2009/05 - 2009/05
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西部旅情さん
中国旅行―シルクロードの旅を続きます。今日は到着したのは武威です!
紀元前1世紀に漢の武帝によって河西四郡が定められ、武威はシルクロードの要衝として栄えた。シルクロードの興隆と衰退とともにあった街は、漢民族の西の前進基地としての気風をいまに残している。
蘭州から海抜2700mの烏鞘嶺を越えると河西回廊に入る。甘粛省の中部から西部にあたり、南側に真夏でも雪を頂く祁連山脈が走り、北側には馬鬃山に連なる低い山が続く。さらに北側には、パタンチリン、テングリなどの砂漠が広がる。敦煌までこの間を貫く海抜約1500mの台地の連なりが河西回廊である。回廊の名が示す通りの細長い地勢で、ちょうど現在の新疆ウイグル自治区(西域)を頭、漢民族の中原を胴体とする「瓢箪」の細い喉首として、古代からシルクロードの要衝であり続けた地域だ。
河西回廊の歴史は古く、秦のころは月氏が占め、それを追って匈奴が入った(武威は匈奴の拠点となって蓋藏城と呼ばれ、後には姑藏と呼ばれた。)紀元前1世紀前後、前漢の武帝のときに、張騫が西域に向かい霍去病などが匈奴を討って、武威、張掖、酒泉、敦煌の河西四郡が定められた。河西回廊は漢の版図に入り、西域経営の拠点となったのである。しかし中原から遠く、漢民族の力が弱まると周辺の遊牧・騎馬民族の侵入を受ける歴史を繰り返した。
武威は、この河西回廊の東側の玄関口にあたり、漢民族との命脈を保つ街として常に重視された。4世紀初めから小政権が乱立する五胡十六国時代に入ると、武威は前涼、後涼、南涼、北涼などの都城となった。『晋書』には「姑藏の豪石(金持ち)七千余戸を関中に移す」とあり、すでにこの頃に武威がシルクロードの要衝として栄えていたことが記されている。その後、武威は涼州と呼ばれ、歴代王朝の役所が置かれてきた(ちなみに張掖は甘州、酒泉は粛州から取られた。)
現在、武威市の人口は96万人。「金の張掖、銀の武威」と呼ばれ、祁連山脈の豊富な地下水によって、河西回廊の殻倉地帯を担っている。包蘭鉄道の支線・干武線と蘭新鉄道が武威南駅で合流し、道路も四方に通じ、交通の要衝でもある。武威の市街地は小さく人口密度の高い街を形成し、軽工業、商業が盛んだ。
街に、高層ビルは少なく、市街地には土色の民家の屋根が広がる。歴史の古い街でありながら、周辺の農村部を含めて田舎町の雰囲気を漂わせている。特に、蘭州の甘粛省博物館にある銅奔馬の出土した地として知られ(銅奔馬は武威のシンボルとなっている)、街のいたるところで銅奔馬の複製に出合う。主だった名所は市街地周辺にあり、郊外にも、漢あるいは明の長城跡や、墓群、天梯山石窟など遺跡は多いが、こちらまで足をのばす人は少ない。
参考:中国旅行専門サイト―西部旅情http://www.westpassion.com
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