2008/10/22 - 2008/10/27
1486位(同エリア1512件中)
明石DSさん
10月27日(月)晴れ、曇り、時々雨
6日目:パラオ〜関空
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2008.平成20年10月27日(月)
■0時57分:夜中
27/0:57:54
ホテル集合時間は午前1時半
帰国の準備完了、部屋にて待つ
-
27/0:58:02
ビジネスホテル風
ここで四泊する -
27/1:02:02
ロビー一番乗り
ここから三人が帰国の途に -
27/1:02:18
集合10分前、まだ私一人
ダイヤルアップ回線のインターネット -
パラオ国際空港
27/1:50:12
関空直行便は全部が日本人客のような・・・。
パラオ人も見掛けず
その他白人の姿なく -
17/2:28:04
既に出国審査も済み
搭乗待合室にて
一杯の日本人 -
27/2:30:14
JO8896便 -
27/3:16:02
夜食なりや?朝食なりや
午前3時16分に食う -
27/6:49:20
関空に到着 -
27/8:52:26
この電車に乗って西明石まで
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あとがき
旅から戻り、いつものように旅行記を書き出した。今回はICレコーダーで録音した倉田先生との遣り取りを書き取ることから始めた。それが慣れていないこともあってか、とにもかくにも時間が掛かった。何度も、何度も、何度も巻き戻しながら・・・。
途中で何度か挫折しかけたが、その度に又思い直し結局聞き取れるところは大方書き写した。現地で聞く元兵士の方の記録は貴重であり、一言でも消去したくないし、正確に書き残さねばと頑張った。
思うに・・・私の海外旅行が、いつから戦跡巡りの旅になってきたのか?三年前の平成17年に満洲に「祖父の従軍軌跡を追う旅」をしたが戦跡への意識を持ったのはミャンマーへの旅だったように思う。
「ビルマの竪琴」を連想し、たまたま行ったところに日本軍の慰霊碑が多くあり、そのことが以後、戦跡への強い興味になった。
今回のペリリューへの旅は、残念ながら一日ツアー(9:00〜16:00:7時間)での参加であり駆け足で巡り、物思いに耽る余裕もなかったが、現地は生々しく戦場の跡を残しており記憶に強く残る旅になった。
そしてアンガウル玉砕戦を戦い抜いた元兵士であり今もパラオに在住されている、パラオの生き字引とも言える倉田先生に二日間にわたってお話を伺えたことは何にもまして今回の旅が有意義なものになった。
そんなペリリュー・アンガウルをはっきりと知ったのは今年のことである。58歳になって初めて戦跡として認識した島々だった。日本人として知ることが出来て良かったと心からそう思う。
先人たちの艱難辛苦の後に今の日本があり、我々の今の生活がある。63年前に戦った父祖を誇りに思う。どこの国が何を言おうが、誰が何を言おうが私は敗戦までの日本が好きだ。敗戦までの日本人が好きだ。
戦い敗れても尚そう思う。戦後の日本は確かに豊かで戦争もない、しかし誇りも名誉もなくなった。いつも何かを書き記すたびに同じ事を書く。こういうのを口癖っていうのだろう。人には「命より大切なもの」がなければ人間としての価値はない。
米国に自国の安全保障を委ね、属国と化した日本である。憲法で自ら牙を抜き、軍隊もなく軍事法廷もない。そんな国は独立国とは金輪際言えない。そんな国は恥知らずの国であり、恥知らずの民が住む。私も紛れもなくその一人だ。
ペリリュー・パラオへの5泊6日の旅は終わった。
ここにその足跡を記す。
皇紀2668年:西暦2008年
平成20年12月2日(火)
Age.58 -
バベルダオブ島:アルモノグイ砲台
今も明治の“魂”ここに健在なり
明治三十六年(1903年)
呉海軍造兵廠製造の15インチ砲
拾五サンチ速射砲
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倉田洋二先生に関するWeb頁の紹介
「メロウ伝承館」
玉砕戦に生きた兵士 ( 倉田 洋二 )
http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&topic_id=826&post_id=3579
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YOKOのパラオニュース21
パラオに住む現在80歳の生物学者倉田先生はパラオの生き字引。
http://it-net.ddo.jp/2/yoko-news/21/
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倉田洋二先生という一人の熱帯生物学者と出会った
http://m-playboy.shueisha.co.jp/journey/index7.html
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パラオへの恩返し、自然保護に余生を捧げた日本人
http://www.airbepal.com/bn/10509172750200/1090313598.html
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「パラオ・海底の英霊たち」-戦没航空機:田中正文(著)
倉田先生が戦史考証の監修をされています
http://www.sammy-7seas.com/ww2palau.html
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OWSパラオ (パラオフィールドオフィス)
副会長 倉田洋二 元小笠原水産センター所長
http://www.ows-npo.org
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敵将:チェスター・ウィリアム・ニミッツ司令官
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ペリリュー島玉砕戦:船坂弘(著)“あとがき”より以下抜粋↓
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ニミッツはその戦史の中で数多い戦場の要点を回想しているが、彼が難攻不落の激戦場と最初に断定しているのは、ペリリュー島の攻防戦だけである。この戦闘が米軍にとって、いかに不利であり悲惨であったか知ることができる。
それだけに日本軍守備隊の必死の抗戦が予想できる。それらを時の太平洋方面最高指揮官としての立場と、責任において、ニミッツは次のような戦闘経過を記録している。
「ペリリューの複雑極まる防備に打ち勝つには、米国の歴史における他のどんな上陸戦にも見られない最高の損害比率(約四十パーセントの損害=米海兵師団の第一連隊を全滅させた)を出した。すでに制空権をとっていた米軍が、死傷者あわせて一万人を超える犠牲者を出して、この島を占領したことは、今もって疑問である」と。
味方の甚大な損害を率直に述べ、認めている。彼は“勝利者の強がりを抑え”“勝って兜の緒をしめよ”を知るまれに見る名将である。
文責:船坂弘:以上
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チェスター・ウィリアム・ニミッツ
(Chester William Nimitz, 1885年2月24日 - 1966年2月20日)
アメリカ海軍の軍人、最終階級は元帥。
テキサス州出身。第二次世界大戦中のアメリカ太平洋艦隊司令長官
および連合軍の中部太平洋方面の陸海空3軍の最高司令官
親日家で、東郷平八郎元帥 を尊敬していたことでも知られている。
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