2008/08/21 - 2008/08/21
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Johnnieさん
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夏休みがとれたので、4泊5日の関西旅行へ行って来ました。
奈良、大阪、京都、姫路、滋賀という旅程です。
京都市内のホテルに連泊し、京都以外の関西の町を久しく旅行していなかったので、今回は京都を拠点に関西各地へ足を延ばしました。
彦根城を後にし、日が暮れる前にと急いで安土へ向かいました。
お目当てはもちろん、織田信長公築城の安土城跡です。
TV番組で見て以来、妻と行きたいと話していた念願の場所なので、今回の関西旅行の締めくくりに最高の舞台となりました。
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【本能寺】
本当に偶然だったのです。
前日、京都で夕食をとり、ホテルへ戻る道中に「本能寺」がありました。
残念ながら時間外で中には入れませんでしたが。
何だか信長公に呼ばれている気がしたのです。
明日は旅行最終日。
旅の締めくくりを安土城跡にすることを決めたのでした。 -
彦根から安土へ向かいましたが、安土駅は快速が止まらないんですね。
しかも、電車の遅れなどもあり、時間に追われている私たちはちょっとイライラしたり・・・。
でも、それも安土城跡へ来たら吹っ飛んでしまうのですが。
駅前でレンタサイクルを、帰りの電車の都合を考えて2時間で借りました。
自転車屋のオバチャンは、
「『安土城跡』と『信長の館』の両方にみんな行ってるから、両方行った方がいいよ。『安土城跡』でもたつくと『信長の館』に行けなくなるから、先に『信長の館』に行ったら?」
と言ってくれたのですが、私が「安土城跡」を見て帰ってくるのに、2時間がギリギリの線だろうと思っていたので、「信長の館」は諦めて最初から「安土城跡」へ行くことにしました。
ちなみに、「信長の館」には、安土城天守閣の一番上の層が復元されているそうです。
1992年のセビリア万博に出展されたものです。
次に訪れた際は、もう少し早く安土に入って、この復元天守もゆっくり見てみたいものですね。
とか言ってるうちに、着いてしまいました。
が、今はこの階段は通行止めになっていて、もう少し先にある入口から入ることになっています。 -
さあ、やっと入口に着きました。
これです、私が見たかった石段は!
TVで見た時からどうしても行きたいと思っていた壮大なる安土城跡へ足を踏み入れることが出来て本当にうれしいです。
本当に石が多いですね〜。
何だかマチュピチュ遺跡を思い出してしまいます。 -
【大手道】
安土城は、織田信長公が天下統一を目標に天正四年(1576)一月十七日、丹羽長秀を総普請奉行に据え、標高199mの安土山に築城させた平山城です。
(個人的には、平山城というよりは、豪華な山城という気がしてしまいますが・・・)
三年後に、日本初(とガイドマップにある)の天守閣(天主閣)をもつ安土城が一応の完成をみせましたが、天主完成から三年目の天正十年(1582)六月二日未明、本能寺の変により信長公は自害。
混乱の中で天主閣も焼失してしまいました。
建設中も含めて、わずか7年の短い命だったのですね。
原因は、織田信雄が暗愚だから焼き払ってしまっという説や、敗走する明智軍による放火、地元民が略奪の際に放火した、落雷により焼失した、など諸説があります。
天主閣の命が短かったため文献が少ないですが、それがなおのことロマンを掻き立てる気がします。
そして、たとえ天主閣がない城跡であっても、私は信長公の夢の跡をたどりながら、約400段の石段を上がり、天主台へ向かって行きます。 -
【伝 羽柴秀吉邸跡】
まずは上ってすぐにある「羽柴秀吉邸」ですが、"伝"と書かれているところからすると、本当に秀吉邸だったかどうかは確証がないのでしょう。
でも、私にはそんなこと関係ありません。
今日は織田信長公と織田軍団の諸将達の夢の跡を見に来たのですから、秀吉邸と伝えられているなら、秀吉邸として私は感じることにします。
発掘調査によると、ここには櫓門が建てられていたようですね。 -
【伝 羽柴秀吉邸跡】
今立っている場所は厩の跡とのことで、石垣の上段にある郭が、実際の住居だったようです。
今回見た遺構の中で、天守の次に大きく感じた建物跡でした。
これだけ大きな敷地を持たせてもらっているのだから、信頼の高い秀吉が置かれたという言い伝えも、少しは信憑性があるのかもしれません。 -
【伝 前田利家邸跡】
大手道を挟んで向かい側には、「前田利家邸」がありました。
こちらは家族ぐるみで仲良しの秀吉邸の隣の遺構だから前田邸だろう、くらいの言い伝えなんでしょうか?
などという邪推が少しよぎりながらも、「おね」と「まつ」が世間話をしている姿を思い浮かべると、とても楽しい気分になりました。
実際には秀吉は長浜城にいたはずですから、そのようなシーンは無かったのかも知れませんが、想像するのは自由ですからね。 -
【伝 前田利家邸跡】
前田邸には高さ約6mの三段の石垣がそびえていました。
その上には多聞櫓があったとされ、かなり防御性の高い屋敷だったようです。
羽柴邸と並んで、安土城の防御の面で重要な位置にあったのでしょうね。 -
【石仏】
なんと、石段の中に「石仏」様が紛れているではないですか!
とは驚かず、こちらは有名ですね。
神仏を恐れぬ信長公は、築城の際に大手道の石材として、石仏や墓石を使用したと伝えられています。
信長公のことは好きですが、ちょっとやりすぎという気がしないでもないですね。
まあ、本願寺を筆頭に寺社勢力は敵でしたから、内外への示しとして敢えてやったんでしょうけども。
きっと感情的なことだけでなく、そのような戦略もあったのだと思います。 -
【大手道】
再び大手道を上ります。 -
【伝 豊臣秀吉邸址】
先ほどの「羽柴秀吉邸」のすぐ上に、「豊臣秀吉邸」という石碑が。
厩から見えた上段部分ですね。
この時は「豊臣」ではなかったはずなのですが、まあいいや。
ここには高麗門が建っていて、その脇に重層の隅櫓が建っていて防御を固めていたのだとか。
羽柴邸と言い、前田邸と言い、家臣の邸宅を防御の要にするとは、信長公の発想は斬新だったのでしょうね。 -
【大手道】
またまた大手道を上って行きます。
先は長いです。 -
こちらは特に説明書きは無かったのですが。
妻が「仏塔に見える」と言うので撮影してみました。
たしかに、何となくそう見える気もしますね。 -
【伝 徳川家康邸跡】
左下に見える建物は見寺の仮本堂で、徳川家康邸跡だと伝えられています。
大切な同盟者なので、ちょっと良い所に邸を、と言ったところでしょうか。 -
大手道はこの辺りで終了でしょうか。
でも天主台への石段は、まだまだ続きます。 -
【石仏】
また出てきましたね、石仏様。 -
【石仏】
あっちにも。 -
【石仏】
こっちにも。 -
【石仏】
そっちにも! -
【石仏】
この辺りの石段にはたくさんの石仏が使われています。
発掘調査で出てきたものでしょうが、まだまだ眠っている石仏があるような気がしてしまいます。 -
【石仏】
説明書きで「石仏」と書かれているのはここで最後でしたが、注意深く見ると、他にもあったかもしれません。
いやはや、信長公は本当に型破りな方ですね。 -
【伝 武井夕庵邸址】
信長公の右筆だった武井夕庵の邸と伝えられています。
秘書役なので、秀吉や利家よりも、信長公の住む天主に近い場所に建っていた、ということでしょう。 -
【伝 織田信忠邸址】
そして嫡子信忠の邸。
信長公と共に本能寺で亡くなってしまいました。
この邸に住んでいる頃は、誰もが織田家の繁栄を信じて疑わなかったのでしょうが・・・。 -
だいぶ山の中に入って来たようですね。
森の中に目をやると、『マムシ注意』などという看板が。
まあいるだろうな、という感じがしたのですが、「噛まれたら死ぬ」と妻がいつもの心配症を発揮し出しました・・・ -
もう少し行くと黒金門があるはずなのですが。
-
【黒金門跡】
来ました、黒金門跡!
安土城中枢部への入口です。
使っている石垣も、とても大きいですね。 -
【黒金門跡】
いよいよ安土城中枢部へ足を踏み入れます。
この辺りの石垣は400年ものあいだほとんど原形を保っていたと説明がありました。
そして、発掘調査によると、この一帯の建物群は多層的に結合されていた可能性が出てきたのだそうです。
ここから天守へ至る通路や天主から八角平への通路の上には、覆いかぶさるように建物が建ち並び、当時の人々は地下通路を通っているがごとく思えたのではないか、と推定されます。
昨日訪れた姫路城も凄かったですが、スケールの大きさは個人的には安土城が上のように思えました。 -
【仏足石】
本丸跡へ向かう途中にあった仏足石。
何とこちらも、石垣の一部として使われていたんだとか!
いやー、まさに「何も言えねえ」です。 -
【本丸跡】
今では鬱蒼とした林のようになっていますが、ここが本丸跡です。
往時の華やかさ、壮大さは目を見張るものがあったでしょう。
今では想像に任せるしかありません。 -
さあ、天主台まであと少しです。
-
本当に大きくて広い石垣を通って、「一体どんな天主閣だったのだろう?」と思いを馳せながら登って行きます。
柄にもなくドキドキしてしまいます。 -
【天主台跡】
着いた!
のはいいものの、ここには礎石があるだけ。
でも広いです。圧巻です。
そして奥には絶景が待っているはず。 -
遠くに薄らと琵琶湖が、そして手前には田園風景が広がります。
築城当初は、山のすぐ下まで琵琶湖に囲まれており、南方だけが陸地だったそうなのですが、今は干拓により田園風景になってしまいました。
「しまいました」、というのは、司馬遼太郎さんの「街道をゆく〜近江散歩〜」で、司馬さんが子供の頃は、一円が琵琶湖という絶景を眺められたそうなのです。
それはそれは美しい景色だったそうで、大人になってから干拓された景色を見てガッカリされたのだとか。
それで私も「しまいました」と表現したのですが、ここを訪れるのが初めての私にとっては、この景色でも十分美しく感じました。
夕方の涼しい風に吹かれながら、しばしここで休憩をとります。
そして、同じくここから湖を眺めていた信長公の天下布武の夢に、思いを馳せたのでした。 -
下りながら二の丸方面へ向かう途中に見かけた紅葉と烏揚羽。
こうした光景は400年たっても変わることはないのでしょう。 -
この上が二の丸跡。
そして信長公の本廟があるそうです。 -
【二の丸跡】
本丸以上に鬱蒼とした二の丸ですが、奥に見えるのが信長公の本廟です。 -
【信長公本廟】
羽柴秀吉が天正十一年一月に三法師(信長の嫡孫、後の秀信)に年賀を表すべく登城し、翌二月に信長公ゆかりの二の丸跡に太刀、烏帽子、直垂などの遺品を埋葬して本廟としました。
そして六月二日の一周忌には、織田一族や家臣を集め、盛大に法要を行いました。
秀吉にとっては、織田家の人間ではなく自分こそが信長の後継であることをPRする大法要だったことでしょう。 -
【信長公本廟】
ずいぶんと綺麗に石垣が積まれていますが、復元でしょうか?
情報がなかったので分かりませんが、石が新しそうですよね… -
黒金門跡の脇を通り越して、「織田信雄四代供養塔」へと向かいます。
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【織田信雄四代供養塔】
黒金門跡の脇を通って左に進むと「伝 長谷川邸跡」と呼ばれる曲輪にでました。
その奥には信長次男織田信雄を始祖とする大和松山藩主の五輪塔四基が並んでいます。
右から初代信雄、四代信武、三代長頼、二代高長の供養塔ですが、安土城の遺構としては微妙かもしれません。 -
再び「黒金門跡」を通って、最終目的地である見寺方面へ向かいます。
それにしても立派な石垣ですね。
天主の火災に巻き込まれながらも、400年の間ほぼ原形を保っていたと言われていますから、本当に凄いの一言につきます。 -
【伝 織田信澄邸址/伝 森蘭丸邸址】
見寺へ向かう途中に見かけた、両氏の邸址。
なんとなく林にしか見えませんが、ということはまだまだ未発掘の邸址があるということですね。
平成に入ってからも発掘が進んでいるので、これからも楽しみです。 -
そしてまた、石段を踏みしめながら長〜い道のりを歩いて行きます。
-
【見寺裏門跡】
石段の上に明るい光が。
ここが見寺裏門跡のようですね。
まだ日は暮れていないようです。 -
【見寺本堂跡】
本堂跡に着きましたが、奥に何か見えます。
湖のようですが・・・?! -
何と、西側にはまだ湖が見えたのですね!
ここは「西の湖」と言って干拓から取り残された部分なのだそうですが、湖をすっかり諦めていた私にはとても嬉しい風景でした。
天下布武の夢の、ほんの一かけらのような広さかもしれませんが、ここまで来て本当に良かったと思いました。 -
【見寺三重塔】
こちらは現存する三重塔。
享徳三年(1454)建立で、天正三〜四年に信長公が甲賀の長寿寺から移建したと伝えられています。
安土山に現存の建物があるとは思わなかったので、西の湖と同様、嬉しい限りです。 -
本堂跡から下りて行くと、下に二王門が見えて来ました。
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【見寺二王門】
棟木に「元亀二年(1571)七月 甲賀武士 山中俊好建立」とあります。
こちらも三重塔と同様に、信長公が甲賀から移築して来ました。 -
【見寺二王門】
表から見た二王門です。
安土山に残る数少ない建築物として、これからも大切にして行ってもらいたいと思いました。 -
このまま下りられるはずなのですが(最初に着いた所)、今は通行止めになっているので、入口へ向かってまたまた歩いて行きます。
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【伝 羽柴秀吉邸跡】
しばらく歩くと見たことのある場所へ。
はいはい、ここは秀吉さんちの厩ですね。
一周して戻って来ました。 -
【大手道】
自転車を返す時間まで10分ほど余っていたので、名残りを惜しんで大手道をずっと眺めていました。 -
【大手道】
そろそろ閉まる時間なのですが、ぱらぱらと見学者が上って来ます。
父子二人旅もいました。
自分にも男の子が出来たら、男同士で戦国時代の話をしながら上って見たいものです。
羨ましい光景でした。 -
【大手道】
それでは時間が来たので、しぶしぶ安土城を後にします。
本当に来てよかった。
約2時間、ずっとはしゃいでいた気がします。 -
【安土山】
あの上にどんな天主閣が建っていたのか。
分からないこともまたロマンなのかもしれません。
4泊5日の長い関西旅行、締めくくりを安土城跡にしたことで、本当に素晴らしい旅になった気がします。 -
【織田信長公像】
西日で表情が読めない信長公にお礼を言いながら、安土を後にしたのでした。
−08年夏 関西旅行記 完−
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この旅行記へのコメント (2)
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- 円蔵さん 2008/09/20 00:24:24
- はじめまして!
- Johnnieさんはじめまして。
いつも旅行記を見ていただいてありがとうございます。
WEZEERと申します。
安土城跡の旅行記を拝見しました。
信長公のロマン、ひしひしと伝わって着ました。
旅行記の作り方もすっごく上手ですね!
まるで自分が天守台に向う階段を登っているような錯覚でした!
安土城跡、とても行きたくなりました〜
ロマンを感じさせて頂いてありがとうございます!
WEZEER
- Johnnieさん からの返信 2008/09/20 09:58:24
- RE: はじめまして!
- WEZEERさん、はじめまして。
ご訪問&書き込みありがとうございます。
安土城跡、雰囲気がすごく良いですよ〜。
前日に姫路城を見ましたが、天守閣が無いにも関らず姫路城よりもはしゃぎながら登ってしまいました。
やはり好きな武将の城跡を巡るのは格別の思いですよね。
WEZEERさんも、たくさん城巡りをされているんですね。
WEZEERさんの旅行記にもどんどんお邪魔させていただきます。
今後ともよろしくお願いします。
Johnnie
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