2008/11/14 - 2008/11/14
72位(同エリア86件中)
ムッシュさん
中山道を歩いています。
坂本宿 第十七宿(日本橋より136.5km)
慶長年間につくられた宿場。道の真ん中に用水堀を通し、片側に80軒ずつの建物が区画整理されて建てられた。これらの建物は鬼門除けと宿場の防備のために少し斜めになっている。中山道の難所碓氷峠を控えていたため、当時の坂本宿は活気に溢れていた。
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日枝神社があります、創建年代不詳で、かつては山王大権現と称し、大山咋神(おおやまくいのかみ)を祀っています、郷原村の鎮守です。
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遠くに聳える奇怪な山容の妙義山(1104m)、山の稜線の形が非常に印象的です。
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妙義道の分岐点にたつ常夜灯
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妙義山
形が何とも面白い!! -
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【松井田城の城跡】
天保十四年(1843)頃の松井田宿の宿内家数は252軒、うち本陣2、脇本陣2、旅籠14軒、宿内人口は約1000人で、宿並は六町六間(約666m)でした。
補陀(ふだ)寺の寺域を含む北側一帯は松井田城跡。松井田の地は関東防衛の要衝で、天文20年(1551年)小田原北条氏の配下安中越前守忠政が松井田城を築いたのが始りです、永禄6年(1563年)武田信玄に攻められ忠政は自刃し落城した。
天正10年(1582年)再び小田原北条氏の領有になり、配下の大道寺駿河守政繁が城主となった、天正18年(1590年)豊臣方の前田利家、上杉景勝率いる三万余りの軍勢に攻められ落城、廃城した。 -
江戸より32里。一里塚跡。
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後方は、妙義山の山容。
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JR信越本線をお東踏切で渡ると【茶屋本陣お東、お西】があります。
共に中島家が勤めました。 -
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本家と分家からなり、両家はほぼ同じ構造をしています。
茶屋本陣は参勤交代の大名や公家の休憩所で、宿泊所ではなく、名主の居宅などが選ばれた。
【五科の茶屋本陣】
江戸時代に参勤交代などで中山道を通行する大名や公家等が休憩した所です。
各宿場ごとにある本陣のような宿泊用施設ではなく、休憩や昼食あるいは他の待ちなどに利用されていた。部屋数は少なく、両家とも上座と呼ばれる書院造の上段の間・下(次)の間・式台(玄関)・通り(入側)などを備えている。茶の間に続く広い座敷は名主役宅として、村役所の機能を果たしていました。
五料の茶屋本陣は両家とも中島姓なので、土地の人は今も「お西」「お東」と呼んでいます。両家の先祖は共に天文年中(1540頃)諏訪但馬守が松井田西城に城を構えたときの家臣中島伊豆直賢と伝えられています。お西に伝わる慶長六年(1601)の「五料村御縄打水帳」によると、すでにその頃五料村に土着し名主役を勤めていたことがわかります。両家とも代々名主役(二人名主制)を務めていた。天保七年(1836)から明治五年(1872)までは、交代名主制となり、一年交代で名主役を勤めている。
現在の建物は両家とも文化三年(1806)の大火で焼失し、同年中に再建されたものです。使用材が松材と杉材が主で、大黒柱などはケヤキ材を使用しています。
東・西に土蔵を配し鼓山を眺める南面の借景庭園ははすばらしい。 -
歩いてる通り沿いにある普通の民家ですが、この建て造りは見事の一言です。日本的ですね。
また大きいのよ!! -
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国道18号線側からJR信越本線の踏切を渡り、線路沿いに横川に向います。
下横川信号で「第十五中山道踏切」 -
妙義山の麓辺りを歩いてます。
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【JR横川駅】に到着です。(群馬県安中市横川)
右側の看板は、峠の釜飯で有名な「おぎのや」本店です。釜飯1っヶ900円。
明治18年(1885年)創業の名物峠の釜めし荻野屋、奥にJR信越本線の横川駅。
横川駅前の有名な釜めし、「峠の釜めし」は昭和33年に売り出し、ヒットしたものだ
釜めしの元祖荻野屋(おぎのや)は、日本最古の駅弁屋としても知られている
開業して110年になるという
【松井田町】
松井田町は,群馬県の西部に位置し、碓氷峠を経て、長野県軽井沢町と接し、東京から約130kmの距離です。
上毛三山の一つ奇峰妙義山の裾野に175平方Kmの面積を擁する、緑豊かな町です。町のほぼ中央を信越本線・国道18号線・上信越自動車道・清流碓氷川が並行して縦貫し、交通の便にも恵まれています。
昔は松井田城を中心に栄え、中山道とともに、坂本宿・松井田宿が整備されると宿場町として栄え、古くから交通の要衝でした。
碓氷峠手前の「碓氷の関所」は、箱根の関所と並ぶ重要な関所として有名です。この他にも町内には名所・史跡・文化財などが数多くあります。
妙義山から碓氷峠にかけて「妙義荒船佐久高原国定公園」・「上信越高原国定公園」に指定され、新緑や紅葉など、四季を通じて自然を満喫することができます。このふところに妙義湖・碓氷湖・霧積湖などがあり、つりやポート遊びを楽しめます。麻苧の滝・仙ケ滝などの名瀑も有名です。また人間の証明で有名な秘湯「霧積温泉」も昔ながらのたたずまいを見せています。
小根山森林公園は、国の見本林を解放したもので、園内の散策や鳥獣資料館を見学することができます。
当地横川は、信越本線の難所碓氷峠を越えるため、アプト式鉄道の起点であり、旧国鉄の町として栄えてきました。峠のレンガ橋は通称「めがね橋」として知られ、平成5年8月17日に国指定重要文化財に指定されました
「松井田町」 -
横川駅前広場に立つ、かつての列車の車輪です。
【EF63-3号の動輪】
全国JR路線のなかで最大の難所と言われた信越本線横川・軽井沢間の補助機関車用として平成9年9月30日まで活躍した動輪です。 -
【関所のおこり】
醍醐天皇の昌泰二己未年(899)、坂東に出没する群盗の取り締まりのため、相模国足柄と上野国碓氷の二ヶ所に関所を設け、交通の監視をしたのが始まり。
【碓氷関所門】をくぐります。
碓氷関所跡、慶長19年(1614)仮番所が置かれ、元和8年(1622)番所となり、翌年徳川三代将軍家光の上洛に際し、関所となった。
安中藩が管轄し、東海道箱根関所と同格で「入り鉄砲に出女」を厳しく取締った。明治2年(1869)廃止。中山道にはここ碓氷と木曾福島に関所があった箱根と同様に。写真の東門は当時のものである
「関所の東門」
現存する東門は,全国でただ一つ当時の門柱や門扉を使って復元された貴重な関所の門である。当時はこの東門(東門と西門との門,関所の中は52間2尺およそ95m)は旧道の真ん中に建てられていた。東門は安中藩が管理し、西門は幕府管理だったという。
1869年(明治2)関所が取り壊され、門が燃やされている最中、代々、手形の受付などの実務を担っていた元役人が、「天下有名な碓井関所を焼いて灰とすることは忍びがたい」と処罰を恐れず、門柱、門扉などをひそかに持ち出し民家の蔵などに隠したという。 -
【関所内におじぎ石】
旅人はこの石に手をついて手形を差し出し、通行の許可を待つ。 -
安中藩の番所跡に、東門を昭和34年に復元。県史跡。
【碓氷関所の門】
醍醐天皇の昌泰ニ年(899)に群盗を取り締まるために、関所が碓氷坂に設けられた。この地に関所が移ったのは、元和年間(1615~1623)といわれ、幕藩体制を中心とした、徳川幕府の確立・安定という政治的意味をもつ。いわゆる「入鉄砲に出女」の取締りをねらいとした。明治ニ年(1869)廃関されるまで中山道の要所となった。
門柱および門扉は当時使用されていたもので、総ケヤキ材の要所に金具を用いた堅固なものである。ほかに屋根材六点と台石も当時のもので、昭和34年1月、東京大学教授工学博士藤島亥治郎氏の設計により復元された。
この位置は番所跡にあたり、復元された門は東門である。 -
この信越線ガードを抜けて右方向の道を進みます。
追加情報
碓氷関所跡(東門)
安政2年(1855)に安中城主の板倉勝明が、藩士たちを安中城から中山道碓氷峠頂上の熊野神社まで(約30㎞)徒競走をさせた。これを安政遠足(あんせいとおあし)と言う。この徒競走が記録を競った遠足の最初といわれ、日本最初のマラソン大会という。昭和30年に、このときの記録が峠の茶屋から発見された。その後、安政遠足保存会が組織され、現在の「安政遠足」が開催されるようになった。 -
薬師坂
この急坂道を登ってゆくと坂本宿場町の表通りにでます。 -
坂本宿の木戸の開門は明け六ツ(午前六時)から暮れ六ツ(午後六時)迄でした。
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【坂本宿 金井本陣跡】
金井本陣跡があります、代々金井三郎左衛門が勤め下の本陣と呼ばれました、敷地三百六十坪、建坪百八十坪、間口十間半でした。
皇女和宮は金井本陣に宿泊しました。
【金井本陣跡】
坂本宿には、宮様・公家・幕府役人・大名・高僧などの宿泊する本陣が二つあって、当本陣を「金井本陣」または「下の本陣」と称し、間口十間半(約19m)、建坪百八十坪(約594㎡)、屋敷三百六十坪(約1,200㎡)、玄関、門構え付きの建物であった。「諸大名様方休泊御触帳」によると中山道を上下する大名、例弊使のほとんどは坂本泊まりであった。
本陣を泊まるのは、最低で百二十四文、最高三百文、平均二百文程度で多少のお心付けを頂戴しても献上品が嵩むので利は少なかったが格式と権威は高く格別な扱いを受けていた。
仁孝天皇の第八皇女和宮親子内親王は、公武合体論のなかで十四代将軍徳川家茂に御降嫁されるために、京都を出発され文久元年(1861)十一月九日七ッ時(午後四時)金井本陣に到着され、翌十日朝五ッ時(午前八時)に出立された。御降嫁にあたりお付添い・迎え都合三万人ともいわれる人出で坂本宿はおろか中山道筋はたいへんだったであろう。
「都出て幾日来にけん東路や思えば長き旅の行くすゑ」
皇女和宮がご心中を詠まれた歌である。 -
連格子、庵看板の旧旅籠「かぎや」
旅籠かぎや跡があります、先祖が高崎藩納戸役鍵番でした。
天保14年(1843)には旅籠が40軒あり活気に溢れていた。
碓氷峠の坂の麓に位置する所を地名の由来とした。坂本宿は上州路最後の宿場です、江戸から概ね五泊目にあたり、東に碓氷関所、西に難所碓氷峠を控え大いに賑わいました。
【かぎや】
坂本宿のおもかげを残す代表的は旅籠建物である。伝承によれば、およそ370年前、高崎藩納戸役鍵番をしていた当武井家の先祖が坂本に移住し旅籠を営むにあたり役職にちなんで屋号を「かぎや」とつけたといわれ、まず目につくのは家紋の丸に結び雁金(かりがね)の下に「かぎや」と記した屋根看板である。上方や江戸方に向かう旅人に分かり易く工夫されている。屋根は社寺風の切妻、懸魚(けんぎょ、又は、げぎょ、屋根の破風に取りつけた装飾)があり、出梁の下には、透し彫刻が施されている。
間口六間で玄関から入ると裏まで通じるように土間がある。奥行きは八畳ニ間に廊下、中庭をはさんで八畳二間。往還に面しては二階建て階下、階上とも格子である。宿場は街道文化の溜り場である。
坂本宿も、俳句、短歌、狂歌など、天明、寛政のころは最盛期で当時の当主の鍵屋幸右兵衛門は、紅枝(べにし)と号し次の作品を残している。
「末枝や露八木草の根に戻る(紅枝)」 -
【坂本宿の東の木戸】
上木戸跡です、木戸が復元されています、坂本宿の京(西)口です。
坂本は碓氷峠の坂の麓に位置する所を地名の由来。坂本宿は上州路最後の宿場です、東に碓氷関所、西に難所碓氷峠を控え大いに賑わいました。
ここで殆どの旅人が宿泊した様だ
宿並の完成は寛政2年(1625年)と後発であった。坂本宿は飯盛も盛んで「碓氷峠で坂本見れば女郎が化粧して客を待つ」とうたわれました。
天保14年(1843年)頃の坂本宿の宿内家数は162軒、うち本陣2、脇本陣2、旅籠40軒で、宿内人口は732人でした。
徳川家光の時代,参勤交代に伴い碓氷峠の登り口に宿場が必要となった。寛永2年(1625)に付近の住民を移住させ宿場造りが行われた。東西に幅員14.85m・延長713mの道路を造成し中央に幅4尺の用水路を設置した。橋は17箇所,家々の間口は本陣・脇本陣・問屋場以外は,7間か3間半とされ奥行きは8間から15間という鰻の寝床状。家の後方には,間口に応じ2反歩から4反歩の竹林(防風や裏手からの不審者出入りを防ぐ目的)が与えられた。家は平入り出梁の2階建てとされ,斜交(はすかい)に建てられた峠側の4軒を除き総て街道に平行して建てられた。 -
著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています
【木曽海道六拾九次之内 坂本 英泉画】
背景に特徴的な刎石山(はねいしやま)と宿並を鳥瞰(ちょうかん)して描いた。構図上、山は宿並の横に描いています。家並の中央には用水と石橋が架けられています。
坂本宿長は三百九十二間(約706m)あり、宿並の家数は合計162軒。
宿並の家屋は間口七間(約12.6m)と、三間半(約6.3m)の二種類があり、間口七間の家屋は一軒屋、三間半の家屋は半軒屋と呼ばれた。
次へ 中山道NO.11 坂本宿→碓井峠→軽井沢宿
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