2008/10/02 - 2008/10/02
19位(同エリア44件中)
riverwillさん
- riverwillさんTOP
- 旅行記186冊
- クチコミ785件
- Q&A回答0件
- 693,757アクセス
- フォロワー72人
2008年9月23日~10月6日までのトルコ・シリア・ヨルダンの中近東3ヵ国をバス・タクシーを駆使して渡り歩いた放浪記です。今回はホムズから車で1時間離れたところにある世界遺産クラック・デ・シュバリエを訪問した第10日目編です。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 25万円 - 30万円
- 交通手段
- 高速・路線バス タクシー
- 航空会社
- カタール航空
PR
-
7:00起床 7:30朝食
本日は外の風が強かったため、ロビーのソファでひとり分の朝食タイム。
昨日と何ひとつ変わらないメニュー。
ホブス、ハム、マーマレード、バター、クリームチーズ、生のきゅうり2本、トマト丸ごと1個、チャイ(紅茶)
生のきゅうりとトマトはドレッシングも塩もなく、味気ないまま、それでも栄養を取るためにすべていただく。
ロビーにはすでにムハンマド氏が手配したタクシードライバーが、わたしの朝食が終わるまでひたすらじっと待機。
どうやら英語はまったくしゃべれない様子。
宿を出るとき、ムハンマド氏に、
わたしが日本にいたとき、インターネットでたまたまプリントアウトしてきた当ホテルのユーザーコメントの紙をプレゼント。もちろん日本語で彼は読めないけれど、コメントには悪い事は書かれていないので、今後、日本人の客にそれを見せたいそうだ。
まぁ、役に立って何より。 -
奇しくも、人生初のベンツ乗車がこのタクシー。
しかし、でかいだけで車内は年代物。あちこちガタが来て、とにかく汚い。掃除しろ!
しかし、腐ってもベンツ。なんだか気分はとてもゴージャス。
タクシードライバーがまったく英語を解せず、地球の歩き方の後ろにおまけで載っていた「アラビア語講座」で辛うじて会話をこなす。でも、ほとんど会話は成立せず。
ただ、ここぞとばかりに、俺は独身をアピール、君と結婚できたらHAPPY、と身振り手振りで話され、分からない振りしました。
ただ、アラビアンコーヒーを奢ってくれて、いいやつでした。 -
8:10頃パルミラを出発してから、ホムスを通過、10:45には念願のクラック・デ・シュバリエに到着。
通常、ミニバスでパルミラからホムスまで3時間半、ホムスからガラージュに乗り継いで約1時間かかるところを、かっ飛ばして、たった2時間半で目的地到着。
さすが貸切、高いお金を払っただけあります。
道の途中、水道管が破裂していて、噴水が起きていました。道がビショビショ。帰るころには、ブロック石で応急処置がされていました。
ここは世界遺産クラック・デ・シュバリエの全景を見渡せる絶景ポイント。近くにホテルがあります。 -
入場料は150SP。
小額のお札がなかったのが運のつき。1000SPを渡したら受付のおじさんがおつりを間違えて350SPしか返ってこなかった。よく確かめなかったわたしも悪いが・・・悲惨。
(でも、気づいたのはずっと後)
1時間ほどの観光をして戻ってくる約束で、タクシードライバーは駐車場で待機してもらう。
ここに到着するまではとても狭い道ですが、入り口付近は観光バスや車、観光客であふれていました。 -
クラック・デ・シュバリエには、何故意地になって無理にでも来たかったかというと、宮崎駿監督の「天空の城ラピュタ」のモデルになったという話を耳にしたから。
ラピュタは、わたしの旅の原点ともいえる夢とロマンの最高傑作(主観)。ファンとしては絶対押さえておかないと!という訳で。
本当にモデルにされたかは不明ですが。
実際、イメージしていた感じと、ちょっと違いましたが。 -
城を取り囲む外壁のトンネル。
城はトリポリ(レバノン)の東に位置した標高650m程の峰にあります。城からはレバノンを見渡せます。
元々は1031年にアレッポの領主により建築されたが、第1回十字軍時の1099年にツールーズ伯レイモンにより落城した。その後、1144年にトリポリ伯から聖ヨハネ騎士団に譲られた。(Wikipediaより) -
聖ヨハネ騎士団が、この城を要塞化し本拠地としたそうです。
外壁には7つの塔が建ち、内壁との間には、攻城機械を持ち込めないように狭くなっています。
内部の建築物はゴシック調で、ホールや礼拝堂を備え、長期の篭城に耐えうるべく地上には長さ120mの広大な食糧貯蔵庫、さらに地下にももう1つの貯蔵庫が掘られ、5年間の包囲に耐えうると考えられていたそうです。
これはお堀。お堀は周囲を巡らしているわけではなく、一部のみ。
このあたりはちょっとラピュタっぽい。 -
数々の戦いによる攻撃にも耐え、当時の築城技術の粋が集められた堅牢なこの城も、1271年にバイパルスの調略によりとうとう落城、彼の手により礼拝堂はモスクに変えられ、内装もイスラム調に変えられた。
それでも、現在でも十字軍の名残を示す建築物がいたるところで垣間見れます。
深い緑と石壁、空の青のコントラストが本当に美しい。
これは南西護衛塔から撮影。 -
王女の塔あたり。
外壁の上を歩いて観光していたら、突然男の人がついてきてガイドを申し出て、頼んでもいないのに歴史などを説明し始めたり、写真を撮ってくれたり。
単なる親切なのか、それとも実はたくらみでもあるのか、推し量るのが面倒なので軽く無視していたら「きみには僕は必要ないんだね」と勝手に納得して去っていった。何なんだいったい。 -
外壁上の通路に刻まれていた年代。何を意味しているのかは不明。
-
外壁をぐるっと一周し、今度は城の内部へ。
中庭に出て、これはアーチ天井の廊下とホールだったか。
このあたりは十字軍時代の名残かな。 -
塔に登ってみる。
上から眺めた中庭全体。 -
団体の観光客(お年寄りばっかり)が多いので、一方通行の通路は時間がかかる・・・
しかし、欧米系のお年寄りは本当に元気。
よろよろ、見ていて危なっかしくてもこんなところまで併記で観光に来るのだから。
世界一の長寿国日本のシニアも負けてられませんね。 -
塔の窓から眺めた中庭。
絵になります。 -
塔の天辺から見下ろしたお堀。
塔の上には柵や手すりがないので、あくまでも自己責任で。
塔の上には日本人の男の子2人組と女性のひとりがいました。久々に聞く日本語。
でも、やっぱりどちらにも話しかけませんでした。 -
塔のてっぺんから眺めた中庭。
-
左端に日本人女性が塔のヘリで寝転んでいます。
何気なく寝転んでいるそこは、結構きわどい場所。
気持ちよさそうでいて、見ているこっちはちょっと冷や冷や。
まぁ、確かにとっても気持ちの良いいい天気だったからね。
彼女も一人旅かと勝手に親近感。でもやっぱり話しかけず、その場を去る。 -
君主の寝室のある塔にて。
狭い階段は人で大渋滞、譲り合いです。 -
やはり、君主の寝室のある塔から。
パルミラあたりから、一眼レフの方のデジカメのバッテリーが赤ランプに警告点滅し、以来、かなり慎重に撮影していたため写真枚数が極端に少ないです。
なんたって一番見てみたかったペトラに着く前に電池切れなんて、あってはならない事態。泣くどころのお話ではない。
というわけで、クラック・デ・シュバリエはこれでおしまい。 -
クラック・デ・シュバリエを後にして、目指すはホムスのバスターミナル。
今日中にヨルダンへ国境越えしなくてはいけません。
アレッポに不測に滞在したため、スケジュールが押せ押せです。
でも、是非モスクは見た方が良いというドライバーの機転で、特に見所のないホムス唯一の観光地、「ハーリド・イブン・アル・ワリッド・モスク」を訪問。 -
636年にこの地にイスラム教をもたらした際の軍司令官のものとされる墓があり、モスクの名前もそこから来ているとされている。
ただし、現在の建物は20世紀初頭に改修されたものだそうです。
ホムスにおいて、日本人はきわめてまれな異邦人らしく、今までになく強烈な視線を浴び、どこを歩いても人気アイドルのごとく子どもたちについてまわられる始末。
写真に写っている子どもたち全員がこの公園にいる間ついてまわってきました。ありえない。 -
おかげで落ち着いて写真は撮れず・・・
中央の手は、子どもに邪魔されました。おいおい。
とうとう、「一緒に写真を撮ってください」と地元の女性にお願いされ記念撮影までする羽目に。
いったいどこの有名人だ、とわが身を突っ込みたくなりました。
ようやくバスターミナルへ。ここでタクシーの運ちゃんとはサヨナラ。 -
ランチ用にと、バスターミナルの売店で購入した油菓子。
たぶん、「オスマリーエ」という伝統菓子。
そうめんのように細い糸状で生地が作られ、外はパリパリ、中には香ばしいクルミが入っていました。
激アマです。 -
これも油菓子。鉄板の上で保温されながら売られているので、買ったときはほんのりあったかい。
外は油っこく、中はやっぱりクルミが入っていたような。
とにかく甘い!というイメージしか残っていない。
これら2個で5SP(約13円)、激アマで激安。さすがシリア。
ホムスから首都ダマスカスまでのバス代は75SP。所要時間2時間ちょっと。
現地のタクシードライバーの人にチケットを買ってもらったからか、今回安くないか?と勘ぐってしまった。
やっぱり多少はぼられていたのかも・・・
バスの中で隣に座っていた、エアロビクスのインストラクターをしているという同年代の女性と仲良くなり、互いの国について片言の英語で会話。(彼女が英会話が得意でなかったので)
アレッポの話をしたら、田舎では一夫多妻制が残っていて女性は若くして結婚するけれど、ダマスカスなどの都会は日本と同じ、女性は晩婚傾向で、子どもも、出来て2人ぐらいがベストと話していました。意外。 -
15:40 ダマスカス着。
ダマスカスは世界遺産指定の都市。そして、ブルーモスクは世界的に有名だけど寄る暇なく、涙を呑んで、アンマン行きバスが出ているターミナルを探す。
しかし、地球の歩き方の情報はかなり古く、アンマン行きバスが出ているというバスターミナルはすでに地図には載っていない「ガラージュ・ソマリア」へ移転したと地元の人に教えられ、訳も分からず言われるがままに乗り合いタクシーに押し込まれ、乗り合わせた乗客の人に降りるところを教えてもらい、その人たちは親切にもアンマン行き乗り合いタクシーも一緒に探してくれました。
シリア人は、基本的には本当に無償の親切をくれます。日本に帰国したら、困っている外国人を積極的に助けてあげようと心底思いました。
無事、タイミングよく15分後に出るという乗り合いタクシーを見つけ、乗客が4人揃ったところで出発。
出国税のシリアパウンドがほとんどなく、乗り合わせた親切なおばさんに換金してもらう。
18:15 シリア国境に到着。出国税は500SP。外国人の審査は時間がかかり、45分後ようやく全員がスタンプをもらう。
シリアとヨルダンの国境には免税店があり、乗客の一人が何かお土産を買いに行く。わたしはスイス人の男性と情報交換。彼は、大学の研究者で地理学の研究のため3ヶ月ほど滞在するとのこと。
そうしてヨルダン国境へ。わたしはヨルダンビザを持っていなかったのでちょっぴり冷や冷や。シリアと違ってヨルダンビザは取りやすいと聞いていたので日本で調達してこなかった。
ヨルダン側のイミグレは、シリアと比較にならないぐらい立派な建物。そして、「わたしはビザを持っていないからいくらですか?」と尋ねたら「日本人はノービザだよ」とにっこり笑ってあっけないほどあっさり2週間の滞在ビザを発給してくれました。ほっと一安心。
国境でお金を換金。レートが悪いのを承知で、持っていたドルキャッシュをすべて換金しました。トラベラーズチェックはやはり取り扱ってないと拒絶され、少ないキャッシュで一抹の不安。
これはいよいよキャッシングの予感。
アンマンに着いたのは20:40。
スイス人の男性に連れて行ってもらった安宿通りでタクシーを下ろしてもらい、ウロウロしていたら通りすがりの親切なおじさんに「クリフホテル」を案内された。
「クリフホテル」はアンマンでは日本人バックパッカーの聖地とかつて言われたバックパッカー宿。あの、香田証生さんも泊まっていたホテル。今ではオーナーが変わって昔ほど日本人はたむろってないようです。
ヨルダンでも物価が急上昇して料金が上がったと、ガイドブックの掲載額の2.5倍の値段を提示されたので、ディスカウントをマジ懇願。そしたら5JDに負けてくれました。良かった… -
アンマンに着いた頃から胃がシクシク痛く、頭もどよーんと重くなり、おそらく疲れから熱が来ているんだろうと察してバファリンを飲む。
よくあるパターン。
何か食べないとと思い、宿のオーナーに安い食堂を教えてもらい、ホテルの目の前にあった軽食屋でこれを購入。
名前は不明だけど、ヨルダンではメジャーなファーストフードのようです。
店のオヤジは、大道芸のようにリズミカルにテンポよくパンにおかずを詰め、コロッケを揚げていました。
中身はポテトコロッケを押しつぶしたものと、トマトなどの生野菜をはさんだシンプルなドネルサンド。0.3JD(ヨルダン・ディナール/約50円)
それを持って帰る途中、英語のガイドだというおじさんに話しかけられ、かつて一緒に仕事をしていた青年海外協力隊のマキコさんをどれだけ気に入っていたかを延々と20分も語られ、うんざりしている自分に気づいて、とにかく日本人は大好きなので、何か困ったことがあったらここに電話してと名刺をもらって別れました。
何なんだ、もう。
宿ではイスラエル人の青年と知り合い、彼の左腕には奈良美智のあの女の子のイラストの刺青が!彼の大ファンだということで親近感が湧き、少しおしゃべり。
彼とお友達はペトラから帰ってきたばかりとのことで、宿情報をもらおうと思ったけど、あいにく野宿生活だったということで有効な情報は得られず。野宿なんて、たくましいな。飲みに誘われましたが、頭が痛かったので断りました。
この倦怠感、頭も胃もシクシク痛く、翌日も朝7時出のため早めに就寝。しかし、窓の外の飲み屋レストランで激しい宴会が行われていて、深夜まで音楽がうるさく、なかなか寝付けませんでした。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (3)
-
- ピエタさん 2008/12/01 19:35:12
- この日の移動は大変でしたね。
- riverwillさん、こんにちは。
ペトラへの返書、ありがとうございました。
この日の移動は、パルミラからクラックデシュバリエを経て、ダマスカスを通過してアンマンですか。ハードスケジュールでしたね。
クラックデシュバリエは、「天空の城ラピュタ」のモデルになったのですか。知りませんでした。最も、昨年の3月に行った台湾の九分は「千と千尋の神隠し」のモデル、同じく8月に行ってオーストラリアのカタジュタの風の谷は「風の谷のナウシカ」のモデルでしたね。旅行会社も旅心をくすぐるキャッチフレーズを考えるものですね。
歴史好きの私としては、クラックデシュバリエは十字軍の要塞というイメージが強いですが。シリアのホムスに宿泊するつもりですので、ホムスからタクシーをチャーターしてクラックデシュバリエに行きたいと思っています。午後は、ホムスからパルミラまでバスで移動する予定です。
全行程宿舎はネット予約していますが、このホムスだけはネット予約していません。もしかしたら、レバノンのバールベックに泊まることになるかもしれないからです。
夜明けのパルミラと夕暮れのパルミラが見所ですか。夜明けのパルミラは見れるかもしれませんが、夕暮れのパルミラは日没が早い年末・年始は難しいかもしれませんね。パルミラでは土産物攻勢に、ラクダ攻勢ですか。肝に銘じておきます。
- riverwillさん からの返信 2008/12/03 02:16:37
- RE: この日の移動は大変でしたね。
- ピエタさん、こんばんは。
ホムスは、わたしは結局宿泊しなかったのですが、
パルミラで滞在した宿の主人は、ホムスは宿が少なく、
宿代もそれほど安くないよ、と言っていたのを思い出しました。
確か、地球の歩き方でも、海外サイトで調べたときも、
ホムスは宿が少なかった気がします。
念のため、お知らせしておきます。
そして、ブログでも書きましたが、
今回の旅の中で、日本人(アジア人)として一番まちをうろついていて
注目を浴びたのがホムスでした。
よほど珍しいようです。
ちょっとでもうろつこうものなら、悪意なく後をついて回られました。
こちらも念のためご注意を^^;
クラック・ド・シュバリエは十字軍の要塞としては
保存状態がきわめてよく、中世の城として本当に美しいたたずまいでした。
ただ、天空の城ラピュタというイメージはあまりありませんでした。
誰が言い始めたのだろう?と首を傾げるぐらい。
と言うわけで、あまりその辺はお気になさらず。
それから、
ホムス〜パルミラ間のバスは、大型バスは確か本数がとても少なく、
わたしが探したときも午後過ぎについてすでにバスがありませんでした。
そのため、ここでもミニバスの発着所へ連れて行かれました。
ミニバスと言っても、日本の路線バスぐらいの大きさはあるのですが、
快適とはちょっと言いがたいです。
満席になるまで発車しないデメリットはありますが、それでも安いし
一日に本数があるのでスケジュールが組みやすいです。
また、パルミラ〜ダマスカス間のバスはとても本数が多いのですが、
パルミラ→ホムス間のバスは一日1本ぐらいだった気がします。
是非ご留意下さい。
たった1ヶ月前の話なのに、すでにうろ覚えで情報に確信はないのですが、
ご参考までに頭に留めておくといいと思います。
では、良いたびを!!
- ピエタさん からの返信 2008/12/03 17:54:44
- 情報、ありがとうございます。
- riverwillさん、こんにちは。
ホムスの宿は確かに少ないようですね。ネットで調べても2件、それもかなりの高額でした。
私はレバノンのトリポリからホムスに入る予定です。現地で宿舎を探すことになりそうですが、ちょっと不安です。
ホムスでは日本人が珍しい。そうなんですか。私たちは中年カップルですので大丈夫でしょう。
クラックデシュバリエは一応世界遺産ですので見ておきたいです。午前中にホムスからタクシーをチャーターして行く予定です。
午後からはホムスからパルミラに移動する予定ですが、大型バスはない可能性があるのですね。riverwillさんと同じようにミニバスで行くことになると思います。
パルミラの後は、バスでダマスカスに向かいます。本数が多いようで助かります。
インドのムンバイ(今年の8月にムンバイに行きましたので、驚きました)のテロのようなことが起きないように願っています。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
3
26