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豊田市美術館の紹介です。展示品は撮影できませんが、美術館の建物や、その周囲の光景、屋外の彫刻類の紹介です。

2008春、豊田市美術館(2/3):20世紀美術とデザインの収蔵、現代美術の企画展で有名

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2008/04/20 - 2008/04/20

694位(同エリア748件中)

旅人のくまさん

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豊田市美術館の紹介です。展示品は撮影できませんが、美術館の建物や、その周囲の光景、屋外の彫刻類の紹介です。

交通手段
私鉄
  • 美術館の建物は、地形の傾斜にあわせて、1階部分も2階部分も地面に接しています。1階部分は芝生の広場に面したエントランスで、2階部分のレベルは広大な人工池に面し、アメリカ製の緑色のスレートや白いガラスを用いています。美術館本体や髙橋節郎館など、回廊状に連なった四角い建築群が水面によく映えています。

    美術館の建物は、地形の傾斜にあわせて、1階部分も2階部分も地面に接しています。1階部分は芝生の広場に面したエントランスで、2階部分のレベルは広大な人工池に面し、アメリカ製の緑色のスレートや白いガラスを用いています。美術館本体や髙橋節郎館など、回廊状に連なった四角い建築群が水面によく映えています。

  • 谷口吉生の設計による、鉄とガラスのシンプルな形態のモダニズム建築で、展示や鑑賞や収蔵品の管理に対する配慮の行き届いた機能的な建築と評されています。また、展示室から別の展示室がわずかに見えたり、順路の途中の廊下から豊田市の眺望が開けるなど、意外性や面白さも併せ持っています。

    谷口吉生の設計による、鉄とガラスのシンプルな形態のモダニズム建築で、展示や鑑賞や収蔵品の管理に対する配慮の行き届いた機能的な建築と評されています。また、展示室から別の展示室がわずかに見えたり、順路の途中の廊下から豊田市の眺望が開けるなど、意外性や面白さも併せ持っています。

  • 『又日亭(ゆうじつてい)のあらまし』のタイトルがあった説明パネルの紹介です。当初、尾張藩の幕下御附属衆渡辺家1万4千石の居館である寺部陣屋の書院、茶席として建てられたものです。明治25年に千足町にある竜寿寺の境内に移され、昭和52年に解体される直前に豊田市が譲り受け、七州城の城跡に移築保存されることになりました。

    『又日亭(ゆうじつてい)のあらまし』のタイトルがあった説明パネルの紹介です。当初、尾張藩の幕下御附属衆渡辺家1万4千石の居館である寺部陣屋の書院、茶席として建てられたものです。明治25年に千足町にある竜寿寺の境内に移され、昭和52年に解体される直前に豊田市が譲り受け、七州城の城跡に移築保存されることになりました。

  • 『又日亭』の建物と、扁額の光景です。又日亭の名称の由来は、10代渡辺規網が茶名を「又日庵」を称し、この書院や茶席の計画に深く関わったと推定されることから命名されました。渡辺規綱(わたなべ・のりつな:1792~1871年)は、江戸時代後期の尾張藩家老で、茶人でした。

    『又日亭』の建物と、扁額の光景です。又日亭の名称の由来は、10代渡辺規網が茶名を「又日庵」を称し、この書院や茶席の計画に深く関わったと推定されることから命名されました。渡辺規綱(わたなべ・のりつな:1792~1871年)は、江戸時代後期の尾張藩家老で、茶人でした。

  • 渡辺規綱は、寛政4年(1792年)、三河国奥殿藩4代藩主・松平乗友の次男として江戸で誕生しました。享和2年(1802年)、叔父で三河寺部領主の渡辺綱光の養子となり名古屋に移りました。文化元年(1804年)、養父の隠居により家督を相続しました。文化5年(1808年)、江戸に下って尾張藩10代藩主・徳川斉朝に拝謁し、同年江戸城で11代将軍・徳川家斉に拝謁しました。

    渡辺規綱は、寛政4年(1792年)、三河国奥殿藩4代藩主・松平乗友の次男として江戸で誕生しました。享和2年(1802年)、叔父で三河寺部領主の渡辺綱光の養子となり名古屋に移りました。文化元年(1804年)、養父の隠居により家督を相続しました。文化5年(1808年)、江戸に下って尾張藩10代藩主・徳川斉朝に拝謁し、同年江戸城で11代将軍・徳川家斉に拝謁しました。

  • 規綱は、文化14年(1817年)加判の列に加わり、同年、従五位下・兵庫頭に叙任しました。文政元年(1818年)、加判を免じられ、差控の処分を受けました。文政2年(1819年)、隠居して家督を嫡男の寧綱に譲りました。天保6年(1835年)、出家して兵庫入道と名乗り、又日庵と号して、茶道等の風流に生きました。

    規綱は、文化14年(1817年)加判の列に加わり、同年、従五位下・兵庫頭に叙任しました。文政元年(1818年)、加判を免じられ、差控の処分を受けました。文政2年(1819年)、隠居して家督を嫡男の寧綱に譲りました。天保6年(1835年)、出家して兵庫入道と名乗り、又日庵と号して、茶道等の風流に生きました。

  • 規綱の実弟の裏千家11代玄々斎精中宗室は、規綱の仲介で尾張藩に出仕し、12代藩主・徳川斉荘の師となりました。斉荘は歴代の藩主の中でも特に茶道に熱心で、規綱や玄々斎の影響もあり、それまで有楽流だった尾張家の茶道を、裏千家に改めました。有楽(うらく)流は、織田信長の実弟の長益(有楽斎)が始祖です。

    規綱の実弟の裏千家11代玄々斎精中宗室は、規綱の仲介で尾張藩に出仕し、12代藩主・徳川斉荘の師となりました。斉荘は歴代の藩主の中でも特に茶道に熱心で、規綱や玄々斎の影響もあり、それまで有楽流だった尾張家の茶道を、裏千家に改めました。有楽(うらく)流は、織田信長の実弟の長益(有楽斎)が始祖です。

  • 1978年(昭和53年)に復元された、挙母城隅櫓に関する説明パネルのようです。復元工事の前の発掘調査写真などが紹介されていました。

    1978年(昭和53年)に復元された、挙母城隅櫓に関する説明パネルのようです。復元工事の前の発掘調査写真などが紹介されていました。

  • 1978年(昭和53年)に復元された、挙母城隅櫓の光景です。外観だけを無料で見学することが出来ます。正式名は『挙母城(ころもじょう)』、通称が『七州城(しちしゅうじょう)』です。1782年(天明2年)に築城され、挙母藩の藩庁が置かれました。遺構の一部(隅櫓跡)が「挙母城(七州城)隅櫓跡」として1972年(昭和47年)2月に豊田市の指定史跡になりました。

    1978年(昭和53年)に復元された、挙母城隅櫓の光景です。外観だけを無料で見学することが出来ます。正式名は『挙母城(ころもじょう)』、通称が『七州城(しちしゅうじょう)』です。1782年(天明2年)に築城され、挙母藩の藩庁が置かれました。遺構の一部(隅櫓跡)が「挙母城(七州城)隅櫓跡」として1972年(昭和47年)2月に豊田市の指定史跡になりました。

  • 同じく、挙母城(隅櫓の光景です。内部見学はできませんので、1階の扉は固く閉じられたままです。『七州城』の呼び名は、「三河国」「尾張国」「美濃国」「信濃国」「伊賀国」「伊勢国」「近江国」の7つの国が見える高台にあることからの命名です。挙母には、鎌倉時代の1309年に中條景長によって金谷城が築かれましたが、戦国時代に今川氏、後に織田氏に攻略され、江戸時代初期である1604年に三宅康貞が1万石で入封しました。

    同じく、挙母城(隅櫓の光景です。内部見学はできませんので、1階の扉は固く閉じられたままです。『七州城』の呼び名は、「三河国」「尾張国」「美濃国」「信濃国」「伊賀国」「伊勢国」「近江国」の7つの国が見える高台にあることからの命名です。挙母には、鎌倉時代の1309年に中條景長によって金谷城が築かれましたが、戦国時代に今川氏、後に織田氏に攻略され、江戸時代初期である1604年に三宅康貞が1万石で入封しました。

  • 康貞は城の破損が著しいことから、金谷城から1キロほど北に陣屋を構え、桜の木を植えたことから、俗に桜城と呼ばれました。寛延2年(1749年)、内藤氏が城の改修を計画し着手したが、矢作川の氾濫により何度も被害を受けたため、桜城から高さ65メートルほどの丘である童子山に移しました。それがこの地です。

    康貞は城の破損が著しいことから、金谷城から1キロほど北に陣屋を構え、桜の木を植えたことから、俗に桜城と呼ばれました。寛延2年(1749年)、内藤氏が城の改修を計画し着手したが、矢作川の氾濫により何度も被害を受けたため、桜城から高さ65メートルほどの丘である童子山に移しました。それがこの地です。

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