2009/06/26 - 2009/06/26
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ムッシュさん
洗馬宿(せばじゅく) 第三十一宿(日本橋より238km)
江戸時代は善光寺西街道との分岐点であり、相当賑わった宿場であったようだ。昭和7年大火で200軒以上の建物が焼失し、宿場の面影は殆ど失われてる。洗馬の名の起こりとなった「大田の清水」だけは今も健在。
本山宿 第三十二宿(日本橋より241.5km)
慶長19年(1614)中仙道の宿場に制定された。現在の建物の多くは幕末から明治にかけてのもので、今も当時の面影を色濃く残し、宿場町の情緒が感じられる。そば切り発祥の地として有名。
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【牧野一里塚標識】
旧牧野公民館下の斜面に牧野一里塚跡標柱があります牧野の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて60里目です。 -
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いよいよ、本山宿に入ってきたようです。
【中山道本山宿しののめのみち標柱】があります。(左端)
ここには【秋葉神社が祀られ、並びに下町石造群】があります。
秋葉常夜燈、道祖神(寛政2年)、馬頭観音像(馬持中二体)、徳本名号碑(文政2年)、地蔵尊(二体)、名号碑(文化2年)、二十三夜塔、供養塔、庚申塔(2基)が並んでいます。 -
秋葉大権現と地蔵・庚申塔・道祖神群
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秋葉大権現と地蔵・庚申塔・道祖神群
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俵屋さん
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本山宿の家並み
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川口屋
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【斜交屋敷】
街道に面して斜めに家並みを配す。坂本宿、大井宿にも存在する。
旧旅籠川口屋、池田屋、若松屋が宿並に沿って斜交(はすかい)に建てられています。
三軒とも明治2年(1869年)の大火直後の再建で、間口五間(約9m)から七間(約12.6m)の上級旅籠で国の登録有形文化財です。 -
おなじく、川口屋
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【表札を見てください】
ここが、本陣さんです。
本陣跡です、代々小林弥右衛門が勤めました、建物前には明治天皇本山行在所跡碑があります。
皇女和宮は11月4日、13日目の夜を小林本陣にて過ごしました。
皇女和宮降嫁に際しては京方20,000人、江戸方15,000人、松本藩などの警護10,000人、助郷人足など総勢80,000人が4日間にわたり大行列が通行しました、助郷20,000人、馬2,000疋などの仮小屋は洗馬宿まで連なり、夜は2,000本の提灯の灯りで昼間のようであったいいます。 -
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【そば切り発祥の里 中山道本山宿】
「蕎麦切りといっぱ
もと信濃の国本山宿より出て
あまねく国々に もてはやされける云々」
(風俗文選松尾芭蕉門下森川許六による)
と記述に残されているように、中山道を往来する旅人の旅情を慰め、勇気づけた蕎麦切りの技術は、ここ本山宿から全国へと広がりました。時代の流れとともに宿場も本山そばもその姿を消してい きましたが、その技術は古今変わることなく母から子、姑から嫁へと「家庭の晴れ食」として継承されて来ています。そして、平成3年、歴史ある蕎麦切りの里の復活を願う有志により、地元産の蕎麦粉 100%を用いた「本山そばの里」が復活しました。 -
【はーい、大変美味しいそばでした】 ごちそうさまでした!!
そば切り本山宿の本場です。 -
著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています。
【木曽街道六拾九次之内 本山 (広重)】33
広重が本山として描いた場所の特定には諸説あります。
最も有力な説は本山宿の西(京口)の外れを、宿方向に向かって描いたというものです、街道は上りから下りにちょうど切り替わっています、本山宿の宿並は東(江戸口)から上り坂の中に構成されています。
これが宿の外れで下りに変わります、ここが正に広重が本山として描いた場所といわれる根拠です!
強烈な野分の後でしょうか、松の大木が横倒しになり、丸太で支えられています。
その奥にはすでに切り倒された切株があります、斧ではなく、木挽き(こびき)によって倒された痕跡を残しています。 -
【日出塩の一里塚跡】です、
標柱には「61里塚 江戸より六十一里 京へ七十一里 両側に榎を植えた」と記されています。 -
国道と鉄道が並行して、いよいよ狭い木曽路の雰囲気が出て来ます。
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道祖神
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本山宿まで1.9km
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北へ本山宿まで2km。南へ贄川駅まで4.6km
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木曽路の北のはずれ
【是より南木曽路】
この地は木曽路の北の入口であり、江戸時代には尾張藩領の北境であった。
石碑は、桜沢の藤屋百瀬栄が昭和十五年に建立。裏に「歌ニ絵ニ其ノ名ヲ知ラレタル、木曽路ハコノ桜沢ヨリ神坂ニ至ル南二十余里ナリ」とある。(紀元二千六百年建立) -
【是より南木曽路の碑】
桜沢茶屋本陣の百瀬家が木曽境に建てた。
奈良井川に注ぐ桜沢川(旧境川)に架かる桜沢橋を渡るといよいよ木曽路に入ります。
桜沢橋は境橋と往時呼ばれ、尾張、松本両藩の境でした、高欄干付刎ね橋の境橋の架橋費用は両藩折半で負担しました。
桜沢橋を渡ると右手に 昭和15年(1940年)百沢立場の茶屋本陣を勤めた藤屋百瀬榮が建立した是より南(みなみ)木曽路碑があります、裏側には「歌ニ絵ニ其ノ名ヲ知ラレタル、木曽路ハコノ桜沢ヨリ神坂ニ至ル南二十四里ナリ」と刻まれています。
島崎藤村著の夜明け前の冒頭の一節には「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたいに行く崖(がけ)の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。東ざかいの桜沢から、西の十曲峠(じつきよく)まで、木曽十一宿(贄川、奈良井、薮原、宮ノ越、福島、上松、須原、野尻、三留野、妻籠、馬籠)はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い渓谷の間に散在していた。」と著されています。 -
この地は木曽路の北の入口であり、江戸時代には尾張藩領の北境であった。
石碑は、桜沢の藤屋百瀬栄が昭和十五年に建立。裏に「歌ニ絵ニ其ノ名ヲ知ラレタル、木曽路ハコノ桜沢ヨリ神坂ニ至ル南二十余里ナリ」とある。(紀元二千六百年建立) -
【桜沢の馬頭観音】
斜面には厄除馬頭観世音文字塔と馬頭観音像が祀られ、旅人の安全を見守っています。 -
【桜沢立場茶屋本陣跡】があります】
代々藤屋百瀬栄左衛門が勤めました。 -
【明治天皇の行在所の碑】
建物前には明治天皇櫻澤御膳水碑、蔵の前には明治天皇櫻澤御小休所碑、明治天皇御駐輦跡碑があります、茶屋本陣には上段の間と次の間を残しています。 -
贄川駅(にえかわ駅)まで、あと2.2kmの道標。
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【若神子(わかみこ)一里塚】
若神子(わかみこ)の一里塚があります、西塚を残しています、江戸日本橋より数えて62里目です。 -
【あの先に見える、カーブを越えると贄川駅(にえかわ駅)の筈。
さあもう少し頑張りましょう】 -
【見えて来ましたJR贄川駅(にえかわ駅)です】
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JR中央線贄川駅舎(にえかわ駅)。
もちろん無人駅です。休憩です。 -
天保14年(1843年)の頃、贄川宿の宿内家数は124軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠25軒で、宿内人口は545人でした。
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【石置き屋根の贄川関所】が復元されています
木曽福島関所の副関として設置。関所前の街道が草道旧道からの本来の旧道筋です。
木曽路は尾張藩領で、贄川(にえかわ)は松本藩との領界にあたるため、木曽路の北口に福島関所の副関所が置かれ、入り鉄砲に出女や木曽五木の搬出を厳しく取り締まり、尾張藩の北番所とも呼ばれました。
〔贄川関所〕
源義仲七代の孫、讃岐守家村建武二年(1334)頃贄川に関所を設け四男家光に守らしむ。
贄川関所は木曽谷の北関門として軍事的にも重要な役割を果たす。
慶長十九年(1614)大坂冬の陣の際は山村良安の家臣原彦左衛門、荻原九太夫此の関の警備に当る。
元和元年(1615)五月大坂夏の陣の際は荻原九太夫、千村大炊左衛門、小川源兵衛此の関を守り酒井左衛門尉の家臣八人の逃亡者を捕らえる。
江戸時代は木曽代官山村氏が臣下をして贄川関を守らしめ特に婦女の通行並に白木の搬出を厳検せり。
関所を出ると贄川宿に到着です!贄川宿は木曽路の東端にあたり、天文年間(1532~54)に開設された、いにしえに温泉があったところから熱川と呼ばれましたが枯れてしまい贄川となりました、昭和5年(1930年)の大火で宿並のほとんどは灰燼に帰してしまいました。 -
著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用してる
【木曽海道六拾九次之内 贄川 広重画】
下諏訪に引き続いて、広重は贄川として夕方の旅籠風景を描いています。
二階の泊り客は夕餉の支度が調うまでの手持無沙汰か、ぼんやりと階下を眺めています。
一階の右手は厨房です、大きな釜が乗った竃(かまど)と膳や什器並べた棚が描かれています。
土間では到着した旅人が草鞋を脱いでいます、脇には足をすすぐたらいが置かれています、縁側では駕籠かきが一服しています、草鞋を解いている旅人を乗せてきたのでしょう。
馬子は荷繕いをしています、通りでは宿役人が帳簿を持って、宿口の方を見ています、各々がリアルな描写ですね! -
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木曽路最初の宿場・贄川(にえかわ)である
その入り口に【贄川の関所】があった.
正しくは、贄川口留番所と記録されている
ここに関が置かれたのは戦国時代の天文年間(1532~1555年)で江戸時代は、木曽の統治を任された山村氏が管理していた
主に女改めと、檜などの木材とその加工品を取り締まっていた
関所を越えると33番目の宿場・贄川宿である -
【贄川関所】
明治2年(1869)福島関所とともに廃止され原型は残ってない。
明治9年の贄川村村誌の「古関図」や寛文年間(1661~72)の「関所番所配置図」をもとに,昭和51年,当時の関所を忠実に復元。内部には上番所、下番所、大名用座敷、中間部屋がある。関所や街道交通に関わる資料を展示している。
階下にある木曽考古館には,贄川簗場遺跡などで出土した土器石器類が展示されている。
建武2年(1334)頃,源義仲7代の孫讃岐守家村が贄川に関所を設けたのが最初で,天正18年に豊臣秀吉が番所を置き、木曽材木の監視のため南の妻籠番所とともに取締りに当たり,関ヶ原の戦いの後、徳川幕府もこれを継承して、福島関所の副関所として木曽代官山村氏の配下が守り,鉄砲と女改めに加え木曽檜の加工品や木材などの搬出を厳重に監視し尾張藩の”北番所”とも呼ばれた。
元の場所は,現在のJR線線路側にあったと云う。 -
贄川宿 【深沢家住宅】国指定重要文化財
唯一残る嘉永7年、江戸時代の木曽独特の伝統的町家造り建物である。関所を構える贄川宿にあり、屋号は加納屋。切妻・二重出し梁・見事な大黒柱など。
次へ 中山道NO21 一度はゆっくり訪れたい奈良井宿へ
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10381304/ -
商店 まるはち漆器
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