2008/02/19 - 2008/02/20
132位(同エリア153件中)
早島 潮さん
平成20年2月20日(水)
博物館の見学を終えパルミュラ遺跡目指して長時間のバス移動である。夕刻到着した。
パルミラはシリア砂漠の中央に位置し、その遺跡はダマスカスから北東約200kmにある巨大な規模のものである。最盛時には現在の遺跡の3倍の大きさであったという。
紀元前19世紀には早くもこのオアシスに集落が出来ていた。マリやカッパドキアで発見された古文書にタドモルの名前で記されている。
紀元前10世紀にユダヤ王ソロモンはこの地まで勢力を及ぼしていたと見られる記述が旧約聖書に書かれている。
東西を結ぶ隊商路は最初、ユーフラテス川中流域から三日月地帯に沿ってトルコ高地の裾野を通るルートをとった。しかし紀元前1世紀に北部地域で動乱が発生すると、メソポタミアと地中海を直線で結ぶ砂漠の最短ルートが選ばれるようになった。それ以降、砂漠のオアシスのパルミラはシルクロードの中継地として大きく発展した。
ローマ帝国の属領となってからは自治が認められ交易の富を蓄えていく。
東方にあったパルチアとも友好関係を続けたので敵対しあっていたローマ・パルチア両国の商品がこの中立地帯で交換され、パルミラは関税を徴収することで繁栄した。
106年にトラヤヌス帝が砂漠の隊商国ナバテヤ人の町ペトラを征服してからは、パルミラはこの地方の商業活動の中心地になり最盛期を迎えた。
228年、東にササン朝ペルシャが興ると、パルミラは通商路を守るためにローマからの独立を求めた。パルミラ王オダナイトはローマ帝国と同調しながら独立に近い状態を構築したが暗殺されてしまう。270年その妻ゼノビアは、息子が幼少のため女王の名で摂政の位についた。ゼノビアは新しい通商路を開発するためエジプトまで兵を進めやがてローマ帝国と領土を争うほどに勢力を高めた。
272年、ローマのアウリアヌス帝はエムス(現ホムス)でパルミラの大軍を破り、やがてパルミラの町は破壊された。
以後パルミラは交易都市ではなく戦略拠点として重要視された。
ビザンチン時代には教会や城壁が建てられアラブ時代にも城砦が造られたが過去のような繁栄は戻らなかった。オスマン朝以降は砂漠の中の廃墟となった。
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- 観光バス
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
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