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1).旅の始めに <br /><br />             竜が起つ 故宮揺るがす 春疾風<br /> <br />  風の唸るような声に起こされるや、はるか故宮の瑠璃瓦とその先の景山辺りには、黒い風が竜巻のように巻き上がり、窓打つ風の荒々しさに慄きながら、息を潜め、その展開をしばし眺めていた。<br />  オリンピックを控え再開発を急ぐあまり、今や風前の灯にある北京の「胡同」を今のうちに見ておこうと、3月の連休を挟み北京に出かけたが、早速春の嵐の厳しい歓迎を受ける破目となった。北京の春は、透き通るような日々は少なく、むしろ何かに覆われたようなぼんやりと霞んで見える時が多く、それは冬の凍結した自然を打ち破って、早春になると厚い層を成す黄土から蒸蒸として、「気」が立ち上がり始めるためだと、北京人は信じているようである。<br /><br />2).北京の「胡同」を行く.  <br /><br />  「胡同」には面白い名前がある。僕が泊まった公寓のある「金魚胡同」、毛沢東が、門番代わりに居候していた恩師の故居がある「豆腐池胡同」、その後引越しした「三眼井胡同」、1925年3月12日、孫文が亡くなった「鉄獅子胡同」、文革期に非業の最期を遂げた老舎の故居のある「豊富胡同」、大型の荷物を如何にして家の中に運び入れようかと、常に心配させられる間口0.8メートルほどしかない「銭市胡同」等を、見つけることが出来た。四合院の門を見れば、この家の主の素性と身分格式が分かるという形に感心し、四合院の建物の配置が、「気」を意識して造られていることに頷き、至る所に施された精緻な石の彫り物に、関心させられたが、現実は、何世帯もが息を殺しながら雑居している住宅事情に同情しながらも、歴史の流れに、いとも容易く入り込める面白さを、僕は楽しんでいた。<br /><br />3).北京の胡同での、「毛沢東」の、若き日々を辿る<br /><br />  近くの輪タクの溜まり場で、声を掛けられ、値段交渉の末乗り込んだ輪タクの親方は、胡同の中を、灰色の漆喰、あるいはモルタル塗りの聊か歪曲した塀に沿って、狭い通路を巧妙に車を操り、時には、ベルを鳴らしながら、大声を掛け、歩行者を牽制しながら進んでいくのである。有名人の故居の前に来るや、車を停め、説明を始めるのだが、あまりの寒さに、僕は下りる気もせず、車の上で、膝掛けをしっかり握り締め、乗ったまま説明を聞いていた。親方は、京劇の役者のように、派手なジェスチャーを交え、抑揚のある巻き舌で、歯切れ良く説明をしてくれるのだが、残念ながら、内容は、良くは分からないのだが、何故か、僕にはとても楽しいひと時であった。<br /><br />  「毛沢東」は、1918年、湖南省の「長沙」にある「第一師範学校」を卒業し、その年の8月に、恩師である「楊昌済」教授を頼り、友人「蔡和森」と一緒に上京した。「楊昌済」教授は、その年の6月に、「北京大学」の「倫理学」の教授として招聘され、北京に一家(娘の「開慧」は、後に毛沢東の2度目の妻となり、国民党に殺されている)で引越し、「鼓楼」近くの「豆腐池胡同15号」に居住していた。その家は、南北30m弱、東西12mの広さの「四合院」である。<br />   毛沢東は、楊先生の家の門近くの部屋に、しばらく居候したのである。ある日、この家に楊先生を訪ねてきたのは、北京大学の若手教授であり、毛沢東と同年の新進気鋭の梁漱溟教授であった。その時、門前で、彼を取り着いたのは、毛沢東であった。<br />  僕が、此処に来た時、家は、漆喰が剥げ落ち、レンガがむき出しの管理不良な家であった。その家の前で、僕は、当時の様子を想像していた。<br />  「板倉楊」寓の表札の掛かる門前に着くや、人力車から降りた梁漱溟教授は、石段を上がるや、この時応対した毛沢東を恐らく門番と思い、楊先生に取り次ぐよう、当然の如く伝えたに過ぎないのだろう。同年齢と言えども、北京大学教授の給料は200元、毛沢東のそれは8元、新進気鋭の学者と、田舎から働きながら学ぶため出てきた青年との間には、当然に、身なりも、雰囲気も、その仕草なども、格段の差があったのだろう。<br />  この地での、毛沢東と梁漱溟教授との、僅かな出合いが、後に大きな問題となって行った様である(以下略)<br /><br />   * Coordinator:  Gu  Hong <br />         <br />

【北京市】 北京 *  毛沢東 胡同での日々を 旅する

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2005/03/19 - 2005/03/26

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彷徨人MU

彷徨人MUさん

1).旅の始めに 

             竜が起つ 故宮揺るがす 春疾風
 
  風の唸るような声に起こされるや、はるか故宮の瑠璃瓦とその先の景山辺りには、黒い風が竜巻のように巻き上がり、窓打つ風の荒々しさに慄きながら、息を潜め、その展開をしばし眺めていた。
  オリンピックを控え再開発を急ぐあまり、今や風前の灯にある北京の「胡同」を今のうちに見ておこうと、3月の連休を挟み北京に出かけたが、早速春の嵐の厳しい歓迎を受ける破目となった。北京の春は、透き通るような日々は少なく、むしろ何かに覆われたようなぼんやりと霞んで見える時が多く、それは冬の凍結した自然を打ち破って、早春になると厚い層を成す黄土から蒸蒸として、「気」が立ち上がり始めるためだと、北京人は信じているようである。

2).北京の「胡同」を行く.  

  「胡同」には面白い名前がある。僕が泊まった公寓のある「金魚胡同」、毛沢東が、門番代わりに居候していた恩師の故居がある「豆腐池胡同」、その後引越しした「三眼井胡同」、1925年3月12日、孫文が亡くなった「鉄獅子胡同」、文革期に非業の最期を遂げた老舎の故居のある「豊富胡同」、大型の荷物を如何にして家の中に運び入れようかと、常に心配させられる間口0.8メートルほどしかない「銭市胡同」等を、見つけることが出来た。四合院の門を見れば、この家の主の素性と身分格式が分かるという形に感心し、四合院の建物の配置が、「気」を意識して造られていることに頷き、至る所に施された精緻な石の彫り物に、関心させられたが、現実は、何世帯もが息を殺しながら雑居している住宅事情に同情しながらも、歴史の流れに、いとも容易く入り込める面白さを、僕は楽しんでいた。

3).北京の胡同での、「毛沢東」の、若き日々を辿る

  近くの輪タクの溜まり場で、声を掛けられ、値段交渉の末乗り込んだ輪タクの親方は、胡同の中を、灰色の漆喰、あるいはモルタル塗りの聊か歪曲した塀に沿って、狭い通路を巧妙に車を操り、時には、ベルを鳴らしながら、大声を掛け、歩行者を牽制しながら進んでいくのである。有名人の故居の前に来るや、車を停め、説明を始めるのだが、あまりの寒さに、僕は下りる気もせず、車の上で、膝掛けをしっかり握り締め、乗ったまま説明を聞いていた。親方は、京劇の役者のように、派手なジェスチャーを交え、抑揚のある巻き舌で、歯切れ良く説明をしてくれるのだが、残念ながら、内容は、良くは分からないのだが、何故か、僕にはとても楽しいひと時であった。

  「毛沢東」は、1918年、湖南省の「長沙」にある「第一師範学校」を卒業し、その年の8月に、恩師である「楊昌済」教授を頼り、友人「蔡和森」と一緒に上京した。「楊昌済」教授は、その年の6月に、「北京大学」の「倫理学」の教授として招聘され、北京に一家(娘の「開慧」は、後に毛沢東の2度目の妻となり、国民党に殺されている)で引越し、「鼓楼」近くの「豆腐池胡同15号」に居住していた。その家は、南北30m弱、東西12mの広さの「四合院」である。
  毛沢東は、楊先生の家の門近くの部屋に、しばらく居候したのである。ある日、この家に楊先生を訪ねてきたのは、北京大学の若手教授であり、毛沢東と同年の新進気鋭の梁漱溟教授であった。その時、門前で、彼を取り着いたのは、毛沢東であった。
  僕が、此処に来た時、家は、漆喰が剥げ落ち、レンガがむき出しの管理不良な家であった。その家の前で、僕は、当時の様子を想像していた。
  「板倉楊」寓の表札の掛かる門前に着くや、人力車から降りた梁漱溟教授は、石段を上がるや、この時応対した毛沢東を恐らく門番と思い、楊先生に取り次ぐよう、当然の如く伝えたに過ぎないのだろう。同年齢と言えども、北京大学教授の給料は200元、毛沢東のそれは8元、新進気鋭の学者と、田舎から働きながら学ぶため出てきた青年との間には、当然に、身なりも、雰囲気も、その仕草なども、格段の差があったのだろう。
  この地での、毛沢東と梁漱溟教授との、僅かな出合いが、後に大きな問題となって行った様である(以下略)

* Coordinator:  Gu Hong

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  •   毛沢東の、湖南省の長沙にある第一師範学校時代の恩師楊昌済教授の北京での自宅があった、鼓楼近くにある「豆腐池胡同」の街並み。

      毛沢東の、湖南省の長沙にある第一師範学校時代の恩師楊昌済教授の北京での自宅があった、鼓楼近くにある「豆腐池胡同」の街並み。

  •  毛沢東は1918年、湖南省の長沙にある第一師範学校を卒業し、その年の8月に、恩師楊昌済教授を頼り、友人蔡和森と一緒に上京し、楊昌済教授の、鼓楼近くの「豆腐池胡同」15号にあるこの家で、しばらく居候していた。(写真は2009年5月撮影、修理中であった)。

     毛沢東は1918年、湖南省の長沙にある第一師範学校を卒業し、その年の8月に、恩師楊昌済教授を頼り、友人蔡和森と一緒に上京し、楊昌済教授の、鼓楼近くの「豆腐池胡同」15号にあるこの家で、しばらく居候していた。(写真は2009年5月撮影、修理中であった)。

  • 毛沢東の恩師、楊昌済教授の、北京鼓楼近くの「豆腐池胡同」15号にある故居。<br />  <br />

    毛沢東の恩師、楊昌済教授の、北京鼓楼近くの「豆腐池胡同」15号にある故居。
      

  • 「清東陵」

    「清東陵」

  • 「清東陵」 景陵(康熙帝)

    「清東陵」 景陵(康熙帝)

  • 「清東陵」 慈禧陵(西太后)の展示室

    「清東陵」 慈禧陵(西太后)の展示室

  • 「清東陵」 整備完成図

    「清東陵」 整備完成図

  • 「清東陵」 定陵(咸豊帝、西太后の夫)の中央階段の真ん中の石に彫られた龍のレリーフ

    「清東陵」 定陵(咸豊帝、西太后の夫)の中央階段の真ん中の石に彫られた龍のレリーフ

  • 「清東陵」 

    「清東陵」 

  • 「清東陵」 裕陵(乾隆帝)

    「清東陵」 裕陵(乾隆帝)

  • 「清東陵」 裕陵(乾隆帝)

    「清東陵」 裕陵(乾隆帝)

  • 「清東陵」の遠景

    「清東陵」の遠景

  • 北京にある清朝時代の邸宅風のレストラン「白家大宅門食府」のテーブルセット。お客は欧米人が多かった。

    北京にある清朝時代の邸宅風のレストラン「白家大宅門食府」のテーブルセット。お客は欧米人が多かった。

  • 「白家大宅門食府」の料理「芥蘭炒鮑貝」

    「白家大宅門食府」の料理「芥蘭炒鮑貝」

  • 食後、「白家大宅門食府」レストランの部屋から出てくると、清朝時代の衣装を着たウエイトレスが持つ赤いちょうちんに照らされて、門に向かう。清朝時代の兵士姿のウエーターは、『〇〇吉祥”』と声を掛けて、見送ってくれた。

    食後、「白家大宅門食府」レストランの部屋から出てくると、清朝時代の衣装を着たウエイトレスが持つ赤いちょうちんに照らされて、門に向かう。清朝時代の兵士姿のウエーターは、『〇〇吉祥”』と声を掛けて、見送ってくれた。

  • 王府井大街の新東安市場前の歩道にある、老舎の作品「駱駝祥子」の主人公が引く路上彫刻の人力車に乗っての記念写真

    王府井大街の新東安市場前の歩道にある、老舎の作品「駱駝祥子」の主人公が引く路上彫刻の人力車に乗っての記念写真

  • 「清西陵」の前を流れる易水に架かる橋の袂にある、始皇帝の暗殺に向かった荊軻が詠んだ『風々として易水寒し、壮士ひとたび去って復た還らず』の碑

    「清西陵」の前を流れる易水に架かる橋の袂にある、始皇帝の暗殺に向かった荊軻が詠んだ『風々として易水寒し、壮士ひとたび去って復た還らず』の碑

  • 河北省易水市にある「清西陵」

    河北省易水市にある「清西陵」

  • 「周口店」の北京原人の骨の発見地

    「周口店」の北京原人の骨の発見地

  • 永定河に掛かる金代の名橋の橋詰めにある「盧溝橋」のプレート

    永定河に掛かる金代の名橋の橋詰めにある「盧溝橋」のプレート

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