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前回の清水観音あたりで日が傾いてきたので、養老渓谷までつっ走ることにしました。で、地図を見ていたら大多喜城が目に飛び込んできました。大多喜城も行ったことがない場所だったものですから、急きょ立ち寄ることにします。<br /><br />この大多喜城がある地域は山上に大多喜城があり、麓は今でも城下町の雰囲気を残した風情ある造りでした。前もって調べもしないで行ってしまったので、ナビ通りに大多喜城の駐車場まで行ってしまって城下の散策はお預けです(・・;)<br /><br />着いた時間には大多喜城内も閉まっていたので残念だったのですが、それ以上にこの周辺は自転車か徒歩でまわらないとダメなようです(笑)<br /><br />ということで、行き直しはしようと思っていますが今回はざっと雰囲気を。。。<br /><br /><br />この地には、古くは根古屋城がありました。時代は室町時代の末です。根古屋城は、木更津にあった真里谷城城主・武田信興の二男武田(真里谷)信清による築城です。当時、南房総(安房)の館山に居城を置いていた里見氏の北方侵攻を防ぐために大永元年(1521)、この地に城を築いたのが始まりといわれています。<br /><br /><br />根古屋城があった場所は、現在の大多喜城の北方1.5キロの場所にあたる【大多喜町泉水岡部台】という話と現存大多喜城址とこの周囲の丘にあったとする2つの説に別れています。大多喜城は根古屋城の頃には「小田喜城」とも呼ばれていました。<br /><br />武田氏は、三代目にあたる武田朝信の時代に里見氏の重臣・正木時茂に攻め入られ滅亡することになります。こののち、里見氏の支配下となった根古屋城は正木時茂から後三代に渡って居城となります。里見氏はその後、豊臣秀吉から惣無事令違反を理由に上総国を没収されることになりました。<br /><br /><br />天正十八年(1590)には徳川家康が移封によって関東の地へやってきます。当時は周辺各国に徳川に敵対する戦国大名がひしめきあっています。家康は、隣国への睨みを利かせるために関八州に重臣を配置します。<br /><br />そして、この地を預けられたのが本多忠勝でした。本多忠勝は徳川家康の重臣であり、後に徳川四天王の1人にあげられた武将です。忠勝がこの根古屋城を大改築(築城)、大多喜城とします。ならびに城下町も整備することによって大多喜藩十万石の所領となりました。<br /><br />現在の復元大多喜城は、昭和五十年に天保十一年(1840)?当時の天守閣絵図を元にして、本丸があった場所に三層四階と地下一階建てからなる天守を復元したものです。<br /><br />城の内部は千葉県立中央博物館の分館になっていて、この地域の中世〜近世までの歴史資料や文化財などを展示しています。この城においては、天主絵図が2つ存在することや天守閣が存在しなかったという説もありで、このような天守閣が本当に存在したのかどうかが定かになっていません。復元なのか模擬なのか。。。<br /><br />

養老巡り2008「大多喜城から出世観音へ」。

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2008/07/17 - 2008/07/17

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フロッガー

フロッガーさん

前回の清水観音あたりで日が傾いてきたので、養老渓谷までつっ走ることにしました。で、地図を見ていたら大多喜城が目に飛び込んできました。大多喜城も行ったことがない場所だったものですから、急きょ立ち寄ることにします。

この大多喜城がある地域は山上に大多喜城があり、麓は今でも城下町の雰囲気を残した風情ある造りでした。前もって調べもしないで行ってしまったので、ナビ通りに大多喜城の駐車場まで行ってしまって城下の散策はお預けです(・・;)

着いた時間には大多喜城内も閉まっていたので残念だったのですが、それ以上にこの周辺は自転車か徒歩でまわらないとダメなようです(笑)

ということで、行き直しはしようと思っていますが今回はざっと雰囲気を。。。


この地には、古くは根古屋城がありました。時代は室町時代の末です。根古屋城は、木更津にあった真里谷城城主・武田信興の二男武田(真里谷)信清による築城です。当時、南房総(安房)の館山に居城を置いていた里見氏の北方侵攻を防ぐために大永元年(1521)、この地に城を築いたのが始まりといわれています。


根古屋城があった場所は、現在の大多喜城の北方1.5キロの場所にあたる【大多喜町泉水岡部台】という話と現存大多喜城址とこの周囲の丘にあったとする2つの説に別れています。大多喜城は根古屋城の頃には「小田喜城」とも呼ばれていました。

武田氏は、三代目にあたる武田朝信の時代に里見氏の重臣・正木時茂に攻め入られ滅亡することになります。こののち、里見氏の支配下となった根古屋城は正木時茂から後三代に渡って居城となります。里見氏はその後、豊臣秀吉から惣無事令違反を理由に上総国を没収されることになりました。


天正十八年(1590)には徳川家康が移封によって関東の地へやってきます。当時は周辺各国に徳川に敵対する戦国大名がひしめきあっています。家康は、隣国への睨みを利かせるために関八州に重臣を配置します。

そして、この地を預けられたのが本多忠勝でした。本多忠勝は徳川家康の重臣であり、後に徳川四天王の1人にあげられた武将です。忠勝がこの根古屋城を大改築(築城)、大多喜城とします。ならびに城下町も整備することによって大多喜藩十万石の所領となりました。

現在の復元大多喜城は、昭和五十年に天保十一年(1840)?当時の天守閣絵図を元にして、本丸があった場所に三層四階と地下一階建てからなる天守を復元したものです。

城の内部は千葉県立中央博物館の分館になっていて、この地域の中世〜近世までの歴史資料や文化財などを展示しています。この城においては、天主絵図が2つ存在することや天守閣が存在しなかったという説もありで、このような天守閣が本当に存在したのかどうかが定かになっていません。復元なのか模擬なのか。。。

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  • 閉まっていたのでわからなかったのですが、大手門風_?

    閉まっていたのでわからなかったのですが、大手門風_?

  • 復元模造の天守閣です。天保6年頃の城跡絵図を見本にして再建されました。城内は博物館になっています。

    復元模造の天守閣です。天保6年頃の城跡絵図を見本にして再建されました。城内は博物館になっています。

  • しゃちほこ。

    しゃちほこ。

  • こちらの看板には、復元天守閣の現存時代の城下図があります。

    こちらの看板には、復元天守閣の現存時代の城下図があります。

  • 最後は夕陽のシルエット。

    最後は夕陽のシルエット。

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