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敦煌は、五胡十六国時代には沙州と名付けられた。唐のころに、一時、吐番(チベット族)の支配を受けるが、851年に豪族の張議潮がこれを駆遂して、敦煌に帰義軍を置いた。これは中原の政権に属しながらも半ば独立した政権で、この帰義軍時代は張氏、曹氏と引き継がれ、11世紀始めに河西回廊が西夏の支配を受けるまで続く。13世紀始めに西夏は元に滅ぼされ、14世紀には明の時代となるが、明は西域経営には関心がなく、16世紀には嘉峪関を建ててその以西の土地を事実上放棄した。このため、敦煌はトルファンの回教政権下に置かれた。敦煌が再び中原の政権に復帰するのは18世紀の清のときであり、敦煌県が置かれ、以来、敦煌の名が定まった。 <br /><br /> 一方、流転の歴史を刻む敦煌は、その地理的な位置からいくつもの重要な役割を担った。『後漢書』の「西域伝」には、 <br /><br /> 「敦煌より西のかた玉門、陽関を出でて、&#37167;善に渉る。敦煌より北すれば、伊吾(ハミ)に通ず」 <br /><br /> と記され、『隋書』の「斐矩伝」には、 <br /><br />「敦煌より発して西海(西の砂漠地帯)に至るには、凡そ三つの道あり。各々襟帯あり。(中略)故に知る、伊吾、高昌(トルファン)、&#37167;善は、皆西域の門戸なり。総て敦煌にあつまる。是れ其の咽喉の地なり」 <br /><br />と記されている。 <br />前漢の敦煌郡の設置によって本格的に漢民族の地として築かれた敦煌は、シルクロードのいずれの道もが収束する「咽喉」であり、西域から辿りつけば、最初に目にする漢民族のオアシスだった。玉や香料、銀器、銅器、名馬などさまざまな西域の物産とその文化を中原にもたらす国際都市として発展し、1世紀には敦煌に入っていたといわれる中央アジアのソグド人をはじめ、多くの西域商人が活躍した。またそればかりでなく、仏教も敦煌を経由して中原へともたらされた。『高僧伝』に「経法の広く中華に流る所以は護の力なり」といわれ、三国時代に多くの教典をもたらした竺法護は敦煌出身の月氏人だった。また莫高窟に最初の窟が築かれた五胡十六国の前涼のころは、前涼の都の武威や敦煌は東西文明の坩堝であり、仏典翻訳の中心地だったのである。 <br /><br />いわば国際的な交易都市、仏教都市として繁栄した敦煌だが、元の末期には「海のシルクロード」の発達に伴う西域シルクロードの衰退によって西域の諸都市とともに歴史から忘れ去られていった。辺境のオアシスとして細々と命脈を保つ長いときを経て、敦煌が再び脚光を浴びるのは、スタインらの探検家によって莫高窟蔵経洞の古文書が西洋に持ち去られ、それらが世界に驚愕を与えたことによってだった。 <br /><br />現在、敦煌の総面積は32200k㎡、そのうちオアシスの面積は4.5%に過ぎない。が、いまも昔も、敦煌は祁連山を源流とする党河流域の最大のオアシスである。年間降雨量39mm、年間蒸発量2400mm。ゴビに囲まれた乾燥地帯でありながらも、豊富な祁連山脈からの地下水によって農業が盛んだ。人口18万人のうち80%が農業や林業、牧畜に携わっているといい、小麦、栗、トウモロコシ、麻、綿花のほか、瓜、西瓜、葡萄などの果物が栽培されている。また、周辺には回族、ウイグル族、カザフ族、モンゴル族などの集落が散在し、かつてのシルクロード都市に多様な民族が暮らした記憶を残している。安西から109㎞、蘭新鉄道の柳園駅から128㎞。西と北は新疆ウイグル自治区に接し、南は青海、チベットへと通じる甘粛省西部の交通の要衝でもある。   <br />  <br />参考:中国観光専門サイト―西部旅情  http://www.westpassion.com

シルクロード――敦煌編③

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2009/07 - 2009/07

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西部旅情

西部旅情さん

敦煌は、五胡十六国時代には沙州と名付けられた。唐のころに、一時、吐番(チベット族)の支配を受けるが、851年に豪族の張議潮がこれを駆遂して、敦煌に帰義軍を置いた。これは中原の政権に属しながらも半ば独立した政権で、この帰義軍時代は張氏、曹氏と引き継がれ、11世紀始めに河西回廊が西夏の支配を受けるまで続く。13世紀始めに西夏は元に滅ぼされ、14世紀には明の時代となるが、明は西域経営には関心がなく、16世紀には嘉峪関を建ててその以西の土地を事実上放棄した。このため、敦煌はトルファンの回教政権下に置かれた。敦煌が再び中原の政権に復帰するのは18世紀の清のときであり、敦煌県が置かれ、以来、敦煌の名が定まった。

 一方、流転の歴史を刻む敦煌は、その地理的な位置からいくつもの重要な役割を担った。『後漢書』の「西域伝」には、

 「敦煌より西のかた玉門、陽関を出でて、鄯善に渉る。敦煌より北すれば、伊吾(ハミ)に通ず」

 と記され、『隋書』の「斐矩伝」には、

「敦煌より発して西海(西の砂漠地帯)に至るには、凡そ三つの道あり。各々襟帯あり。(中略)故に知る、伊吾、高昌(トルファン)、鄯善は、皆西域の門戸なり。総て敦煌にあつまる。是れ其の咽喉の地なり」

と記されている。
前漢の敦煌郡の設置によって本格的に漢民族の地として築かれた敦煌は、シルクロードのいずれの道もが収束する「咽喉」であり、西域から辿りつけば、最初に目にする漢民族のオアシスだった。玉や香料、銀器、銅器、名馬などさまざまな西域の物産とその文化を中原にもたらす国際都市として発展し、1世紀には敦煌に入っていたといわれる中央アジアのソグド人をはじめ、多くの西域商人が活躍した。またそればかりでなく、仏教も敦煌を経由して中原へともたらされた。『高僧伝』に「経法の広く中華に流る所以は護の力なり」といわれ、三国時代に多くの教典をもたらした竺法護は敦煌出身の月氏人だった。また莫高窟に最初の窟が築かれた五胡十六国の前涼のころは、前涼の都の武威や敦煌は東西文明の坩堝であり、仏典翻訳の中心地だったのである。

いわば国際的な交易都市、仏教都市として繁栄した敦煌だが、元の末期には「海のシルクロード」の発達に伴う西域シルクロードの衰退によって西域の諸都市とともに歴史から忘れ去られていった。辺境のオアシスとして細々と命脈を保つ長いときを経て、敦煌が再び脚光を浴びるのは、スタインらの探検家によって莫高窟蔵経洞の古文書が西洋に持ち去られ、それらが世界に驚愕を与えたことによってだった。

現在、敦煌の総面積は32200k㎡、そのうちオアシスの面積は4.5%に過ぎない。が、いまも昔も、敦煌は祁連山を源流とする党河流域の最大のオアシスである。年間降雨量39mm、年間蒸発量2400mm。ゴビに囲まれた乾燥地帯でありながらも、豊富な祁連山脈からの地下水によって農業が盛んだ。人口18万人のうち80%が農業や林業、牧畜に携わっているといい、小麦、栗、トウモロコシ、麻、綿花のほか、瓜、西瓜、葡萄などの果物が栽培されている。また、周辺には回族、ウイグル族、カザフ族、モンゴル族などの集落が散在し、かつてのシルクロード都市に多様な民族が暮らした記憶を残している。安西から109㎞、蘭新鉄道の柳園駅から128㎞。西と北は新疆ウイグル自治区に接し、南は青海、チベットへと通じる甘粛省西部の交通の要衝でもある。  
 
参考:中国観光専門サイト―西部旅情 http://www.westpassion.com

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