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2009/07/09木 クリミア半島1日目(現地英語ガイド&車付)<br />シンフェロポリからヤルタへ向かう途中<br />・チュフート・カレ洞窟都市とユダヤ墓地<br />・岩壁の被昇天教会<br />・バフチサライ宮殿<br />・アイ・ペトリ山頂展望台(1,234m)<br />【ヤルタ泊:ホテル・ブリストル(Bristol)】<br /><br />バレエ観劇が私の趣味として定着し始めた2003年頃だったか、どんなバレエがあるのか知りたくて、「バレエ101物語」(ダンスマガジン編/新書館)という本を買いました。<br />バフチサライ。<br />この耳慣れぬ言葉を初めて知ったのは、そのバレエの本からでした。<br />ロシアの国民的詩人プーシキンに「バフチサライの泉」という詩があり、バレエはそれを題材にしたものでした。<br />しかし、こんな珍しい演目、今では上演されていないんだろうなァ……と思ったら、2007年にチャンスがめぐってきました。<br />いざ観劇できるとなると、「バフチサライの泉」について、バレエに限らずなんでもいいから知りたくなって調べてみて、バフチサライ宮殿が現存していると知りました。<br />そして思ったものです。クリミア半島? ウクライナ?<br />ええっ、そんなところにあるなんて、一生、行く機会はないだろうなァ。<br /><br />一生絶対なんて、何事も断言できないものですね。<br />すでにこの世にないのならともかく、現存していて、そして関心を持ったのなら、いつか行く機会が訪れるものかもしれません。<br /><br />もっとも、今年2009年の海外旅行のターゲットをウクライナにした最初のきっかけは、バフチサライではありませんでした。<br />しかし、ウクライナに狙いを定めて調べ始め、バフチサライが挙がってきたとき、私は因縁のようなものを感じました。<br />と言ったら大袈裟ですが@<br /><br />そのバフチサライ、ついに訪れることができました。<br /><br />思ったよりこぢんまりした宮殿でした。<br />特に入ったら女性が一生出ることのないハーレムなど、思ったより狭くてびっくりしました。<br />もっと巨大な宮殿を見慣れていたからでしょうね、そう思ったのは。<br />ただし、ハーレムは他にも3つあったらしく、それから考えても、最盛期の建物がすべて残っているわけではなかったようです。<br />バフチサライのハーレムの実態は、記録が残っていないので今でも分かっていないそうです。<br />また、ロシアがクリミアを世はした後、エカテリーナ女帝の滞在のために手が加えられてしまいました。<br />さらに、もともとの建築にはイタリア人建築家が携わっていました。<br />イスラム教徒のタタール人の宮殿なのにイタリアやロシアの香りもあるなんて、一種の東西融合のような、不思議な印象を受けました。<br /><br />プーチキンがインスピレーションを受けて作詞した、バフチサライの泉こと愛の泉は、思っていたのと違いました。<br />もっと噴水っぽいのを思い浮かべていました。ガイドブックにはちゃんと写真があったんですけど、先入観のせいで。<br />クリミア半島観光で雇った個人ガイドのニーナは、その泉の前で、プーシキンの詩を歌ってくれました。<br />プーシキンの詩には曲もついていたのです。<br />曲は甘ったるいくらい甘いロマンチックな曲でしたが、ニーナの声は驚くほど澄んでいて、曲にぴったりでした。<br />歌詞が分からなかったのが残念でした。<br /><br />「バフチサラーイは、1783年にロシア帝国に併合されるまでクリミア・ハーン国の首都だった町。ロシア貴族の保養地というイメージとは違った、もうひとつのクリミアを知るためにも、ぜひ訪れてほしい場所だ。<br /> ハーンの宮殿は、16世紀前半に建てられたオスマン・トルコ風の宮殿で、クリミアのハーン(王)たちは約300年の間ここで暮らした。革命に揺れる1917年にはタタール人たちがここに集まり、クリルタイ(モンゴルの伝統の意志機関)を開いてクリミア共和国の独立を宣言したが、革命軍の攻撃に遭い、タタール国家再興の夢はならなかった。<br /> 門を入った広場の左側にはモスクがあり、現在はクリミアの歴史を扱った博物館となっている。その奥には代々の破片が眠る墓地があり、特異な形をした墓標が並んでいる。<br /> 宮殿となる建築群は広場の右側に位置している。敷地内には泉や小さな中庭が点在し、ハーレム、居間、客間など、ハーンの優雅な生活を物語る当時の様子が再現されている。(後略)」<br />(「地球の歩き方ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、コーサカスの国々」(&#39;08〜’09年版)より)<br /><br />※2009年ウクライナ旅行の旅程一覧はこちら。<br />簡易版「2009年ウクライナ旅行プロローグ(旅程一覧)地図付」<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10359084/<br />詳細版「2009年ウクライナ旅行の詳細旅程」(もう1つのブログ「まみ’s Travel Diary」より)<br />http://mami1.cocolog-nifty.com/travel_diary1/2009/07/2009-2271.html<br />

2009年ウクライナ旅行第5日目(3)クリミア半島:バレエで知ったバフチサライ宮殿

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2009/07/09 - 2009/07/09

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まみ

まみさん

2009/07/09木 クリミア半島1日目(現地英語ガイド&車付)
シンフェロポリからヤルタへ向かう途中
・チュフート・カレ洞窟都市とユダヤ墓地
・岩壁の被昇天教会
・バフチサライ宮殿
・アイ・ペトリ山頂展望台(1,234m)
【ヤルタ泊:ホテル・ブリストル(Bristol)】

バレエ観劇が私の趣味として定着し始めた2003年頃だったか、どんなバレエがあるのか知りたくて、「バレエ101物語」(ダンスマガジン編/新書館)という本を買いました。
バフチサライ。
この耳慣れぬ言葉を初めて知ったのは、そのバレエの本からでした。
ロシアの国民的詩人プーシキンに「バフチサライの泉」という詩があり、バレエはそれを題材にしたものでした。
しかし、こんな珍しい演目、今では上演されていないんだろうなァ……と思ったら、2007年にチャンスがめぐってきました。
いざ観劇できるとなると、「バフチサライの泉」について、バレエに限らずなんでもいいから知りたくなって調べてみて、バフチサライ宮殿が現存していると知りました。
そして思ったものです。クリミア半島? ウクライナ?
ええっ、そんなところにあるなんて、一生、行く機会はないだろうなァ。

一生絶対なんて、何事も断言できないものですね。
すでにこの世にないのならともかく、現存していて、そして関心を持ったのなら、いつか行く機会が訪れるものかもしれません。

もっとも、今年2009年の海外旅行のターゲットをウクライナにした最初のきっかけは、バフチサライではありませんでした。
しかし、ウクライナに狙いを定めて調べ始め、バフチサライが挙がってきたとき、私は因縁のようなものを感じました。
と言ったら大袈裟ですが@

そのバフチサライ、ついに訪れることができました。

思ったよりこぢんまりした宮殿でした。
特に入ったら女性が一生出ることのないハーレムなど、思ったより狭くてびっくりしました。
もっと巨大な宮殿を見慣れていたからでしょうね、そう思ったのは。
ただし、ハーレムは他にも3つあったらしく、それから考えても、最盛期の建物がすべて残っているわけではなかったようです。
バフチサライのハーレムの実態は、記録が残っていないので今でも分かっていないそうです。
また、ロシアがクリミアを世はした後、エカテリーナ女帝の滞在のために手が加えられてしまいました。
さらに、もともとの建築にはイタリア人建築家が携わっていました。
イスラム教徒のタタール人の宮殿なのにイタリアやロシアの香りもあるなんて、一種の東西融合のような、不思議な印象を受けました。

プーチキンがインスピレーションを受けて作詞した、バフチサライの泉こと愛の泉は、思っていたのと違いました。
もっと噴水っぽいのを思い浮かべていました。ガイドブックにはちゃんと写真があったんですけど、先入観のせいで。
クリミア半島観光で雇った個人ガイドのニーナは、その泉の前で、プーシキンの詩を歌ってくれました。
プーシキンの詩には曲もついていたのです。
曲は甘ったるいくらい甘いロマンチックな曲でしたが、ニーナの声は驚くほど澄んでいて、曲にぴったりでした。
歌詞が分からなかったのが残念でした。

「バフチサラーイは、1783年にロシア帝国に併合されるまでクリミア・ハーン国の首都だった町。ロシア貴族の保養地というイメージとは違った、もうひとつのクリミアを知るためにも、ぜひ訪れてほしい場所だ。
 ハーンの宮殿は、16世紀前半に建てられたオスマン・トルコ風の宮殿で、クリミアのハーン(王)たちは約300年の間ここで暮らした。革命に揺れる1917年にはタタール人たちがここに集まり、クリルタイ(モンゴルの伝統の意志機関)を開いてクリミア共和国の独立を宣言したが、革命軍の攻撃に遭い、タタール国家再興の夢はならなかった。
 門を入った広場の左側にはモスクがあり、現在はクリミアの歴史を扱った博物館となっている。その奥には代々の破片が眠る墓地があり、特異な形をした墓標が並んでいる。
 宮殿となる建築群は広場の右側に位置している。敷地内には泉や小さな中庭が点在し、ハーレム、居間、客間など、ハーンの優雅な生活を物語る当時の様子が再現されている。(後略)」
(「地球の歩き方ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、コーサカスの国々」('08〜’09年版)より)

※2009年ウクライナ旅行の旅程一覧はこちら。
簡易版「2009年ウクライナ旅行プロローグ(旅程一覧)地図付」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10359084/
詳細版「2009年ウクライナ旅行の詳細旅程」(もう1つのブログ「まみ’s Travel Diary」より)
http://mami1.cocolog-nifty.com/travel_diary1/2009/07/2009-2271.html

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  • バフチサライ宮殿へ<br /><br />現地ガイドのニーナは大使の門と呼んでいました。ここが正門です。我々もここから中に入ります。<br /><br />バフチサライがウクライナの歴史文化保存物となったのは1991年ですが、宮殿が最初に一般公開されたのは1917年です。<br />現在、敷地内は、博物館として公開されている宮殿のほか、美術館、17〜19世紀の武器コレクションの博物館、近郊の洞窟都市からの出土品を含む考古学博物館、クリミア・タタール文化研究家ガスプリンスキー(I. Gasprinsky)の家(ただし場所はこれは敷地の外)などを含む、総合博物館となっています。<br />(情報源:バフチサライ宮殿前の屋台で買ったパンフレット「The Khan’s Palace」)<br /><br />一人で出かけたとしたら、これらの博物館のいくつかは回ったでしょうけど、クリミア半島では、現地ガイドと車をチャーターして日程をたっぷり盛り込んだので、メインの宮殿見学(すなわち宮殿博物館)のみです。<br /><br />「クリミアの歴史<br />(前略)クリミア半島の南部は古くギリシアの植民地が栄え、北の方にはスキタイ以来の遊牧民が住んでいた。13世紀まではクリミア半島はタヴリカと呼ばれていた。1223年にタタル軍がタヴリカ半島に侵略し、15世紀にクリミア半島ではクリミア汗国が創立された。しかし、1475年にトルコ軍がクリミアに侵略した結果、クリミア汗国が独立を失った。15世紀の終わりごろに、ヨーロッパとアジアの間の貿易関係がエジプトを通じて行われ始め、黒海が国際貿易地域としての役割を失った。(つづく)」<br />(ウクライナ政府観光通商センター公式サイトのウクライナ観光情報より)<br />http://www.unttc.com/Crimea.html<br />

    バフチサライ宮殿へ

    現地ガイドのニーナは大使の門と呼んでいました。ここが正門です。我々もここから中に入ります。

    バフチサライがウクライナの歴史文化保存物となったのは1991年ですが、宮殿が最初に一般公開されたのは1917年です。
    現在、敷地内は、博物館として公開されている宮殿のほか、美術館、17〜19世紀の武器コレクションの博物館、近郊の洞窟都市からの出土品を含む考古学博物館、クリミア・タタール文化研究家ガスプリンスキー(I. Gasprinsky)の家(ただし場所はこれは敷地の外)などを含む、総合博物館となっています。
    (情報源:バフチサライ宮殿前の屋台で買ったパンフレット「The Khan’s Palace」)

    一人で出かけたとしたら、これらの博物館のいくつかは回ったでしょうけど、クリミア半島では、現地ガイドと車をチャーターして日程をたっぷり盛り込んだので、メインの宮殿見学(すなわち宮殿博物館)のみです。

    「クリミアの歴史
    (前略)クリミア半島の南部は古くギリシアの植民地が栄え、北の方にはスキタイ以来の遊牧民が住んでいた。13世紀まではクリミア半島はタヴリカと呼ばれていた。1223年にタタル軍がタヴリカ半島に侵略し、15世紀にクリミア半島ではクリミア汗国が創立された。しかし、1475年にトルコ軍がクリミアに侵略した結果、クリミア汗国が独立を失った。15世紀の終わりごろに、ヨーロッパとアジアの間の貿易関係がエジプトを通じて行われ始め、黒海が国際貿易地域としての役割を失った。(つづく)」
    (ウクライナ政府観光通商センター公式サイトのウクライナ観光情報より)
    http://www.unttc.com/Crimea.html

  • 大モスクのミナレットとエカテリーナ2世の1787年クリミア訪問記念碑と宮殿内に残るミナレット<br /><br />エカテリーナ2世がクリミア半島を訪問した記念碑は現在4ヵ所残っています。<br />円柱にサイコロが突き刺さったような、わりとシンプルな形をしているのがそうです。<br />今回の旅行で、そのうちの2ヶ所を目にしました。<br />1つ目はこれです。<br />2つ目はクリミア観光4日目のセバストポリへのドライブ中に見かけましたが、写真は撮りませんでした。<br /><br />Lonely Planetや現地ガイドのニーナによると、クリミア半島をロシア帝国の版図に加えたエカテリーナ2世は、バフチサライ宮殿のモスクの破壊は命じましたが、宮殿は「とてもロマンチック」だということで、破壊せずに残すことにしたそうです。<br />もっともオリジナルのままではなく、彼女の滞在を機に、多少改築されてしまいました。<br /><br />「クリミアの歴史(つづき)<br /> 1783年にロシア帝国がトルコとの戦争に勝利し、クリミアはロシア帝国の一部になった。しかし、トルコが黒海地域の権威を失いたくなかったため、もう1つの戦争を計画し始めた。それが分った当時のロシア女王であるエカチェリーナ2世がクリミア半島への旅行に旅立った。その旅の理由は、ロシアの力を見せるだけではなく、豪華な旅を隠れみのにして、ロシア軍の部隊を配置換えることだった。エカチェリーナ2世のために町や宮殿などが早く建てられ始めた。クリミアの美しさに感動したエカチェリーナ2世がクリミア半島を“ロシア帝国の王冠の真珠”と名付けたようだ。しかし、当時はクリミアの人口が少なく、道路がほとんどなかったため、発展させるのに努力が必要だった。(後略)」<br />(ウクライナ政府観光通商センター公式サイトのウクライナ観光情報より)<br />http://www.unttc.com/Crimea.html

    大モスクのミナレットとエカテリーナ2世の1787年クリミア訪問記念碑と宮殿内に残るミナレット

    エカテリーナ2世がクリミア半島を訪問した記念碑は現在4ヵ所残っています。
    円柱にサイコロが突き刺さったような、わりとシンプルな形をしているのがそうです。
    今回の旅行で、そのうちの2ヶ所を目にしました。
    1つ目はこれです。
    2つ目はクリミア観光4日目のセバストポリへのドライブ中に見かけましたが、写真は撮りませんでした。

    Lonely Planetや現地ガイドのニーナによると、クリミア半島をロシア帝国の版図に加えたエカテリーナ2世は、バフチサライ宮殿のモスクの破壊は命じましたが、宮殿は「とてもロマンチック」だということで、破壊せずに残すことにしたそうです。
    もっともオリジナルのままではなく、彼女の滞在を機に、多少改築されてしまいました。

    「クリミアの歴史(つづき)
     1783年にロシア帝国がトルコとの戦争に勝利し、クリミアはロシア帝国の一部になった。しかし、トルコが黒海地域の権威を失いたくなかったため、もう1つの戦争を計画し始めた。それが分った当時のロシア女王であるエカチェリーナ2世がクリミア半島への旅行に旅立った。その旅の理由は、ロシアの力を見せるだけではなく、豪華な旅を隠れみのにして、ロシア軍の部隊を配置換えることだった。エカチェリーナ2世のために町や宮殿などが早く建てられ始めた。クリミアの美しさに感動したエカチェリーナ2世がクリミア半島を“ロシア帝国の王冠の真珠”と名付けたようだ。しかし、当時はクリミアの人口が少なく、道路がほとんどなかったため、発展させるのに努力が必要だった。(後略)」
    (ウクライナ政府観光通商センター公式サイトのウクライナ観光情報より)
    http://www.unttc.com/Crimea.html

  • 大使の門の美しい模様をズームで<br /><br />15世紀にキプチャク・ハンから独立したクリミア・ハンは、途中はオスマントルコの属国の立場となりつつも350年続きました。その間、48人の君主(汗(ハーン))が王座につきました。<br />宮殿は、クリミア・ハンの宮殿として16世紀中かけて建てられました。<br />それまでは近くの洞窟都市のチュフート・カレが歴代の汗の居住地として使われていました。チュフート・カレにあった古い宮殿は、現存しません。<br />「バフチサライ」とは、チュルク語で、「庭の中の宮殿」という意味で、その名のとおり、美しい庭園が多い宮殿です。<br />露土戦争の最中の1736年、ロシアの将軍マーシャル・ミニック(Marshal Minich)がバフチサライを占拠したとき、宮殿は焼け落ち、美しかった庭園も伐採されてしまいました。<br />その後、宮殿はもとの姿に再建されましたが、1787年のエカテリーナ2世の来訪以来、歴代の皇帝の訪問のために再建と改修が重ねられたとき、オリジナルのままではなく、ヨーロッパ・スタイルに改築されてしまったところもあります。<br />(情報源:バフチサライ宮殿前の屋台で買ったパンフレット「The Khan’s Palace」その他)<br />

    大使の門の美しい模様をズームで

    15世紀にキプチャク・ハンから独立したクリミア・ハンは、途中はオスマントルコの属国の立場となりつつも350年続きました。その間、48人の君主(汗(ハーン))が王座につきました。
    宮殿は、クリミア・ハンの宮殿として16世紀中かけて建てられました。
    それまでは近くの洞窟都市のチュフート・カレが歴代の汗の居住地として使われていました。チュフート・カレにあった古い宮殿は、現存しません。
    「バフチサライ」とは、チュルク語で、「庭の中の宮殿」という意味で、その名のとおり、美しい庭園が多い宮殿です。
    露土戦争の最中の1736年、ロシアの将軍マーシャル・ミニック(Marshal Minich)がバフチサライを占拠したとき、宮殿は焼け落ち、美しかった庭園も伐採されてしまいました。
    その後、宮殿はもとの姿に再建されましたが、1787年のエカテリーナ2世の来訪以来、歴代の皇帝の訪問のために再建と改修が重ねられたとき、オリジナルのままではなく、ヨーロッパ・スタイルに改築されてしまったところもあります。
    (情報源:バフチサライ宮殿前の屋台で買ったパンフレット「The Khan’s Palace」その他)

  • 英語表示のあるマップ<br /><br />1のNorthern Gate(北門)から入りました。<br />見学したのは6(王座や謁見の間のある建物)と7(歴代汗の居住区)と9(ハーレム)、そして4(汗の墓地)です。<br />茶色の部分は、4は墓地ですが、あとは中庭です。<br /><br />3はかつてモスクでしたが、いまは博物館となっています。<br />4(墓地)にある六角形は霊廟です。<br />8(Pool Court)にはバラ園がありました。泳ぐプールじゃないです。ハーレムの女性たちもここまでは外に出らました。<br />

    英語表示のあるマップ

    1のNorthern Gate(北門)から入りました。
    見学したのは6(王座や謁見の間のある建物)と7(歴代汗の居住区)と9(ハーレム)、そして4(汗の墓地)です。
    茶色の部分は、4は墓地ですが、あとは中庭です。

    3はかつてモスクでしたが、いまは博物館となっています。
    4(墓地)にある六角形は霊廟です。
    8(Pool Court)にはバラ園がありました。泳ぐプールじゃないです。ハーレムの女性たちもここまでは外に出らました。

  • 1787年当時の地図<br /><br />こちらの地図では、庭や建物内の区画まで示されています。<br />現在、ほぼこのとおりに再現されていることも分かります。<br />「庭の中の宮殿」という意味の「バフチサライ」の名のとおり、整備された庭がたくさんありました。<br />宮殿の外の水色の部分はチュルク川です。庭の中にある水色は、水路か貯水池かな。<br />プーシキンの詩で有名な「愛の泉」があったのは7です。<br />

    1787年当時の地図

    こちらの地図では、庭や建物内の区画まで示されています。
    現在、ほぼこのとおりに再現されていることも分かります。
    「庭の中の宮殿」という意味の「バフチサライ」の名のとおり、整備された庭がたくさんありました。
    宮殿の外の水色の部分はチュルク川です。庭の中にある水色は、水路か貯水池かな。
    プーシキンの詩で有名な「愛の泉」があったのは7です。

  • 中央に正門があった大使の控えの建物<br /><br />異教徒である各国の大使や使節を広場や中庭に入れさせないため、謁見の時間まで大使たちはこの建物で待たなくてはなりませんでした。<br />でも昔のイスラム教徒の屋敷はたいてい、外来者は異教徒でなくても、妻たちのいる奥に入れない構造になっています。<br />イスラム教徒の妻たちは夫の許可がなかったらよその人と会うことができませんでしたからネ。<br />

    中央に正門があった大使の控えの建物

    異教徒である各国の大使や使節を広場や中庭に入れさせないため、謁見の時間まで大使たちはこの建物で待たなくてはなりませんでした。
    でも昔のイスラム教徒の屋敷はたいてい、外来者は異教徒でなくても、妻たちのいる奥に入れない構造になっています。
    イスラム教徒の妻たちは夫の許可がなかったらよその人と会うことができませんでしたからネ。

  • かつてモスクだった建物とミナレット<br /><br />一階テラスには売店あり。<br />

    かつてモスクだった建物とミナレット

    一階テラスには売店あり。

  • 売られていたのは礼拝用のカーペットなど<br /><br />礼拝用のカーペットは信者にとって大事な道具ですが、それにしても美しいです。<br />

    売られていたのは礼拝用のカーペットなど

    礼拝用のカーペットは信者にとって大事な道具ですが、それにしても美しいです。

  • 大使の控えの建物(左)とかつてのモスク(右)

    大使の控えの建物(左)とかつてのモスク(右)

  • もとモスクの壁には、モスクらしく美しい模様のように描かれたコーランの一説

    もとモスクの壁には、モスクらしく美しい模様のように描かれたコーランの一説

  • 汗たちの居住区へ<br /><br />わざわざイタリアから建築家を呼び寄せて設計させたそうです。<br />そう言われてみれば、天井は確かにイタリア・ルネサンス頃の宮殿風?<br />

    汗たちの居住区へ

    わざわざイタリアから建築家を呼び寄せて設計させたそうです。
    そう言われてみれば、天井は確かにイタリア・ルネサンス頃の宮殿風?

  • ポーチの美しい天井<br /><br />後で見学客がいないときを見計らって撮ったものです。<br />

    ポーチの美しい天井

    後で見学客がいないときを見計らって撮ったものです。

  • 謁見の間の汗の王座<br /><br />実はこのイスの上に「Don’t touch」という札が真ん中に置いてあったのですが、ニーナがどかしてくれました。<br />監視員の人が「ちょっと……!」とか注意したようですが、ニーナは「わざわざ日本からきた観光客が撮影する間くらい、いいでしょ?」みたいなかんじで、言いくるめていました@<br />こういうところは、ニーナ、頼もしかった!<br />

    謁見の間の汗の王座

    実はこのイスの上に「Don’t touch」という札が真ん中に置いてあったのですが、ニーナがどかしてくれました。
    監視員の人が「ちょっと……!」とか注意したようですが、ニーナは「わざわざ日本からきた観光客が撮影する間くらい、いいでしょ?」みたいなかんじで、言いくるめていました@
    こういうところは、ニーナ、頼もしかった!

  • 謁見の間<br /><br />2階の奥の窓の後ろから、汗がこっそり人々の会話を盗み聞きすることもあったそうです。<br />

    謁見の間

    2階の奥の窓の後ろから、汗がこっそり人々の会話を盗み聞きすることもあったそうです。

  • 謁見の間の美しい窓と扉

    謁見の間の美しい窓と扉

  • 地下水からの泉のある間<br /><br />もともとがあまり水に恵まれない砂漠出身の人が多いイスラム教徒にとって、泉の湧き出る部屋というのはサイコーの贅沢でした。<br />そして、この部屋の天井もどこかイタリア風です。<br />

    地下水からの泉のある間

    もともとがあまり水に恵まれない砂漠出身の人が多いイスラム教徒にとって、泉の湧き出る部屋というのはサイコーの贅沢でした。
    そして、この部屋の天井もどこかイタリア風です。

  • ローズ・ガーデン<br /><br />真夏なので花は少ないですが、ちゃんと咲いています。<br />ガーデンは、ハーレムの女性たちの数少ない楽しみでした。<br />

    ローズ・ガーデン

    真夏なので花は少ないですが、ちゃんと咲いています。
    ガーデンは、ハーレムの女性たちの数少ない楽しみでした。

  • 汗の居住区の建物の入口

    汗の居住区の建物の入口

  • すばらしい装飾に注目

    すばらしい装飾に注目

  • てっぺんには、汗のシンボルの丸い月のマークあり<br /><br />よく似ていますが、トルコの象徴の三日月とは違いますネ。<br />

    てっぺんには、汗のシンボルの丸い月のマークあり

    よく似ていますが、トルコの象徴の三日月とは違いますネ。

  • 居住区の建物を横からみたところ

    居住区の建物を横からみたところ

  • 居住区にあった小モスクのミフラーブと礼拝用のカーペット<br /><br />ミフラーブとは、モスクに必ずある、メッカの方向を示すくぼみです。<br />お祈りは、メッカの方向に向かってしますからね。礼拝専用のカーペットを敷いて、その上で、1日に5回。<br />だからミフラーブはモスクの中でも一番大切な部分です。<br />モスクを建てるときにまずミフラーブの位置を決めるそうですが、そのための専門家がいるくらいです。<br /><br />バフチサライ宮殿にモスクは他にも大使の控えの間のある建物のとなりにありますが、小モスクは、汗とその家族や、必要に応じてごく一部の官僚など、限られた人たちのためのものでした。<br />

    居住区にあった小モスクのミフラーブと礼拝用のカーペット

    ミフラーブとは、モスクに必ずある、メッカの方向を示すくぼみです。
    お祈りは、メッカの方向に向かってしますからね。礼拝専用のカーペットを敷いて、その上で、1日に5回。
    だからミフラーブはモスクの中でも一番大切な部分です。
    モスクを建てるときにまずミフラーブの位置を決めるそうですが、そのための専門家がいるくらいです。

    バフチサライ宮殿にモスクは他にも大使の控えの間のある建物のとなりにありますが、小モスクは、汗とその家族や、必要に応じてごく一部の官僚など、限られた人たちのためのものでした。

  • 小モスクにあった、18世紀のコーランや銀器やカーペットなどの展示

    小モスクにあった、18世紀のコーランや銀器やカーペットなどの展示

  • 黄金の泉(1733年)、カプラン・ギレイ汗時代のもの<br /><br />泉といっても、水はちょろちょろですけどネ。<br /><br />周囲の黄金の装飾は、世界のいろんな国を象徴するシンボルやモチーフ模様が描かれています。<br />ハスはエジプト、アカンサス装飾はギリシャなどヨーロッパ、イスラム文字ももちろんあります。<br />アジアを象徴するモチーフは、どれだったかなぁ。一番上の左右にあるのが、稲だったかな。<br />16〜17世紀の当時のムスリムの宮殿にこのような宗教も民族も違う多国籍のシンボルが同居した装飾は、とても珍しかったそうです。<br />

    黄金の泉(1733年)、カプラン・ギレイ汗時代のもの

    泉といっても、水はちょろちょろですけどネ。

    周囲の黄金の装飾は、世界のいろんな国を象徴するシンボルやモチーフ模様が描かれています。
    ハスはエジプト、アカンサス装飾はギリシャなどヨーロッパ、イスラム文字ももちろんあります。
    アジアを象徴するモチーフは、どれだったかなぁ。一番上の左右にあるのが、稲だったかな。
    16〜17世紀の当時のムスリムの宮殿にこのような宗教も民族も違う多国籍のシンボルが同居した装飾は、とても珍しかったそうです。

  • プーシキンが詩を詠んだ有名な「愛の泉」とプーシキンの胸像<br /><br />「(前略)クリミア最後のハーン、クリム・ギレイが薄命の愛人を偲んで造らせた涙の泉がある。彼は美しい女奴隷の死を悲しんで涙に暮れ、その憂いを永遠化するため、“石にも涙を流させよ”と命じたという。ふたつのバラが添えられた石の目からは、本当に涙のような雫が絶え間なく流れ落ちている。この泉はプーシキンが詩に詠んだことでも有名になった。」<br />(「地球の歩き方ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、コーサカスの国々」(&#39;08〜’09年版)より)<br /><br />意図したわけじゃないけど、「地球の歩き方」掲載の写真とほとんど同じかも。<br /><br />この泉は、黄金の泉のむかいにあります。<br />当初は、1764年、クリム・ギレイ汗の愛妾ディリィアラ・ビケシュ(Diliara Bikech)(クリム・ギレイ汗の妻に殺害された)の霊廟近くに造られたものだそうです。<br />名前は違いますが、彼女がプーシキンの詩で歌われ、バレエ「バフチサライの泉」では主役のマリアのモデルだろうと思います。<br /><br />この伝説とプーシキンの詩をもとに作られたバレエ「バフチサライの泉」があります。<br />私が初めて「バフチサライ」の名を知ったのは、そのバレエがきっかけですが、その原点であるこの場所をついに訪れることができました。<br />その当時は、いつかバフチサライを訪れることがあるなんて、夢にも思わなかったので、感慨深いです。<br /><br />バレエが全幕上演されるのは限られていますが、その中の一部、「ダッタン人の踊り」だけ取り出されて上演されることはよくあります。<br />

    プーシキンが詩を詠んだ有名な「愛の泉」とプーシキンの胸像

    「(前略)クリミア最後のハーン、クリム・ギレイが薄命の愛人を偲んで造らせた涙の泉がある。彼は美しい女奴隷の死を悲しんで涙に暮れ、その憂いを永遠化するため、“石にも涙を流させよ”と命じたという。ふたつのバラが添えられた石の目からは、本当に涙のような雫が絶え間なく流れ落ちている。この泉はプーシキンが詩に詠んだことでも有名になった。」
    (「地球の歩き方ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、コーサカスの国々」('08〜’09年版)より)

    意図したわけじゃないけど、「地球の歩き方」掲載の写真とほとんど同じかも。

    この泉は、黄金の泉のむかいにあります。
    当初は、1764年、クリム・ギレイ汗の愛妾ディリィアラ・ビケシュ(Diliara Bikech)(クリム・ギレイ汗の妻に殺害された)の霊廟近くに造られたものだそうです。
    名前は違いますが、彼女がプーシキンの詩で歌われ、バレエ「バフチサライの泉」では主役のマリアのモデルだろうと思います。

    この伝説とプーシキンの詩をもとに作られたバレエ「バフチサライの泉」があります。
    私が初めて「バフチサライ」の名を知ったのは、そのバレエがきっかけですが、その原点であるこの場所をついに訪れることができました。
    その当時は、いつかバフチサライを訪れることがあるなんて、夢にも思わなかったので、感慨深いです。

    バレエが全幕上演されるのは限られていますが、その中の一部、「ダッタン人の踊り」だけ取り出されて上演されることはよくあります。

  • 愛の泉、バラが添えられた石の目の部分を中心に<br /><br />目っていうか、穴にしか見えないんですけど@<br /><br />この泉の前で、ニーナが、プーシキンの詩に作曲された歌曲を歌ってくれました。<br />歌詞は全然わからなかったけれど、めっちゃくちゃ甘くてロマンチックな曲でした。聞いてる方がちょっぴり恥ずかしくなるくらい(苦笑)。<br />そしてニーナの声はとても澄んでいて、きれいに響き渡りました。<br />ニーナが歌い終わったあと、そばにいた監視員の人や、耳をすませていた団体客から拍手があがりました。<br /><br />ネットで作曲されたものについて検索しました。<br />http://homepage2.nifty.com/182494/LiederhausUmegaoka/songs/G/Gurilev/S1984.htm<br /><br />プーシキンの詩に作曲した人は、プーシキンと同時代の作曲家アレクサンドル・グリリョーフやソビエト時代の作曲家A.ヴラーソフなど、何名もいるようです。<br />ニーナが歌ったのはどの作曲家のものか、残念ながらメモをとっていないので忘れてしまいました。<br />ヴラーソフ作曲のものは「比較的よく知られていてロシアでもしばしば演奏される」そうですが、グリリョーフの作曲傾向は「非常に朴訥とした音楽」とのことなので、ニーナが歌ったのはヴラーソフ作曲のものかな。<br /><br />プーシキンの詩は600行ほどありますが、その前に短編も作詞したようです。<br />アレクサンドル・グリリョーフ版の歌詞として使われているのは以下のとおり。<br />さきほどのURL先のサイトからの引用です。<br /><br />「愛の噴水よ、生命の噴水よ!<br />贈り物としてお前に二輪のバラを捧げよう<br />私はお前の絶え間ないささやきが好きだ<br />そしてその詩情に溢れる涙が<br /><br />お前の銀色のしぶきが<br />冷たい露が私に降りかかる<br />ああ、流れよ、流れよ、喜びの泉よ<br />伝えよ、伝えよ 私に本当の物語を<br /><br />愛の噴水よ、悲しみの噴水よ!<br />私はその大理石に問いかける<br />王国の賛美は私にも聞き取れたが<br />マリアのことはお前は黙して語らない<br /><br />ハーレムの蒼ざめた星よ<br />ここでもお前は忘れ去られてしまったのか?<br />それともマリアもザレマも<br />ただの甘い夢だったのか?<br /><br />空想に満ちた夢が<br />深い暗闇の中に描いた<br />私の束の間の幻影<br />心のほのかな憧れだったのだろうか?」<br />

    愛の泉、バラが添えられた石の目の部分を中心に

    目っていうか、穴にしか見えないんですけど@

    この泉の前で、ニーナが、プーシキンの詩に作曲された歌曲を歌ってくれました。
    歌詞は全然わからなかったけれど、めっちゃくちゃ甘くてロマンチックな曲でした。聞いてる方がちょっぴり恥ずかしくなるくらい(苦笑)。
    そしてニーナの声はとても澄んでいて、きれいに響き渡りました。
    ニーナが歌い終わったあと、そばにいた監視員の人や、耳をすませていた団体客から拍手があがりました。

    ネットで作曲されたものについて検索しました。
    http://homepage2.nifty.com/182494/LiederhausUmegaoka/songs/G/Gurilev/S1984.htm

    プーシキンの詩に作曲した人は、プーシキンと同時代の作曲家アレクサンドル・グリリョーフやソビエト時代の作曲家A.ヴラーソフなど、何名もいるようです。
    ニーナが歌ったのはどの作曲家のものか、残念ながらメモをとっていないので忘れてしまいました。
    ヴラーソフ作曲のものは「比較的よく知られていてロシアでもしばしば演奏される」そうですが、グリリョーフの作曲傾向は「非常に朴訥とした音楽」とのことなので、ニーナが歌ったのはヴラーソフ作曲のものかな。

    プーシキンの詩は600行ほどありますが、その前に短編も作詞したようです。
    アレクサンドル・グリリョーフ版の歌詞として使われているのは以下のとおり。
    さきほどのURL先のサイトからの引用です。

    「愛の噴水よ、生命の噴水よ!
    贈り物としてお前に二輪のバラを捧げよう
    私はお前の絶え間ないささやきが好きだ
    そしてその詩情に溢れる涙が

    お前の銀色のしぶきが
    冷たい露が私に降りかかる
    ああ、流れよ、流れよ、喜びの泉よ
    伝えよ、伝えよ 私に本当の物語を

    愛の噴水よ、悲しみの噴水よ!
    私はその大理石に問いかける
    王国の賛美は私にも聞き取れたが
    マリアのことはお前は黙して語らない

    ハーレムの蒼ざめた星よ
    ここでもお前は忘れ去られてしまったのか?
    それともマリアもザレマも
    ただの甘い夢だったのか?

    空想に満ちた夢が
    深い暗闇の中に描いた
    私の束の間の幻影
    心のほのかな憧れだったのだろうか?」

  • 愛の泉、バラが添えられた石の目から上の部分<br /><br />浮彫りとイスラム文字がステキです@<br /><br />この泉とプーシキンの詩をもとに制作されたバレエ「バフチサライの泉」のあらすじは、こんなかんじです。<br />娘の婚約パーティの真っ最中だったポーランド貴族の家に、ギレイ汗率いるタタール人が来襲し、娘マリアの婚約者は殺され、マリアはその美貌ゆえにギレイ汗に気に入られて、バフチサライ宮殿のハーレムにさらわれます。<br />ただ、ギレイ汗は殺戮の挙句にマリアを誘拐してきたわりには、マリアに死ぬ気で抵抗されせいか、彼女に対しては似つかぬ純情を示し、マリアの心が開くまで待とうとします。<br />一方、ハーレムには、それまでギレイ汗の寵愛を一身に集めていた美姫ザレマがいて、彼女はギレイ汗の心変わりとマリアの美貌に嫉妬し、ギレイ汗が留守のときについにマリアを殺してしまいます。<br />ギレイ汗は、ザレマに未練があったように見えましたが、自分に逆らったということで、みせしめの意味もあってザレマを処刑しました。<br />そして愛する2人を一気に失って、ギレイ汗は「愛の泉」で涙するのです。<br />───元凶はお前だろ、ってかんじ@<br />マリアが最後まで貞操を守ったことや、勇猛残忍な戦士だったギレイ汗が、マリアの存在で急に、彼女の愛を乞うばかりの憂える男になってしまったあたりは、西欧人視点のご都合主義が感じられますけど、古典バレエのストーリィなんてそんなものです。<br />

    愛の泉、バラが添えられた石の目から上の部分

    浮彫りとイスラム文字がステキです@

    この泉とプーシキンの詩をもとに制作されたバレエ「バフチサライの泉」のあらすじは、こんなかんじです。
    娘の婚約パーティの真っ最中だったポーランド貴族の家に、ギレイ汗率いるタタール人が来襲し、娘マリアの婚約者は殺され、マリアはその美貌ゆえにギレイ汗に気に入られて、バフチサライ宮殿のハーレムにさらわれます。
    ただ、ギレイ汗は殺戮の挙句にマリアを誘拐してきたわりには、マリアに死ぬ気で抵抗されせいか、彼女に対しては似つかぬ純情を示し、マリアの心が開くまで待とうとします。
    一方、ハーレムには、それまでギレイ汗の寵愛を一身に集めていた美姫ザレマがいて、彼女はギレイ汗の心変わりとマリアの美貌に嫉妬し、ギレイ汗が留守のときについにマリアを殺してしまいます。
    ギレイ汗は、ザレマに未練があったように見えましたが、自分に逆らったということで、みせしめの意味もあってザレマを処刑しました。
    そして愛する2人を一気に失って、ギレイ汗は「愛の泉」で涙するのです。
    ───元凶はお前だろ、ってかんじ@
    マリアが最後まで貞操を守ったことや、勇猛残忍な戦士だったギレイ汗が、マリアの存在で急に、彼女の愛を乞うばかりの憂える男になってしまったあたりは、西欧人視点のご都合主義が感じられますけど、古典バレエのストーリィなんてそんなものです。

  • ファルコンの塔とその前のローズ・ガーデン<br /><br />ハーレムに女性たちは、ここまでしか出ることができませんでした。<br />塀の向こうは中央広場で、奥のファルコンの塔から中央広場を見下ろすことができます。<br />そこで行われる閲兵式を覗き見るのも、ハーレムの女性たちの数少ない娯楽でした。<br />塔の窓は格子窓になっていて、女性たちからは広場が見えますが、広場からは中の女性たちは見えません。<br />

    ファルコンの塔とその前のローズ・ガーデン

    ハーレムに女性たちは、ここまでしか出ることができませんでした。
    塀の向こうは中央広場で、奥のファルコンの塔から中央広場を見下ろすことができます。
    そこで行われる閲兵式を覗き見るのも、ハーレムの女性たちの数少ない娯楽でした。
    塔の窓は格子窓になっていて、女性たちからは広場が見えますが、広場からは中の女性たちは見えません。

  • ハーレムの建物、向かって左から<br /><br />建物の前の中庭があまり広くないので、全貌が撮れませんでした。<br /><br />4つあったうちの1つが再建され、現在も残っています。<br />一夫多妻のイスラム教徒は、妻たちを全く同等に扱えるのなら(特に経済的な面で)、4人まで正妻がもてます。<br />4つあったハーレムはそんな正妻分?<br />でも、愛人の分は?<br />愛人の数には制限はなしでした。<br />

    ハーレムの建物、向かって左から

    建物の前の中庭があまり広くないので、全貌が撮れませんでした。

    4つあったうちの1つが再建され、現在も残っています。
    一夫多妻のイスラム教徒は、妻たちを全く同等に扱えるのなら(特に経済的な面で)、4人まで正妻がもてます。
    4つあったハーレムはそんな正妻分?
    でも、愛人の分は?
    愛人の数には制限はなしでした。

  • ハーレムの建物、向かって右から<br /><br />この建物は1980年代に再建されたものです。<br />階段を上がったところにあるポーチのゲートの彩色された浮彫り装飾は、16世紀当時の流行スタイルだそうです。<br />

    ハーレムの建物、向かって右から

    この建物は1980年代に再建されたものです。
    階段を上がったところにあるポーチのゲートの彩色された浮彫り装飾は、16世紀当時の流行スタイルだそうです。

  • ハーレムの建物、軒下やポーチの天井に注目しながら

    ハーレムの建物、軒下やポーチの天井に注目しながら

  • 彩色された美しい浮彫り装飾のゲート

    彩色された美しい浮彫り装飾のゲート

  • ハーレムのダイニング・ルーム

    ハーレムのダイニング・ルーム

  • ダイニングにて<br /><br />奥にあるのは、中にお湯を入れて上に皿を乗せて食べ物を温めるためのものです。<br />食事がここまで運ばれるまで時間がたってしまいますから、冷めてしまっていますものね。<br />電子レンジでチン!───したくなる現代人と気持ちは同じ@<br />

    ダイニングにて

    奥にあるのは、中にお湯を入れて上に皿を乗せて食べ物を温めるためのものです。
    食事がここまで運ばれるまで時間がたってしまいますから、冷めてしまっていますものね。
    電子レンジでチン!───したくなる現代人と気持ちは同じ@

  • 夫人たちの間<br /><br />オリジナルの建物には上の窓はなくて、部屋はもっと薄暗かったらしいです。<br />エカテリーナ2世の滞在にあわせて改造されてしまった箇所の1つ。<br />

    夫人たちの間

    オリジナルの建物には上の窓はなくて、部屋はもっと薄暗かったらしいです。
    エカテリーナ2世の滞在にあわせて改造されてしまった箇所の1つ。

  • ゲストルーム<br /><br />ゲストといっても、主に汗を迎えるところです。<br />

    ゲストルーム

    ゲストといっても、主に汗を迎えるところです。

  • ゲストルームの天井<br /><br />これもイタリア風です。<br />

    ゲストルームの天井

    これもイタリア風です。

  • ハーレムで使われたさまざまな楽器<br /><br />手前の楽器はお琴を連想させます。<br />どんな音がするのかしら。<br />

    ハーレムで使われたさまざまな楽器

    手前の楽器はお琴を連想させます。
    どんな音がするのかしら。

  • ハーレムで使われたさまざまな楽器<br /><br />吹き口のあるズタ袋みたいなのも楽器です@<br />

    ハーレムで使われたさまざまな楽器

    吹き口のあるズタ袋みたいなのも楽器です@

  • ハーレムの格子窓(ムシャラビ(musharabi))<br /><br />さきほどのファルコンの塔の窓もこんなかんじです。<br />これなら確かに、外から女性たちの姿は、シルエットも分からないのではないかしら。<br /><br />ちなみに、ハーレムの実態は、記録が残っていないので全く分かっていないそうです。<br />

    ハーレムの格子窓(ムシャラビ(musharabi))

    さきほどのファルコンの塔の窓もこんなかんじです。
    これなら確かに、外から女性たちの姿は、シルエットも分からないのではないかしら。

    ちなみに、ハーレムの実態は、記録が残っていないので全く分かっていないそうです。

  • ハーレムと中庭

    ハーレムと中庭

  • 地下水から湧き出た水のみ場<br /><br />デザインは松ぼっくりがモチーフですね。<br />この水は飲めるようです。<br />すでにおなかを壊している私はやめましたが、ニーナは飲みました。<br />

    地下水から湧き出た水のみ場

    デザインは松ぼっくりがモチーフですね。
    この水は飲めるようです。
    すでにおなかを壊している私はやめましたが、ニーナは飲みました。

  • 歴代の汗一家の墓地へ<br /><br />ユダヤの墓の形に、浮彫は東欧の模様のもの。<br />奥のかわった形はタタール人の若い男性の帽子の形。<br />ユダヤやムスリムの墓の装飾が合体した稀有な棺おけがごろごろ並んでいる墓地です。<br />それも16世紀のものです。<br />以前、ニーナがここにムスリムの団体を案内したとき、ありえない!───と驚愕されたそうです。<br />ありえない、と言われても、現にあるんだもの、と自慢げだったニーナ@<br />

    歴代の汗一家の墓地へ

    ユダヤの墓の形に、浮彫は東欧の模様のもの。
    奥のかわった形はタタール人の若い男性の帽子の形。
    ユダヤやムスリムの墓の装飾が合体した稀有な棺おけがごろごろ並んでいる墓地です。
    それも16世紀のものです。
    以前、ニーナがここにムスリムの団体を案内したとき、ありえない!───と驚愕されたそうです。
    ありえない、と言われても、現にあるんだもの、と自慢げだったニーナ@

  • ケルトチックな紋様のある石棺

    ケルトチックな紋様のある石棺

  • タタール人の若い男性の帽子と塔の形のある珍しい石棺

    タタール人の若い男性の帽子と塔の形のある珍しい石棺

  • 再び、大使たちの控えの間のある建物の前の広場へ

    再び、大使たちの控えの間のある建物の前の広場へ

  • 広場に面した汗の居住区の建物<br /><br />格子窓があるでっぱり部分がとても特徴的です。<br />

    広場に面した汗の居住区の建物

    格子窓があるでっぱり部分がとても特徴的です。

  • 去る前にもう一度、もとモスクをななめから<br /><br />アーチや彩色された装飾がとても美しいです。<br /><br />バフチサライ宮殿を見学したのは、14時20分から15時15分。<br />やや大急ぎでした。<br />もう今日の観光はこれで終わりかと思うと、時間的にまだ早い気がしました。<br />でもこのあと、ヤルタまでドライブです。<br />途中のアイ・ペトリ山頂で写真休憩を取りましたが、ヤルタのホテルに到着したのは約2時間後の17時半でした。<br />それに、アイ・ペトリ山頂は計画に入れていなかった思わぬ観光スポットといえます。<br />ちゃんとLonely Planetでも紹介されていました。<br />

    去る前にもう一度、もとモスクをななめから

    アーチや彩色された装飾がとても美しいです。

    バフチサライ宮殿を見学したのは、14時20分から15時15分。
    やや大急ぎでした。
    もう今日の観光はこれで終わりかと思うと、時間的にまだ早い気がしました。
    でもこのあと、ヤルタまでドライブです。
    途中のアイ・ペトリ山頂で写真休憩を取りましたが、ヤルタのホテルに到着したのは約2時間後の17時半でした。
    それに、アイ・ペトリ山頂は計画に入れていなかった思わぬ観光スポットといえます。
    ちゃんとLonely Planetでも紹介されていました。

  • 19世紀頃のバフチサライ宮殿の絵<br /><br />これは翌日のヤルタでのアルプカ城観光中に撮った写真です。<br />ロシア帝国が派遣したクリミア総督だったアルプカの城主もバフチサライ宮殿を訪れていて、その記念の絵が宮殿内に展示されていました。<br /><br />左手にファルコンの塔と汗の居住区の建物、正面は大使の控えの間のある建物、その右隣はもとモスク、右手のドームは墓地の霊廟です。<br /><br />「2009年ウクライナ旅行第5日目(4)クリミア半島:ニコライ2世一家も通った、アイ・ペトリ山頂を越えてヤルタへ」に続く。<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10381760/<br />

    19世紀頃のバフチサライ宮殿の絵

    これは翌日のヤルタでのアルプカ城観光中に撮った写真です。
    ロシア帝国が派遣したクリミア総督だったアルプカの城主もバフチサライ宮殿を訪れていて、その記念の絵が宮殿内に展示されていました。

    左手にファルコンの塔と汗の居住区の建物、正面は大使の控えの間のある建物、その右隣はもとモスク、右手のドームは墓地の霊廟です。

    「2009年ウクライナ旅行第5日目(4)クリミア半島:ニコライ2世一家も通った、アイ・ペトリ山頂を越えてヤルタへ」に続く。
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10381760/

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