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戦前、枚方(ひらかた)は禁野(きんや)火薬庫・枚方(ひらかた)製造所・香里(こうり)製造所という陸軍の火薬製造保管施設がある日本有数の爆弾製造拠点だった。戦後陸軍香里製造所跡はニュータウン香里団地に生まれ変わり、当時の遺産は水道局用地となった妙見山配水地(通称エントツ山)に旧製造所汽缶場の20mの煙突が残っているだけだ。当時香里製造所では13歳から17歳までの女学生数百人が1トン爆弾の火薬を作る労働を強いられていた。2008年8月15日の終戦記念日に火薬工場に学徒動員された当時の女学生有志らが非戦(戦争をしない)を誓って「在りし軍国少女非戦の誓い」の碑を旧陸軍香里製造所汽缶場前・末広公園内に建造した。香里製造所で働いていた女学生有志が戦争体験記「女学生の戦争体験」を自費出版し、本の売り上げや寄付金で石碑を建てたそうだ。後世に自分たちが強いられた苦しみを2度と体験させまいとの思いを個々人の負担で伝えようとする行動はすばらしいと思う。<br /><br />陸軍香里製造所跡近くにはモスクワ国際つづり方コンクールで第一位を獲得するなど作文の上手な兄妹として出版、映画化もされた「つづり方兄妹」(野上丹治・洋子・房雄三兄妹)の家族(両親と6人の子供・8人家族)が貧しいながらも平和に暮らしていた。ところが1952年に朝鮮戦争の特需で火薬製造会社が旧香里製造所の払い下げを申請、驚いた香里園地区住民は反対運動を起こし国会・政府に陳情を重ねついに火薬製造所再開を断念させ、結果旧香里製造所は香里団地に再開発されたという経緯がある。<br />このときの反対運動や香里団地開発計画に困惑する子供心を小学校2年生の房雄(ふうちゃん1948−1957)が書いた作文がモスクワ国際児童つづり方コンクールで一等賞になった。 <br /><br />(モスクワ国際児童つづり方コンクールで一等賞になった房雄の作文)<br />    ぼくらの学校<br /> 大阪の野っぱらは、とても、ひろいひろっぱです。そのひろっぱに、おへそのように、ぽこりとふくれた小丘があります。この小さな丘のまん中が、また、おへそのまん中のように、ペコリとへっこんでいます。このへこんだところに、せのひくいほそながいかわらやねが四つと、せの高い、四かくい、そしてまっがにさびた、トタンやねが、一つとあります。<br /> ここは、もと、たくさんな、へいたいさんが、すんでいました。それが、せんそうもすんで、ぼくたちの学校になったのです。<br /> けれども、やっぱり、秋が、来たら、きいろいとらのおの花がいっぱいにさきます。その時は、ほんとうに、かやくのにおいがにおってくるような気がします。でも、ぼくたちは、その花をおって、おかの上のおじぞうさんに、そなえるのです。そして、「おじぞうさん、もう、せんそうがおこらないようにまもってね」といっていのります。<br /> その時、おじぞうさんは、とっても、かわいい顔をして、ニコニコ笑っていらっしゃいます。そして、「そうね、あなたたちみんないいこなんだもの、もうめったに、せんそうなんかおこらないわ。みんなあんしんして、いっしょうけんめい、べんきょうしてね。」といってらっしゃるようです。<br /> それなのに、ぼくたちは、げんしばくだんの、おっかないお話ばかり聴くようになって来ました。おまけに学校のとなりの森の中に、かやくを作る工場ができるというおはなしが、きまりました。みんな、ほんとうに、びっくりしました。そして、「かやくはんたい」と書いた紙のはたをふってあるきました。<br /> おかあさんや、先生方は、えんぜつかいをひらいたり、東京のだいじんさまに「そんなことやめてください」といっておねがいに行ったりしました。そして、とうとう、かやくこうじょうは、作らないことにしていただきました。そして、しばらくあん心してべんきょうしていました。<br /> ところが、また、このごろそうりだいじんから、「お家をたてるから、学校は、どっかへ、ひっこしてください」といって来ました。ぼくらは、このお話を兄ちゃんからきいて、ほんとうにびっくりしました。五百人も子供がいます。そんなたくさんの子どもらの行くところってあるでしょうか。この丘の町は、たいへんとちがせまくて、大かた、山のてっぺんか、坂になっています。小さなお家ならたちますけれども、大きな学校なんかたてるひろっぱは、どこにもありません。<br /> ほんとうにこまったことになりました。このごろ「おじぞうさん、どうかぼくたちの学校がひっこししないように、おたすけください」といって、いのっています。<br />(モスクワ国際児童つづり方コンクールで一等賞になった知らせと賞品がとどいたとき、房雄はすでに亡くなっていた。)<br /><br />今読んでも見事な反戦の作文だ。1950年代は日本中が戦後の貧しさに苦しんだ時代で栄養失調の子供も多かった。モスクワ国際児童つづり方コンクールで一等賞になりながら結果を知る前に亡くなった幼い房雄の悲劇は1958年の映画「つづり方兄妹」で多くの人たちの涙を誘った。大阪府下の小中学校には「つづり方兄妹」の本が図書館に置かれ、この時代は授業の一環として講堂などで「映画鑑賞」の時間があり、多くの子供たちは「つづり方兄妹」の映画を見て泣き悲しんだ。日本中が貧しく苦しい時代だったが、他人を思いやる人情は現代よりも勝っていたように思う。<br />野上房雄君(ふうちゃん1948−1957)は交野市私部墓地(かたのしきさべぼち)に家族とともに眠っており、「つづり方兄妹」を知る世代の人たちが今もお参りしている。<br />(写真は枚方八景のひとつになっている旧陸軍香里製造所跡の「香里団地の並木」)<br />

日本の旅 関西を歩く 大阪・陸軍香里製造所跡と「つづり方兄妹」

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2008/09/12 - 2008/09/12

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    戦前、枚方(ひらかた)は禁野(きんや)火薬庫・枚方(ひらかた)製造所・香里(こうり)製造所という陸軍の火薬製造保管施設がある日本有数の爆弾製造拠点だった。戦後陸軍香里製造所跡はニュータウン香里団地に生まれ変わり、当時の遺産は水道局用地となった妙見山配水地(通称エントツ山)に旧製造所汽缶場の20mの煙突が残っているだけだ。当時香里製造所では13歳から17歳までの女学生数百人が1トン爆弾の火薬を作る労働を強いられていた。2008年8月15日の終戦記念日に火薬工場に学徒動員された当時の女学生有志らが非戦(戦争をしない)を誓って「在りし軍国少女非戦の誓い」の碑を旧陸軍香里製造所汽缶場前・末広公園内に建造した。香里製造所で働いていた女学生有志が戦争体験記「女学生の戦争体験」を自費出版し、本の売り上げや寄付金で石碑を建てたそうだ。後世に自分たちが強いられた苦しみを2度と体験させまいとの思いを個々人の負担で伝えようとする行動はすばらしいと思う。

    陸軍香里製造所跡近くにはモスクワ国際つづり方コンクールで第一位を獲得するなど作文の上手な兄妹として出版、映画化もされた「つづり方兄妹」(野上丹治・洋子・房雄三兄妹)の家族(両親と6人の子供・8人家族)が貧しいながらも平和に暮らしていた。ところが1952年に朝鮮戦争の特需で火薬製造会社が旧香里製造所の払い下げを申請、驚いた香里園地区住民は反対運動を起こし国会・政府に陳情を重ねついに火薬製造所再開を断念させ、結果旧香里製造所は香里団地に再開発されたという経緯がある。
    このときの反対運動や香里団地開発計画に困惑する子供心を小学校2年生の房雄(ふうちゃん1948−1957)が書いた作文がモスクワ国際児童つづり方コンクールで一等賞になった。 

    (モスクワ国際児童つづり方コンクールで一等賞になった房雄の作文)
        ぼくらの学校
     大阪の野っぱらは、とても、ひろいひろっぱです。そのひろっぱに、おへそのように、ぽこりとふくれた小丘があります。この小さな丘のまん中が、また、おへそのまん中のように、ペコリとへっこんでいます。このへこんだところに、せのひくいほそながいかわらやねが四つと、せの高い、四かくい、そしてまっがにさびた、トタンやねが、一つとあります。
     ここは、もと、たくさんな、へいたいさんが、すんでいました。それが、せんそうもすんで、ぼくたちの学校になったのです。
     けれども、やっぱり、秋が、来たら、きいろいとらのおの花がいっぱいにさきます。その時は、ほんとうに、かやくのにおいがにおってくるような気がします。でも、ぼくたちは、その花をおって、おかの上のおじぞうさんに、そなえるのです。そして、「おじぞうさん、もう、せんそうがおこらないようにまもってね」といっていのります。
     その時、おじぞうさんは、とっても、かわいい顔をして、ニコニコ笑っていらっしゃいます。そして、「そうね、あなたたちみんないいこなんだもの、もうめったに、せんそうなんかおこらないわ。みんなあんしんして、いっしょうけんめい、べんきょうしてね。」といってらっしゃるようです。
     それなのに、ぼくたちは、げんしばくだんの、おっかないお話ばかり聴くようになって来ました。おまけに学校のとなりの森の中に、かやくを作る工場ができるというおはなしが、きまりました。みんな、ほんとうに、びっくりしました。そして、「かやくはんたい」と書いた紙のはたをふってあるきました。
     おかあさんや、先生方は、えんぜつかいをひらいたり、東京のだいじんさまに「そんなことやめてください」といっておねがいに行ったりしました。そして、とうとう、かやくこうじょうは、作らないことにしていただきました。そして、しばらくあん心してべんきょうしていました。
     ところが、また、このごろそうりだいじんから、「お家をたてるから、学校は、どっかへ、ひっこしてください」といって来ました。ぼくらは、このお話を兄ちゃんからきいて、ほんとうにびっくりしました。五百人も子供がいます。そんなたくさんの子どもらの行くところってあるでしょうか。この丘の町は、たいへんとちがせまくて、大かた、山のてっぺんか、坂になっています。小さなお家ならたちますけれども、大きな学校なんかたてるひろっぱは、どこにもありません。
     ほんとうにこまったことになりました。このごろ「おじぞうさん、どうかぼくたちの学校がひっこししないように、おたすけください」といって、いのっています。
    (モスクワ国際児童つづり方コンクールで一等賞になった知らせと賞品がとどいたとき、房雄はすでに亡くなっていた。)

    今読んでも見事な反戦の作文だ。1950年代は日本中が戦後の貧しさに苦しんだ時代で栄養失調の子供も多かった。モスクワ国際児童つづり方コンクールで一等賞になりながら結果を知る前に亡くなった幼い房雄の悲劇は1958年の映画「つづり方兄妹」で多くの人たちの涙を誘った。大阪府下の小中学校には「つづり方兄妹」の本が図書館に置かれ、この時代は授業の一環として講堂などで「映画鑑賞」の時間があり、多くの子供たちは「つづり方兄妹」の映画を見て泣き悲しんだ。日本中が貧しく苦しい時代だったが、他人を思いやる人情は現代よりも勝っていたように思う。
    野上房雄君(ふうちゃん1948−1957)は交野市私部墓地(かたのしきさべぼち)に家族とともに眠っており、「つづり方兄妹」を知る世代の人たちが今もお参りしている。
    (写真は枚方八景のひとつになっている旧陸軍香里製造所跡の「香里団地の並木」)

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      • by シベック さん 2008/09/21 19:55:02
        枚方とつずり方兄妹
        さすらいおじさんさん、こんばんは!

        「つづり方兄妹」に反応してしまいました。
        懐かしいです。映画の筋書きは忘れてしまっていましたが、
        映画の題名と結果を知らず幼くして亡くなった主人公のことは、ぼんやり覚えています。
        当時、私の通っていた中学校も作文に力を入れていて、
        全国のコンクールで入賞した友もいたこともあり、
        「枚方とつずり方兄妹」は、セットで覚えております。
        懐かしのお話しに1票を・・。

           シベック

        さすらいおじさん

        by さすらいおじさん さん 2008/09/22 09:26:33
        RE: 枚方とつずり方兄妹
        シベックさん

        「つづり方兄妹」に1票いただき、コメントをありがとうございます。

        「つづり方兄妹」が映画になった1958年頃は文部省の指導だったのか、作文コンクールが多かったように私も思います。

        「つづり方兄妹」はたくさんの作文が入賞して作文のお手本のようで、本も出版され、学校の図書室に置かれましたが、作文が上手なのでクラスのみんなで舌を巻いていたことを覚えています。

        幼い房雄君がモスクワコンクールは1等だったのに、落選したと思って気落ちしたまま亡くなった気の毒な映画のラストシーンは、子供たちに強い悲しみのショックを与えたと思います。だから50年経っても覚えておられる方が多いのでしょうね。

        房雄君の人生は8年と短かったですが、多くの人たちに惜しまれ、きらりと光った命だったと思います。

      • by エトランゼ さん 2008/09/19 22:56:31
        つづり方兄妹
        さすらいおじさん、こんばんは。

        この映画うっすら記憶しているんです。
        大阪が舞台でこんな背景があったなんて知りませんでした。
        貧しい家庭の作文の上手な子供の話で、そのふうちゃんが死んでしまうってくらいしか覚えていませんでした。
        「つづり方兄妹」と言うタイトルにひかれ、もしかしてと思い読みましたが、やっぱりなんともかわいそうな話ですね。

        さすらいおじさん

        by さすらいおじさん さん 2008/09/20 09:48:41
        RE: つづり方兄妹
        エトランゼさん

        「つづり方兄妹」をごらんいただき、コメントをありがとうございます。
        映画化されたのは1958年ですからもう50年になるのですが、「つづり方兄妹」の作文を読んだり、学校などで映画を見たりした人たちは「かわいそうなふうちゃん」を覚えておられる方が多いようですね。

        交野市ではボランティアの方の「歩こう会」のコースに「つづり方兄妹」の墓参りを組み込まれたこともあります。
        交野歴史健康ウォーク
        2005.3.12 第69回:http://murata35.chicappa.jp/kobunka/index.htm

        私も2004年の新聞で「つづり方兄妹は香里園に住んでいた」という記事を読んで思い出しました。
        ほんとうに哀しい話でしたね。


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