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島(嶋)原(しまばら)は、室町12代将軍・足利 義晴(あしかが よしはる1511−1550年)時代の1528年頃に日本で最初の政府公認の花街になったといわれている。 幕末には西郷隆盛(さいごう たかもり1828−1877年)、久坂玄瑞(くさか げんずい1840−1864年)などの志士や新撰組なども出入りしていた。 明治維新後は島原を支えていた公家、武家社会が崩壊したために衰退し、現在は文化遺産として「大門」、「角屋・すみや」などがわずかに残っているだけだ。島原も新時代を創り出す革命のエレルギーを育てた歴史の一部分として貴重な遺産だ。<br />「角屋」の一角には「東鴻臚館址(ひがしこうろかんあと)」の石碑がある。碑文には「平安時代、京の中央を南北に朱雀大路が貫き、その七条以北の東西にふたつの鴻臚館が設けられていたが、この島原付近は東鴻臚館址にあたる。当時この館を利用したのは、唐ではなく、渤海国の使節に限られた。時の政府は渤海客を大いに歓待し、日本の国威を示すために林邑楽を演奏したり、詩文の会などを催していたが、延喜二十年(920年)頃には廃せられた。そうした由緒ある顕客接待の場が、江戸時代の島原にもてなしの文化の場として蘇ったことは意味深いことといえる。平成十三年十一月吉日島原伝統保存会」と記載されており、与謝蕪村(よさ ぶそん1716−1764年)は<br />白梅や墨芳しき鴻臚館   と鴻臚館が外国使節を接待する迎賓館として隆盛した頃をしのんだ俳句を詠んでいる。<br /> また源氏物語の「桐壷」巻では、光源氏を東宮にしたいが反対勢力を恐れて悩む桐壺の帝が、渤海国(ぼっかいこく698−926年)から高麗人(こまびと)の優れた人相見が鴻臚館に来ていると聞き、光源氏を他人になりすまさせて内密に鴻臚館に遣わし将来を占ってもらったという一節がある。<br />人相見は首をかしげながらも「帝王の相だが帝になると災難が起こりそうだ。しかし政治を補佐する立場で終わる相ではない」と天皇にはなれなかったが紆余曲折の末に天皇に準じる地位まで上り詰める波乱万丈の光源氏を予言している。源氏物語にも登場する華やかな鴻臚館跡にやはり華やかな社交場であった「角屋」が建てられたことも興味深い。<br />(写真は「角屋」)<br />

日本の旅 関西を歩く 京都、島原の「角屋」周辺

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2008/12/01 - 2008/12/01

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さすらいおじさん

さすらいおじさんさん

島(嶋)原(しまばら)は、室町12代将軍・足利 義晴(あしかが よしはる1511−1550年)時代の1528年頃に日本で最初の政府公認の花街になったといわれている。 幕末には西郷隆盛(さいごう たかもり1828−1877年)、久坂玄瑞(くさか げんずい1840−1864年)などの志士や新撰組なども出入りしていた。 明治維新後は島原を支えていた公家、武家社会が崩壊したために衰退し、現在は文化遺産として「大門」、「角屋・すみや」などがわずかに残っているだけだ。島原も新時代を創り出す革命のエレルギーを育てた歴史の一部分として貴重な遺産だ。
「角屋」の一角には「東鴻臚館址(ひがしこうろかんあと)」の石碑がある。碑文には「平安時代、京の中央を南北に朱雀大路が貫き、その七条以北の東西にふたつの鴻臚館が設けられていたが、この島原付近は東鴻臚館址にあたる。当時この館を利用したのは、唐ではなく、渤海国の使節に限られた。時の政府は渤海客を大いに歓待し、日本の国威を示すために林邑楽を演奏したり、詩文の会などを催していたが、延喜二十年(920年)頃には廃せられた。そうした由緒ある顕客接待の場が、江戸時代の島原にもてなしの文化の場として蘇ったことは意味深いことといえる。平成十三年十一月吉日島原伝統保存会」と記載されており、与謝蕪村(よさ ぶそん1716−1764年)は
白梅や墨芳しき鴻臚館   と鴻臚館が外国使節を接待する迎賓館として隆盛した頃をしのんだ俳句を詠んでいる。
 また源氏物語の「桐壷」巻では、光源氏を東宮にしたいが反対勢力を恐れて悩む桐壺の帝が、渤海国(ぼっかいこく698−926年)から高麗人(こまびと)の優れた人相見が鴻臚館に来ていると聞き、光源氏を他人になりすまさせて内密に鴻臚館に遣わし将来を占ってもらったという一節がある。
人相見は首をかしげながらも「帝王の相だが帝になると災難が起こりそうだ。しかし政治を補佐する立場で終わる相ではない」と天皇にはなれなかったが紆余曲折の末に天皇に準じる地位まで上り詰める波乱万丈の光源氏を予言している。源氏物語にも登場する華やかな鴻臚館跡にやはり華やかな社交場であった「角屋」が建てられたことも興味深い。
(写真は「角屋」)

  • 「角屋」前の光景。東鴻臚館址(ひがしこうろかんあと)の石碑がある。

    「角屋」前の光景。東鴻臚館址(ひがしこうろかんあと)の石碑がある。

  • 「角屋」前の光景。

    「角屋」前の光景。

  • 「角屋」前の道しるべ。

    「角屋」前の道しるべ。

  • 「角屋」前の光景。

    「角屋」前の光景。

  • 「角屋」前の久坂玄瑞(くさか げんずい1840−1864年)が「角屋」で密議したことを示す碑。

    「角屋」前の久坂玄瑞(くさか げんずい1840−1864年)が「角屋」で密議したことを示す碑。

  • 「角屋」の一角にある東鴻臚館址(ひがしこうろかんあと)の石碑。碑文には「平安時代、京の中央を南北に朱雀大路が貫き、その七条以北の東西にふたつの鴻臚館が設けられていたが、この島原付近は東鴻臚館址にあたる。当時この館を利用したのは、唐ではなく、渤海国の使節に限られた。時の政府は渤海客を大いに歓待し、日本の国威を示すために林邑楽を演奏したり、詩文の会などを催していたが、延喜二十年(920年)頃には廃せられた。そうした由緒ある顕客接待の場が、江戸時代の島原にもてなしの文化の場として蘇ったことは意味深いことといえる。平成十三年十一月吉日島原伝統保存会」と記載されている。与謝蕪村(よさ ぶそん1716−1764年)の<br /><br />白梅や墨芳しき鴻臚館 の句も記載されている。 

    「角屋」の一角にある東鴻臚館址(ひがしこうろかんあと)の石碑。碑文には「平安時代、京の中央を南北に朱雀大路が貫き、その七条以北の東西にふたつの鴻臚館が設けられていたが、この島原付近は東鴻臚館址にあたる。当時この館を利用したのは、唐ではなく、渤海国の使節に限られた。時の政府は渤海客を大いに歓待し、日本の国威を示すために林邑楽を演奏したり、詩文の会などを催していたが、延喜二十年(920年)頃には廃せられた。そうした由緒ある顕客接待の場が、江戸時代の島原にもてなしの文化の場として蘇ったことは意味深いことといえる。平成十三年十一月吉日島原伝統保存会」と記載されている。与謝蕪村(よさ ぶそん1716−1764年)の

    白梅や墨芳しき鴻臚館 の句も記載されている。 

  • 「角屋」前の光景。

    「角屋」前の光景。

  • 「角屋」前の光景。

    「角屋」前の光景。

  • 「角屋」前の光景。<br />

    「角屋」前の光景。

  • 「角屋」前の光景。

    「角屋」前の光景。

  • 「大門」前の光景。<br />

    「大門」前の光景。

  • 「角屋」の由緒説明。日本で唯一残る揚屋(あげや)建築。<br />

    「角屋」の由緒説明。日本で唯一残る揚屋(あげや)建築。

  • 「角屋」前の光景。

    「角屋」前の光景。

  • 「角屋」前の光景。

    「角屋」前の光景。

  • 島原西門碑。<br />

    島原西門碑。

  • 「角屋」前の光景。<br />

    「角屋」前の光景。

  • 島原住吉神社の碑。<br />

    島原住吉神社の碑。

  • 「角屋」前の光景。<br />

    「角屋」前の光景。

  • 島原住吉神社。<br />

    島原住吉神社。

  • 島原住吉神社。<br />

    島原住吉神社。

  • 島原住吉神社の天満宮の碑。<br />

    島原住吉神社の天満宮の碑。

  •  島原住吉神社。<br />

    島原住吉神社。

  • 島原住吉神社。<br />

    島原住吉神社。

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