議の出席者たちが会食した部屋<br /><br />美しい天井を目立たせるように撮ってみました。<br />

    ヤルタ会議の出席者たちが会食した部屋

    美しい天井を目立たせるように撮ってみました。

  • ヤルタ会議の出席者たちが会食した部屋<br /><br />ヨコの構図でどっしりと撮ってみました。<br />

    ヤルタ会議の出席者たちが会食した部屋

    ヨコの構図でどっしりと撮ってみました。

  • ヤルタ会議の出席者たちが会食した部屋<br /><br />テーブルに少しズームして撮ってみました。<br />3枚もしつこく撮りましたが、実は団体客を避けるようにして、円卓会議室とこのダイニング・ルームを行ったりきたりしたせいでした。<br />

    ヤルタ会議の出席者たちが会食した部屋

    テーブルに少しズームして撮ってみました。
    3枚もしつこく撮りましたが、実は団体客を避けるようにして、円卓会議室とこのダイニング・ルームを行ったりきたりしたせいでした。

  • ルーズベルトとスターリンの2人だけで会談した部屋<br /><br />そのことを示す、ルーズベルトとスターリンの写真があります。<br />

    ルーズベルトとスターリンの2人だけで会談した部屋

    そのことを示す、ルーズベルトとスターリンの写真があります。

  • ルーズベルトとスターリンの2人だけで会談した部屋<br /><br />すでに国連創設とヒットラーの敗北は決まっていた後で、ここで決定されたのは日本への攻撃です。<br />いわば極東密約がなされた部屋です。<br />密約には、最初はのけものにされたチャーチルももちろんかかわっています。<br />ニーナはここでも、広島と長崎の原爆は終戦のために必要なかった、と繰り返しました。<br />

    ルーズベルトとスターリンの2人だけで会談した部屋

    すでに国連創設とヒットラーの敗北は決まっていた後で、ここで決定されたのは日本への攻撃です。
    いわば極東密約がなされた部屋です。
    密約には、最初はのけものにされたチャーチルももちろんかかわっています。
    ニーナはここでも、広島と長崎の原爆は終戦のために必要なかった、と繰り返しました。

  • ベネチアガラスで初めて作られた電気のシャンデリア<br /><br />ルーズベルトとスターリンの2人だけで会談した部屋のシャンデリアです。<br />作られたのはもちろん、ヤルタ会談のためではなく、ニコライ2世の別荘だった当時です。<br />

    ベネチアガラスで初めて作られた電気のシャンデリア

    ルーズベルトとスターリンの2人だけで会談した部屋のシャンデリアです。
    作られたのはもちろん、ヤルタ会談のためではなく、ニコライ2世の別荘だった当時です。

  • 隣の部屋の内装は帝政ロシア風

    隣の部屋の内装は帝政ロシア風

  • こちらのダイニング・ルームの内装はイギリスのジョージ王朝風<br /><br />リヴァーディア宮殿は、さまざまな様式によって建てられた、とても美しい宮殿でした。<br />

    こちらのダイニング・ルームの内装はイギリスのジョージ王朝風

    リヴァーディア宮殿は、さまざまな様式によって建てられた、とても美しい宮殿でした。

  • イギリスのジョージ王朝風の内装のダイニング・ルーム<br /><br />ヤルタ会談の三国の旗がテーブルに立っています。<br />彼らが食べたメニューも展示されてあります。<br />奥には、チャーチルとルーズベルトとスターリンがそろった有名な写真が展示されていました。<br />それも、ドキュメンタリーフィルムから切り取った写真です。<br />

    イギリスのジョージ王朝風の内装のダイニング・ルーム

    ヤルタ会談の三国の旗がテーブルに立っています。
    彼らが食べたメニューも展示されてあります。
    奥には、チャーチルとルーズベルトとスターリンがそろった有名な写真が展示されていました。
    それも、ドキュメンタリーフィルムから切り取った写真です。

  • ヤルタ会談、ドキュメンタリーフィルムから切り取って作られた写真<br /><br />ダイニング・テーブルの奥に展示されていた写真と同じです。廊下にもありました。<br />

    ヤルタ会談、ドキュメンタリーフィルムから切り取って作られた写真

    ダイニング・テーブルの奥に展示されていた写真と同じです。廊下にもありました。

  • 部屋から部屋へ移動中に中庭を望む

    部屋から部屋へ移動中に中庭を望む

  • アラビアンなタイルのある中庭

    アラビアンなタイルのある中庭

  • アラビアンなタイル

    アラビアンなタイル

  • リヴァーディア宮殿が建てられた当初のステンドグラス

    リヴァーディア宮殿が建てられた当初のステンドグラス

  • リヴアーディア宮殿の設計者である建築家クラスノフの写真<br /><br />廊下に展示されていました。<br />彼はこの宮殿をロンドンで設計しました。全体的にイタリア・ネルサンス様式でまとめました。<br />ただし、彼自身は建築に携わっていないそうです。<br />

    リヴアーディア宮殿の設計者である建築家クラスノフの写真

    廊下に展示されていました。
    彼はこの宮殿をロンドンで設計しました。全体的にイタリア・ネルサンス様式でまとめました。
    ただし、彼自身は建築に携わっていないそうです。

  • ニコライ2世一家が使った当時の様子が保存されている2階

    ニコライ2世一家が使った当時の様子が保存されている2階

  • 温かみの感じられる部屋

    温かみの感じられる部屋

  • 皇族といっても、こんなシンプルなベッドに寝ていた<br /><br />ニコライ2世の奥さんの皇后アレクサンドラ・フョードロヴナと、息子のアレクセイ皇太子です。<br />そしてニーナも私も注目したのは、彼女が寝ているベッドです。<br />皇族とはいっても、こんなシンプルなベッドに寝ていたわけです。<br /><br />

    皇族といっても、こんなシンプルなベッドに寝ていた

    ニコライ2世の奥さんの皇后アレクサンドラ・フョードロヴナと、息子のアレクセイ皇太子です。
    そしてニーナも私も注目したのは、彼女が寝ているベッドです。
    皇族とはいっても、こんなシンプルなベッドに寝ていたわけです。

  • 笑っている写真がめったにないという皇后アレクサンドラ<br /><br />フリー百科事典ウィキペディアによると、彼女は「家庭内では良妻賢母であったと言われる反面、迷信深く非社交的な性格であったため、当時のロシア国民の間の評判は良くなかった。無口で無表情な上に、極端に内気で必要最低限しか人前に現れないアレクサンドラは、周囲には傲慢で冷酷かつ無関心に映った。また、姑のマリア・フョードロヴナ皇太后とも不仲であったと言われる。アレクサンドラは意固地で、決して皇室に馴染もうと努力した姑を見習おうとはしなかった」とあります。<br />内外に多くの問題を抱えた沈みかけた近代の帝国の皇后の地位は、彼女みたいなタイプの女性はさぞかし荷が重かったろうと思います。<br /><br />ニコライ2世とアレクサンドラは恋愛結婚だったといいます。<br />恋は成就したけど結婚後の苦労が並大抵ではなかったわけてけすね。<br />ハプスブルグ帝国のフランツ・ヨーゼフ皇帝と皇后エリザベートを連想してしまいます。<br />

    笑っている写真がめったにないという皇后アレクサンドラ

    フリー百科事典ウィキペディアによると、彼女は「家庭内では良妻賢母であったと言われる反面、迷信深く非社交的な性格であったため、当時のロシア国民の間の評判は良くなかった。無口で無表情な上に、極端に内気で必要最低限しか人前に現れないアレクサンドラは、周囲には傲慢で冷酷かつ無関心に映った。また、姑のマリア・フョードロヴナ皇太后とも不仲であったと言われる。アレクサンドラは意固地で、決して皇室に馴染もうと努力した姑を見習おうとはしなかった」とあります。
    内外に多くの問題を抱えた沈みかけた近代の帝国の皇后の地位は、彼女みたいなタイプの女性はさぞかし荷が重かったろうと思います。

    ニコライ2世とアレクサンドラは恋愛結婚だったといいます。
    恋は成就したけど結婚後の苦労が並大抵ではなかったわけてけすね。
    ハプスブルグ帝国のフランツ・ヨーゼフ皇帝と皇后エリザベートを連想してしまいます。

  • 窓から黒海とヤルタを望む

    窓から黒海とヤルタを望む

  • 書斎

    書斎

  • 家族の写真やお出かけ先の絵や写真のある部屋<br /><br />左の壁に、ニコライ2世の家族の有名な写真があります。<br />また、アイ・ペトリ山頂からの景観を楽しむニコライ2世と皇后アレクサンドラ・フョードロヴナの写真もありました。<br />

    家族の写真やお出かけ先の絵や写真のある部屋

    左の壁に、ニコライ2世の家族の有名な写真があります。
    また、アイ・ペトリ山頂からの景観を楽しむニコライ2世と皇后アレクサンドラ・フョードロヴナの写真もありました。

  • リヴァーディア宮殿で買ったポストカードより、ニコライ2世の家族の有名な写真<br /><br />リヴァーディア宮殿でも写真の写真を撮ったのですが、ガラスが光ったりしてあまりきれいに撮れなかったので、ポストカードの写真にちょっとお化粧した写真で代用。<br />右下と左上に模様のようにムーンストーンのルースを乗っけました。<br />

    リヴァーディア宮殿で買ったポストカードより、ニコライ2世の家族の有名な写真

    リヴァーディア宮殿でも写真の写真を撮ったのですが、ガラスが光ったりしてあまりきれいに撮れなかったので、ポストカードの写真にちょっとお化粧した写真で代用。
    右下と左上に模様のようにムーンストーンのルースを乗っけました。

  • 家族の写真やお出かけ先の絵や写真のある部屋

    家族の写真やお出かけ先の絵や写真のある部屋

  • 皇帝一家のためのこぢんまりとしたダイニング・テーブル

    皇帝一家のためのこぢんまりとしたダイニング・テーブル

  • ここで使われる食器などを収めた棚と

    ここで使われる食器などを収めた棚と

  • ヤルタの海岸でくつろぐニコライ2世らの写真の1枚<br /><br />右端がラスプーチン暗殺首謀者のドミートリィです。かなりのハンサム・ボーイです。<br /><br />私のこのあたりのロシア史に興味をもったのは池田理代子さんのコミック「オルフェウスの窓」がきっかけだったりします。<br />そのコミックの影響もあって首謀者は皇帝の義弟ユスーポフ公爵だと思っていたのですが、ニーナはこの皇帝の従弟のドミートリィだと言っていました。<br />彼の名前は初耳でしたが、フリー百科事典ウィキペディアにドミートリィのことが載っていました。<br />一部引用します。<br /><br />「ドミトリー・パヴロヴィチ・ロマノフ大公(1891年9月18日 - 1941年3月5日)は、帝政ロシア末期の皇族。ロシア皇帝アレクサンドル2世の第6皇子パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公の長男で、最後の皇帝ニコライ2世の従弟にあたる。グリゴリー・ラスプーチン暗殺の実行者として知られる。<br />(中略)<br /> 1914年第一次世界大戦が勃発し、ロシアは、連合国側に立って参戦した。戦争の長期化に伴い最初の熱狂は失せ、ロシア国内は厭戦気分と帝政に対する不満が増大した。この間、皇后アレクサンドラの信任厚かったのがグリゴリー・ラスプーチンである。ラスプーチンの秘蹟によって血友病のアレクセイ皇太子は出血を止められると皇后は盲信し、ラスプーチンは皇后の権威を笠に着て閣僚人事に容喙するようになっていった。ドミトリー大公とユスポフ公らはラスプーチンを成り上がり者の国政の壟断と見なし、戦況の悪化とともに事態を憂慮するようになっていった。<br /> 1916年、ユスポフ公らと謀ってラスプーチンを殺害する。しかし、ラスプーチン暗殺によっても帝政の崩壊を食い止めることはかなわず、ドミトリーの運命も暗転する。尊崇していたラスプーチンを暗殺されたアレクサンドラ皇后は激怒し、ドミトリー大公はペルシャ戦線に派遣された。事実上、国外追放されたドミトリー大公であったが、前線への左遷は、結果的にドミトリー大公の生命をボリシェヴィキから救うこととなる。ロシア革命によりニコライ2世を始めとする皇帝一家全員、父パーヴェル大公、伯母エラ、異母弟ウラジーミル・パーリィなどロマノフ家の大部分の皇族は、ボリシェヴィキによって殺害された。<br /> 革命後、テヘラン、ムンバイを経てロンドンに亡命する。1919年には同様に国外に亡命していたユスポフ公と再会を果たすが、その後、王政復古をめぐり2人の間には懸隔が生じた。ユスポフ公の回想録によれば、ユスポフがロマノフ朝の復辟に熱心であったのに対し、ドミトリー大公は帝政の復活について全く実現性がないと見なしていたということであった。<br /> 亡命後もプレイボーイとしてならし、さまざまな女性と浮き名を流した。ココ・シャネルとも交際し、ロシア時代のコネクションで、シャネルの香水として有名な「NO.5」の調香・開発で知られるエルネスト・ボーを紹介するなど、彼女に少なからず影響を与えた。1927年にはアメリカ人の女富豪オードリー・エメリー夫人(w:Audrey Emery)と結婚し、2人の間には男の子が生まれたが1938年に離婚している。」<br />

    ヤルタの海岸でくつろぐニコライ2世らの写真の1枚

    右端がラスプーチン暗殺首謀者のドミートリィです。かなりのハンサム・ボーイです。

    私のこのあたりのロシア史に興味をもったのは池田理代子さんのコミック「オルフェウスの窓」がきっかけだったりします。
    そのコミックの影響もあって首謀者は皇帝の義弟ユスーポフ公爵だと思っていたのですが、ニーナはこの皇帝の従弟のドミートリィだと言っていました。
    彼の名前は初耳でしたが、フリー百科事典ウィキペディアにドミートリィのことが載っていました。
    一部引用します。

    「ドミトリー・パヴロヴィチ・ロマノフ大公(1891年9月18日 - 1941年3月5日)は、帝政ロシア末期の皇族。ロシア皇帝アレクサンドル2世の第6皇子パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公の長男で、最後の皇帝ニコライ2世の従弟にあたる。グリゴリー・ラスプーチン暗殺の実行者として知られる。
    (中略)
     1914年第一次世界大戦が勃発し、ロシアは、連合国側に立って参戦した。戦争の長期化に伴い最初の熱狂は失せ、ロシア国内は厭戦気分と帝政に対する不満が増大した。この間、皇后アレクサンドラの信任厚かったのがグリゴリー・ラスプーチンである。ラスプーチンの秘蹟によって血友病のアレクセイ皇太子は出血を止められると皇后は盲信し、ラスプーチンは皇后の権威を笠に着て閣僚人事に容喙するようになっていった。ドミトリー大公とユスポフ公らはラスプーチンを成り上がり者の国政の壟断と見なし、戦況の悪化とともに事態を憂慮するようになっていった。
     1916年、ユスポフ公らと謀ってラスプーチンを殺害する。しかし、ラスプーチン暗殺によっても帝政の崩壊を食い止めることはかなわず、ドミトリーの運命も暗転する。尊崇していたラスプーチンを暗殺されたアレクサンドラ皇后は激怒し、ドミトリー大公はペルシャ戦線に派遣された。事実上、国外追放されたドミトリー大公であったが、前線への左遷は、結果的にドミトリー大公の生命をボリシェヴィキから救うこととなる。ロシア革命によりニコライ2世を始めとする皇帝一家全員、父パーヴェル大公、伯母エラ、異母弟ウラジーミル・パーリィなどロマノフ家の大部分の皇族は、ボリシェヴィキによって殺害された。
     革命後、テヘラン、ムンバイを経てロンドンに亡命する。1919年には同様に国外に亡命していたユスポフ公と再会を果たすが、その後、王政復古をめぐり2人の間には懸隔が生じた。ユスポフ公の回想録によれば、ユスポフがロマノフ朝の復辟に熱心であったのに対し、ドミトリー大公は帝政の復活について全く実現性がないと見なしていたということであった。
     亡命後もプレイボーイとしてならし、さまざまな女性と浮き名を流した。ココ・シャネルとも交際し、ロシア時代のコネクションで、シャネルの香水として有名な「NO.5」の調香・開発で知られるエルネスト・ボーを紹介するなど、彼女に少なからず影響を与えた。1927年にはアメリカ人の女富豪オードリー・エメリー夫人(w:Audrey Emery)と結婚し、2人の間には男の子が生まれたが1938年に離婚している。」

  • リヴァーディア宮殿で買ったポストカードより、ニコライ2世の親兄弟たちの写真<br /><br />この部屋に展示されていた家族写真の1枚です。<br />中心にいるのは皇帝のアレクサンドル3世でニコライ2世の父親です。<br />すぐ後ろにいるのがニコライ2世で、左隣の女性は母親のマリア・フョードロヴナでしょう。<br />

    リヴァーディア宮殿で買ったポストカードより、ニコライ2世の親兄弟たちの写真

    この部屋に展示されていた家族写真の1枚です。
    中心にいるのは皇帝のアレクサンドル3世でニコライ2世の父親です。
    すぐ後ろにいるのがニコライ2世で、左隣の女性は母親のマリア・フョードロヴナでしょう。

  • 狩猟の獲物のある廊下<br /><br />2階の見学が終わって、1階に戻りました。<br />

    狩猟の獲物のある廊下

    2階の見学が終わって、1階に戻りました。

  • 狩猟の獲物のある廊下<br /><br />この廊下を出て、宮殿見学は終わりです。<br />ちなみに、見学できたすべての部屋の写真を隈なく撮ったわけではないので、あしからず。<br />それをするときりがないですから@<br />

    狩猟の獲物のある廊下

    この廊下を出て、宮殿見学は終わりです。
    ちなみに、見学できたすべての部屋の写真を隈なく撮ったわけではないので、あしからず。
    それをするときりがないですから@

  • リヴァーディア宮殿で買ったポストカードより、王室礼拝堂の中の様子<br /><br />宮殿併設の王室礼拝堂の見学もしました。<br />小さな礼拝堂でしたので中に入って見学できず、入口から除いただけです。<br />撮影禁止でしたので、ポストカードの写真の写真にちょっとお化粧したもので代用しました。<br />右下と左上に模様のようにムーンストーンのルースを乗っけました。<br />

    リヴァーディア宮殿で買ったポストカードより、王室礼拝堂の中の様子

    宮殿併設の王室礼拝堂の見学もしました。
    小さな礼拝堂でしたので中に入って見学できず、入口から除いただけです。
    撮影禁止でしたので、ポストカードの写真の写真にちょっとお化粧したもので代用しました。
    右下と左上に模様のようにムーンストーンのルースを乗っけました。

  • リヴァーディア宮殿で買ったポストカードより、王室礼拝堂の中のモザイク

    リヴァーディア宮殿で買ったポストカードより、王室礼拝堂の中のモザイク

  • リヴァーディア宮殿で買ったポストカードより、王室礼拝堂の中のモザイクの細部

    リヴァーディア宮殿で買ったポストカードより、王室礼拝堂の中のモザイクの細部

  • リヴァーディア宮殿で買ったポストカードより、王室礼拝堂の中のモザイクの一部

    リヴァーディア宮殿で買ったポストカードより、王室礼拝堂の中のモザイクの一部

  • 見学と買い物が終わったあと、門の外から撮ったリヴァーディア宮殿<br /><br />Lonly Planetでは庭園散歩も薦めていましたが、本日日程がぎっしり詰まっている我らは、次の目的地へ。<br /><br />宮殿見学の後で併設のギフトショップで買ったものがある写真<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/16662517/<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/16662518/<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/16662519/<br />関連の旅行記<br />「2009年ウクライナ・ハイライトその8:ウクライナでゲットしたもの」<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10361990/<br /><br />「クリミアの歴史<br />(前略)1917年12月―1918年1月にクリミア半島にソビエト政権が樹立された。1919年からクリミアの保養地が国有化され始め、以前貴族の財産であった宮殿の中では一般人ためのサナトリウムが作られた。<br /> 1941年11月から1944年4月までクリミア半島ではドイツ軍との戦争が続いていた。<br /> 1954年にクリミア半島はロシア共和国の中に入っていましたが、1954年2月にソ連邦最高会議幹部会令によってウクライナ共和国の一部になった。段々工場などが建築され、農業、ぶどう栽培などが発展していた。<br /> 1991年8月27日にウクライナが独立国になって、クリミアは独立したウクライナの一部になったが、1991年9月4日にクリミア最高議会が「クリミアの主権宣伝」を採択した。<br /> クリミア自治共和国の憲法により、ウクライナ国の公用語であるウクライナ語だけではなく、ロシア語も公用語になっている。<br /> ソ連邦の体制が破壊された後、その中の全部の共和国に経済問題、政治問題などが生じて、現在も政治的・経済的に安定してないところがある。クリミア自治共和国も色々と混乱しているが、段々復活している姿を見せている。」<br />(ウクライナ政府観光通商センター公式サイトのウクライナ観光情報より)<br />http://www.unttc.com/Crimea.html<br /><br />「2009年ウクライナ旅行第6日目(5)ヤルタ:花のタイミングは微妙だったニキーツキー植物園」に続く。<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10386229/<br />

    見学と買い物が終わったあと、門の外から撮ったリヴァーディア宮殿

    Lonly Planetでは庭園散歩も薦めていましたが、本日日程がぎっしり詰まっている我らは、次の目的地へ。

    宮殿見学の後で併設のギフトショップで買ったものがある写真
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/16662517/
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/16662518/
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/16662519/
    関連の旅行記
    「2009年ウクライナ・ハイライトその8:ウクライナでゲットしたもの」
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10361990/

    「クリミアの歴史
    (前略)1917年12月―1918年1月にクリミア半島にソビエト政権が樹立された。1919年からクリミアの保養地が国有化され始め、以前貴族の財産であった宮殿の中では一般人ためのサナトリウムが作られた。
     1941年11月から1944年4月までクリミア半島ではドイツ軍との戦争が続いていた。
     1954年にクリミア半島はロシア共和国の中に入っていましたが、1954年2月にソ連邦最高会議幹部会令によってウクライナ共和国の一部になった。段々工場などが建築され、農業、ぶどう栽培などが発展していた。
     1991年8月27日にウクライナが独立国になって、クリミアは独立したウクライナの一部になったが、1991年9月4日にクリミア最高議会が「クリミアの主権宣伝」を採択した。
     クリミア自治共和国の憲法により、ウクライナ国の公用語であるウクライナ語だけではなく、ロシア語も公用語になっている。
     ソ連邦の体制が破壊された後、その中の全部の共和国に経済問題、政治問題などが生じて、現在も政治的・経済的に安定してないところがある。クリミア自治共和国も色々と混乱しているが、段々復活している姿を見せている。」
    (ウクライナ政府観光通商センター公式サイトのウクライナ観光情報より)
    http://www.unttc.com/Crimea.html

    「2009年ウクライナ旅行第6日目(5)ヤルタ:花のタイミングは微妙だったニキーツキー植物園」に続く。
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10386229/

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