2008/10/01 - 2008/10/06
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彷徨人MUさん
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5).日本軍による重慶、成都への空爆と、米軍による日本への空爆
木犀の 香聴き辿る 坂の上
日本軍が、「上海」占領後(第二次上海事変)、「南京」へ迫った1937年11月、蒋介石は首都を「重慶」に遷都した。日本軍は、12月、「南京」を、翌1938年10月、「武漢三鎮」を占領した。「漢口」から「重慶」までは、直線で800キロあり、その間は、道無き山々が連なっている。日本軍は「漢口」から、「重慶」を空爆した。
「日中戦争史」を見ると、「重慶」への空爆は、1939年5月から実施され、1943年秋まで、断続的に行われている。特に、1939年の「 五・三空襲」、「五・四空襲」は、当時の政治の中心であった現在の市政府庁舎一帯に、激しく爆弾と焼夷弾を投下し、この地域を焼き尽くした。1941年6月5日の大空襲では、市内の地下に、掘られた防空壕内で、4,000人以上の市民が窒息死したと言われている。日本軍の「重慶無差別空爆」は、米国に、日本への無差別空爆や原爆投下の口実を与えることになった。米国軍の、報復的空爆は、1944年6月15日、日本軍の空爆を受けた「成都」から飛び立ったB29の大編隊による、「北九州」への空爆から始まっている。
6).「重慶」での長姉「靄齢」邸
十月初旬、「重慶」の街を歩いていると、金木犀の香が,芬々と漂ってきた。
「宋三姉妹」と言えば、日本軍の無差別空爆の被災者を励ましながら、アメリカ国民に日本軍の無差別空爆を訴え、支援を求め続けた話は有名である。
長姉「靄齢」(あいりん)(1889年-1973年)は、「金を愛した女」とも、言われている。孔子の末裔で、後に国民党政権の財政部長、行政院長、中国銀行総裁となった「孔祥煕」と結婚し、穏やかな上流夫人として一生を終えている。
重慶での「靄齢」邸は、「孔公館」と呼ばれ、長江の南岸にある「南温泉」の外れの山間に、1939年建築されている。急勾配の石段を登っていくと、木々の間から色褪せた朱色の「中西折衷」の建物があった。「孔祥煕公館」と書かれた建物の前で、声を掛けると、管理人らしき女性が出てきて、中へ案内してくれた。
部屋数は22室あり、入って左の部屋の壁には、この地での「宋三姉妹』の写真が掛かっていた。裏手の山には、長さ150mのトンネルの、出入り口が3箇所、部屋数が6室の防空壕があり、日本軍の空襲のたびに、一家で避難していた。
以下 『【重慶市】*『宋家三姉妹』 戦いの日々を 旅する(3)』に続く。
表紙の写真:宋家三姉妹の次女慶齢
* Coordinator: Gu Hong
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