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二宮金次郎の故郷を訪ねてきました。小田原市の「小田原市尊徳記念館」とその周辺にある遺構、お墓、捨て苗栽培の地、尊徳が一家離散にて身を寄せた“二宮万兵衛宅”を見学しました。早春にはまだ早い2月中旬、梅が早くも咲きだしていました。写真は座った、珍しい二宮金次郎の銅像です。二宮家の菩提寺「善栄寺」にありました。

二宮金次郎を訪ねて【小田原市尊徳記念館】(神奈川県小田原市栢山)

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2008/02/16 - 2008/02/17

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しんちゃん

しんちゃんさん

二宮金次郎の故郷を訪ねてきました。小田原市の「小田原市尊徳記念館」とその周辺にある遺構、お墓、捨て苗栽培の地、尊徳が一家離散にて身を寄せた“二宮万兵衛宅”を見学しました。早春にはまだ早い2月中旬、梅が早くも咲きだしていました。写真は座った、珍しい二宮金次郎の銅像です。二宮家の菩提寺「善栄寺」にありました。

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  • 栃木県芳賀郡二宮町の二宮金次郎記念館は二度ほど訪問しました。小田原市の二宮尊徳記念館を訪ねる機会がきました。ナビを小田原市栢山(かやま)にあわせると「尊徳記念館」がありました。

    栃木県芳賀郡二宮町の二宮金次郎記念館は二度ほど訪問しました。小田原市の二宮尊徳記念館を訪ねる機会がきました。ナビを小田原市栢山(かやま)にあわせると「尊徳記念館」がありました。

  • 江戸時代は田舎だったのでしょう。現在は住宅地の端にありました。

    江戸時代は田舎だったのでしょう。現在は住宅地の端にありました。

  • 「尊徳記念館」観覧料、大人200円。1階の一部が展示室です。入って間もなく、ビデオにて小田原の子供の頃から下野国(栃木県)までの一生をかいつまんで見ることができます。

    「尊徳記念館」観覧料、大人200円。1階の一部が展示室です。入って間もなく、ビデオにて小田原の子供の頃から下野国(栃木県)までの一生をかいつまんで見ることができます。

  • 二宮尊徳の生家は小田原市の北東側、酒匂川(さかわがわ)の西側にあります。二宮家の一家離散は酒匂川の氾濫にあります。平成になった現在でも、1999年の水難事故でキャンプ中の13人が亡くなったのは記憶にあります。2006年にも2人が亡くなっているようです。いかに暴れ川なのかが、わかります

    二宮尊徳の生家は小田原市の北東側、酒匂川(さかわがわ)の西側にあります。二宮家の一家離散は酒匂川の氾濫にあります。平成になった現在でも、1999年の水難事故でキャンプ中の13人が亡くなったのは記憶にあります。2006年にも2人が亡くなっているようです。いかに暴れ川なのかが、わかります

  • 二宮金次郎は勉学が好きでした。どうしてでしょうか? 父親が読書を好きだった影響からだそうです。中流の農家だったようです。砂に“字”を書き練習したそうです。

    二宮金次郎は勉学が好きでした。どうしてでしょうか? 父親が読書を好きだった影響からだそうです。中流の農家だったようです。砂に“字”を書き練習したそうです。

  • 砂箱に字を書く二宮金次郎がいました。

    砂箱に字を書く二宮金次郎がいました。

  • 一家離散、金次郎が伯父の家に預けられ、夜に行灯(あんどう)の明かりで読書をしましたが、伯父に「油がもったいない」と怒られました。

    一家離散、金次郎が伯父の家に預けられ、夜に行灯(あんどう)の明かりで読書をしましたが、伯父に「油がもったいない」と怒られました。

  • 「尊徳記念館」の近くにある、遺跡、お墓、記念物が地図に載っていたので、二・三ヶ所回ることにしました。

    「尊徳記念館」の近くにある、遺跡、お墓、記念物が地図に載っていたので、二・三ヶ所回ることにしました。

  • 各、年代毎にビデオ放映されます。

    各、年代毎にビデオ放映されます。

  • 二宮金次郎、後の二宮尊徳の教えによって、関東・越後等、約600ヶ所(村)の農業復興が行われました。江戸幕府の荒廃が目立ってきたためと思われます。

    二宮金次郎、後の二宮尊徳の教えによって、関東・越後等、約600ヶ所(村)の農業復興が行われました。江戸幕府の荒廃が目立ってきたためと思われます。

  • 二宮金次郎が使用した鍬(くわ)です。下野(しもつけ)桜町領で使用した、荒地開墾用のもの「まど鍬」と言うそうです。

    二宮金次郎が使用した鍬(くわ)です。下野(しもつけ)桜町領で使用した、荒地開墾用のもの「まど鍬」と言うそうです。

  • 箕(み、みの)あるいは手箕(てみ)とも言うそうです。しんちゃんの実家でも使用しています。でも形が大きくちょっと違います。

    箕(み、みの)あるいは手箕(てみ)とも言うそうです。しんちゃんの実家でも使用しています。でも形が大きくちょっと違います。

  • 二宮金次郎が考案した“縄束ね用の道具”どのように縄を“たばねる”のか見たかった!

    二宮金次郎が考案した“縄束ね用の道具”どのように縄を“たばねる”のか見たかった!

  • 使用した「砂箱」習字の練習に使用したものだそうです。良く残っていましたね!

    使用した「砂箱」習字の練習に使用したものだそうです。良く残っていましたね!

  • 「馬鹿の大足、間抜けの小足、ちょうど良いのが俺の足」でも、二宮金次郎は“大足”だったようです。9寸5分(28Cm)はでかい!

    「馬鹿の大足、間抜けの小足、ちょうど良いのが俺の足」でも、二宮金次郎は“大足”だったようです。9寸5分(28Cm)はでかい!

  • 金次郎が普段着ていた黒地の羽織。

    金次郎が普段着ていた黒地の羽織。

  • 昭和21年発行の紙幣。アメリカ連合軍は二宮尊徳を「日本が生んだ最大の民主主義者」と評価したそうです。本物は栃木県二宮尊徳記念館で手で触らせていただきました。小田原ではガラスケースの中でした。

    昭和21年発行の紙幣。アメリカ連合軍は二宮尊徳を「日本が生んだ最大の民主主義者」と評価したそうです。本物は栃木県二宮尊徳記念館で手で触らせていただきました。小田原ではガラスケースの中でした。

  • 展示ケース

    展示ケース

  • 二宮尊徳が一杯!説明からです。【小田原藩の武士で画家の岡本秋喗(しゅうき)が描いた二宮金次郎のスケッチ。秋喗は同じ小田原藩の武士矢野筈右衛門の家で対談していた金次郎を、隣りの部屋から観察してスケッチした。意志の強い金次郎の性格がそのままあらわれており、江戸でも知られた画家の手になるだけに、金次郎の姿を伝えるものとしては、まことに貴重な作品である。岡本秋喗画「二宮尊徳画像」は、このような苦心のうえにできあがったものである】

    二宮尊徳が一杯!説明からです。【小田原藩の武士で画家の岡本秋喗(しゅうき)が描いた二宮金次郎のスケッチ。秋喗は同じ小田原藩の武士矢野筈右衛門の家で対談していた金次郎を、隣りの部屋から観察してスケッチした。意志の強い金次郎の性格がそのままあらわれており、江戸でも知られた画家の手になるだけに、金次郎の姿を伝えるものとしては、まことに貴重な作品である。岡本秋喗画「二宮尊徳画像」は、このような苦心のうえにできあがったものである】

  • 年を取った二宮金次郎は恐い顔をしています。たぶん「口には出せない、江戸幕府への怒りがあったと思いますが・・・」皆さんは如何でしょうか?時を同じくして、米沢では上杉鷹山(ようざん)が米沢藩の建て直しを実施しました。かたや農民、かたや養子の身ながら藩主・・・江戸幕府の崩壊はもう直ぐでした・・・

    年を取った二宮金次郎は恐い顔をしています。たぶん「口には出せない、江戸幕府への怒りがあったと思いますが・・・」皆さんは如何でしょうか?時を同じくして、米沢では上杉鷹山(ようざん)が米沢藩の建て直しを実施しました。かたや農民、かたや養子の身ながら藩主・・・江戸幕府の崩壊はもう直ぐでした・・・

  • 館内を一通り見学して、受付嬢に「遠く、下野からきました。栃木県の記念館では説明員が一通りの説明をしてくれたあと、ビデオ鑑賞しました。・・・」と話していたら、「説明しましょうか?」「えっつ!お願いします」記念館外にある生家から「善栄寺」のお墓、「捨て苗栽培の地」まで、歩いて説明をしてくれました。約1時間、しんちゃんと連れの女性(人は奥様と呼ぶ)に詳しい説明をしてくれました。“堀田様”ありがとうございました。多分、定年前は先生ではないでしょうか?分かりやすく、しんちゃんのいい加減な質問にもゆっくり、判り易く、答えてくれました。

    館内を一通り見学して、受付嬢に「遠く、下野からきました。栃木県の記念館では説明員が一通りの説明をしてくれたあと、ビデオ鑑賞しました。・・・」と話していたら、「説明しましょうか?」「えっつ!お願いします」記念館外にある生家から「善栄寺」のお墓、「捨て苗栽培の地」まで、歩いて説明をしてくれました。約1時間、しんちゃんと連れの女性(人は奥様と呼ぶ)に詳しい説明をしてくれました。“堀田様”ありがとうございました。多分、定年前は先生ではないでしょうか?分かりやすく、しんちゃんのいい加減な質問にもゆっくり、判り易く、答えてくれました。

  • 館内の北側には大谷石の塀がありました。境界の残りだそうです。“おかめ竹”は最近のものだろうか?歴史が古いと群生していたりします。

    館内の北側には大谷石の塀がありました。境界の残りだそうです。“おかめ竹”は最近のものだろうか?歴史が古いと群生していたりします。

  • ここが栢山(かやま)の旧道だそうです。館内の東側、酒匂川よりに、狭い道路がありました。歩いて北上します。道端は小さな川が流れていました。

    ここが栢山(かやま)の旧道だそうです。館内の東側、酒匂川よりに、狭い道路がありました。歩いて北上します。道端は小さな川が流れていました。

  • 「二宮尊徳記念館」から「善栄寺」まで300mあります。

    「二宮尊徳記念館」から「善栄寺」まで300mあります。

  • 小川は暗渠が多くやはり邪魔なのでしょう!

    小川は暗渠が多くやはり邪魔なのでしょう!

  • 「善栄寺」到着

    「善栄寺」到着

  • 座ったままの「二宮尊徳」銅像。薪を背負った二宮尊徳が有名ですが、本当は“天秤棒”で背負っているため、あれは、嘘なんですよ!こんな姿の方が、親しみがわきます。

    座ったままの「二宮尊徳」銅像。薪を背負った二宮尊徳が有名ですが、本当は“天秤棒”で背負っているため、あれは、嘘なんですよ!こんな姿の方が、親しみがわきます。

  • 説明版からです。【二宮金次郎「少年勉学の像」金次郎が享和三年(1803年)の頃、伯父の万兵衛宅に寄食中、一日の仕事を済ましてから、夜遅くまで書物を読んでいるのを見て、万兵衛は“百姓には学問は無用じゃ!”と、行灯(あんどん)の油を無駄に使うなと厳しく叱った。そこで、友人から菜種(なたね)五勺(一握り)を借りて、仙了川の土手に蒔き、それが翌年の春になって七升以上の収穫となり、使い切れない程の油ができた。このことが「積小為大」の貴重な体験になったといわれる。この銅像はその十六歳の頃で、刻苦勉励して「小を積んで大と為す」の自然界の真理を学んだ姿である。「おともなく香もなくつねに天地は書かざる経を繰り返しつつ」この碑文は二宮尊徳道歌で、曽孫、二宮四郎氏の揮毫である。銅像製作者は、鋳金家 四代目 慶寺丹長氏である。如意山 善栄寺】

    説明版からです。【二宮金次郎「少年勉学の像」金次郎が享和三年(1803年)の頃、伯父の万兵衛宅に寄食中、一日の仕事を済ましてから、夜遅くまで書物を読んでいるのを見て、万兵衛は“百姓には学問は無用じゃ!”と、行灯(あんどん)の油を無駄に使うなと厳しく叱った。そこで、友人から菜種(なたね)五勺(一握り)を借りて、仙了川の土手に蒔き、それが翌年の春になって七升以上の収穫となり、使い切れない程の油ができた。このことが「積小為大」の貴重な体験になったといわれる。この銅像はその十六歳の頃で、刻苦勉励して「小を積んで大と為す」の自然界の真理を学んだ姿である。「おともなく香もなくつねに天地は書かざる経を繰り返しつつ」この碑文は二宮尊徳道歌で、曽孫、二宮四郎氏の揮毫である。銅像製作者は、鋳金家 四代目 慶寺丹長氏である。如意山 善栄寺】

  • 高名な側室のお墓らしい「木曽義仲公側室當寺開基巴御前乃墳」最後まで読んで判った!Wikipedia では【巴御前(ともえごぜん/ともゑごぜん、生没年不詳)は、平安時代末期の信濃国の武将とされる女性。木曾義仲の愛妾。】と解説されています。

    高名な側室のお墓らしい「木曽義仲公側室當寺開基巴御前乃墳」最後まで読んで判った!Wikipedia では【巴御前(ともえごぜん/ともゑごぜん、生没年不詳)は、平安時代末期の信濃国の武将とされる女性。木曾義仲の愛妾。】と解説されています。

  • 二宮家一族のお墓

    二宮家一族のお墓

  • 「二宮家」ではなく「二宮氏」!

    「二宮家」ではなく「二宮氏」!

  • 墓地はほんの、近くまで案内標識があります。迷うことはありません。小春日和を二百年前に戻って江戸時代の面影を探しましょう!

    墓地はほんの、近くまで案内標識があります。迷うことはありません。小春日和を二百年前に戻って江戸時代の面影を探しましょう!

  • 現在、二宮家は小田原には住んでいません。子孫は他県に住んでいます。時代の流れでしょうか?歴史に翻弄されて住みづらくなったのでしょうか?

    現在、二宮家は小田原には住んでいません。子孫は他県に住んでいます。時代の流れでしょうか?歴史に翻弄されて住みづらくなったのでしょうか?

  • 二宮金次郎、16歳の初夏、田植え時期に捨てられた植え残りの苗(捨て苗)を自分の所有地だった荒地の水たまりに植え、一俵(いっぴょう)(60Kg)の籾(もみ)を収穫しました。翌年は5俵とれたそうです。「捨苗栽培の地」を見学!

    二宮金次郎、16歳の初夏、田植え時期に捨てられた植え残りの苗(捨て苗)を自分の所有地だった荒地の水たまりに植え、一俵(いっぴょう)(60Kg)の籾(もみ)を収穫しました。翌年は5俵とれたそうです。「捨苗栽培の地」を見学!

  • 昭和2年(1927)の記念碑

    昭和2年(1927)の記念碑

  • 「捨苗栽培の地」手前の部分です。遠くに二宮金次郎が柴(しば)を取りに行った山並みが見えます。約2Kmあるそうです。

    「捨苗栽培の地」手前の部分です。遠くに二宮金次郎が柴(しば)を取りに行った山並みが見えます。約2Kmあるそうです。

  • 「捨苗栽培の地」説明版

    「捨苗栽培の地」説明版

  • 「捨苗栽培の地」手前の部分です。

    「捨苗栽培の地」手前の部分です。

  • 「捨苗栽培の地」現在は小田原市立報徳小学校、学習田になっています。

    「捨苗栽培の地」現在は小田原市立報徳小学校、学習田になっています。

  • 「小田急小田原線」踏み切りを渡り「油菜栽培地跡」を見学に行きます。捨苗栽培の地から直線で150mくらいですが、田んぼのあぜ道は曲がっており、300mくらい歩きます。

    「小田急小田原線」踏み切りを渡り「油菜栽培地跡」を見学に行きます。捨苗栽培の地から直線で150mくらいですが、田んぼのあぜ道は曲がっており、300mくらい歩きます。

  • 「小田急小田原線」踏み切りの名前は「栢山(かやま)4号」

    「小田急小田原線」踏み切りの名前は「栢山(かやま)4号」

  • 「小田急小田原線」踏み切り、北を見る。丹沢方向。

    「小田急小田原線」踏み切り、北を見る。丹沢方向。

  • 「油菜栽培地跡」

    「油菜栽培地跡」

  • 説明版の写しです【「油菜栽培地跡」この油菜栽培地跡は当時、尊徳所有の土地で伯父万兵衛宅での夜間の勉学に必要な灯油のことを心配した尊徳が、享和三年(1803年)の秋、わけてもらった五勺(ごしゃく)程(90cc)の油菜の種を蒔(ま)いた所である。翌年の春、7升(しょう)(12.6リットル)程の菜種が収穫できたので隣村の油屋嘉右衛門の店にいって灯油にかえてもらい、夜間の勉学に備えたという。尊徳は捨苗栽培のときと同様、この菜種(なたね)栽培の経験からも「積小為大(小を積んで大と為す)」という自然の法則を体得したのであった。小田原市教育委員会】

    説明版の写しです【「油菜栽培地跡」この油菜栽培地跡は当時、尊徳所有の土地で伯父万兵衛宅での夜間の勉学に必要な灯油のことを心配した尊徳が、享和三年(1803年)の秋、わけてもらった五勺(ごしゃく)程(90cc)の油菜の種を蒔(ま)いた所である。翌年の春、7升(しょう)(12.6リットル)程の菜種が収穫できたので隣村の油屋嘉右衛門の店にいって灯油にかえてもらい、夜間の勉学に備えたという。尊徳は捨苗栽培のときと同様、この菜種(なたね)栽培の経験からも「積小為大(小を積んで大と為す)」という自然の法則を体得したのであった。小田原市教育委員会】

  • やはり、ここもコンクリートの護岸です。自然のままが一番良いんですが、どうして何もかも、コンクリートにしてしまうのでしょうか?“跡”だから仕方あるまい!

    やはり、ここもコンクリートの護岸です。自然のままが一番良いんですが、どうして何もかも、コンクリートにしてしまうのでしょうか?“跡”だから仕方あるまい!

  • 川には鯉が泳いでいました。

    川には鯉が泳いでいました。

  • 鯰(なまず)が泳いでいます。自然の川で泳いでいる、なまずは初めてです。あと何年、見られるでしょうか?自然を大切にして、何年後も見られるようにして欲しいです。

    鯰(なまず)が泳いでいます。自然の川で泳いでいる、なまずは初めてです。あと何年、見られるでしょうか?自然を大切にして、何年後も見られるようにして欲しいです。

  • 説明版の写しです【「二宮万兵衛宅」二宮万兵衛家は、金次郎の祖父銀右衛門の生家で、享和ニ年(1802)の酒匂川大洪水で家財を失った金次郎を引き取った当主の万兵衛は金次郎の伯父にあたる。万兵衛は金次郎に、当時の農民にとって必要なことや常識を教え、早く一人前にしようという親心から厳しく叱ったりもしたという。万兵衛の教えと不断の努力とによって、金次郎は十八歳のときに他人の手に渡っていた家を買い戻し、一家復興の第一歩を踏み出した。金次郎は生涯この万兵衛に、実父母以上の感謝を捧げたという。小田原市教育委員会】

    説明版の写しです【「二宮万兵衛宅」二宮万兵衛家は、金次郎の祖父銀右衛門の生家で、享和ニ年(1802)の酒匂川大洪水で家財を失った金次郎を引き取った当主の万兵衛は金次郎の伯父にあたる。万兵衛は金次郎に、当時の農民にとって必要なことや常識を教え、早く一人前にしようという親心から厳しく叱ったりもしたという。万兵衛の教えと不断の努力とによって、金次郎は十八歳のときに他人の手に渡っていた家を買い戻し、一家復興の第一歩を踏み出した。金次郎は生涯この万兵衛に、実父母以上の感謝を捧げたという。小田原市教育委員会】

  • 「二宮万兵衛宅」は現在も、子孫の方が住んでいます。

    「二宮万兵衛宅」は現在も、子孫の方が住んでいます。

  • 「二宮万兵衛宅」表札。現在もやっぱり、二宮性です。

    「二宮万兵衛宅」表札。現在もやっぱり、二宮性です。

  • 「小田原市尊徳記念館」北側に二宮金次郎生家があります。本物で“昔のまま”だそうです。

    「小田原市尊徳記念館」北側に二宮金次郎生家があります。本物で“昔のまま”だそうです。

  • 説明版の写しです【「二宮尊徳誕生の家」二宮尊徳は、天明七年(1787)七月二十三日この家で誕生した。この家の最初の建築年月は明確ではないが、おそらく尊徳の祖父銀右衛門が、兄の万兵衛から分家してその南隣に建てたもので、それは寛保二年(1742)か、それより数年前と推定される。尊徳の父利右衛門が銀右衛門から家督を譲られた頃の二宮家は、二町三反六畝余の田畑を所有する中流農家で、この家は江戸時代の中流農民の住宅の典型的なものと言うことができる。尊徳が書いた「田地請戻之事」によると、父母をなくして一家離散の悲境に陥った際に、居宅、家財、緒道具、衣類まで売り払って金にかえたとあるので、そのときこの家は人手に渡ったものと思われる。昭和三十四年、尊徳記念館建設第二期事業として、当時この家を所有していた渡辺家から譲渡を受け、昭和三十五年九月ニ十日、横浜国立大学教授工学博士 大岡実氏の指導によって、この誕生地に元の姿で復元した。昭和三十八年、神奈川県重要文化財に指定されている。小田原市教育委員会】

    説明版の写しです【「二宮尊徳誕生の家」二宮尊徳は、天明七年(1787)七月二十三日この家で誕生した。この家の最初の建築年月は明確ではないが、おそらく尊徳の祖父銀右衛門が、兄の万兵衛から分家してその南隣に建てたもので、それは寛保二年(1742)か、それより数年前と推定される。尊徳の父利右衛門が銀右衛門から家督を譲られた頃の二宮家は、二町三反六畝余の田畑を所有する中流農家で、この家は江戸時代の中流農民の住宅の典型的なものと言うことができる。尊徳が書いた「田地請戻之事」によると、父母をなくして一家離散の悲境に陥った際に、居宅、家財、緒道具、衣類まで売り払って金にかえたとあるので、そのときこの家は人手に渡ったものと思われる。昭和三十四年、尊徳記念館建設第二期事業として、当時この家を所有していた渡辺家から譲渡を受け、昭和三十五年九月ニ十日、横浜国立大学教授工学博士 大岡実氏の指導によって、この誕生地に元の姿で復元した。昭和三十八年、神奈川県重要文化財に指定されている。小田原市教育委員会】

  • 当時のままの家屋

    当時のままの家屋

  • 家の内部

    家の内部

  • わらを柔らかくする木の小槌

    わらを柔らかくする木の小槌

  • 囲炉裏

    囲炉裏

  • 「二宮金次郎生家」から伯父の「二宮万兵衛宅」を眺める。

    「二宮金次郎生家」から伯父の「二宮万兵衛宅」を眺める。

  • 屋根裏、釘等を使用していないため、ここに戻ってくるまで、三回移転ができました。すごいと思いませんか?家の土地は明治の初めに、真珠で有名な“御木本幸吉”が、他人に売り払われた土地を買い戻して記念にと保存しました。

    屋根裏、釘等を使用していないため、ここに戻ってくるまで、三回移転ができました。すごいと思いませんか?家の土地は明治の初めに、真珠で有名な“御木本幸吉”が、他人に売り払われた土地を買い戻して記念にと保存しました。

  • 三木本幸吉を称える記念碑、漁火新聞からコピーさせていただきました。「二宮尊徳翁ノ誕生セラレタル旧宅ノ趾ニシテ、又其ノ興復ノ辛酸ヲ嘗メラレタルノ地ハ、即チ此ノ總計二五九坪ノ地積、是ナリ。明治四十二年三重県鳥羽町ノ人、御木本幸吉氏其ノ地久シク堙晦二属スルヲ憾ミトシ、貲ヲ出シテ此ノ地ヲ購ヒ、工ヲ起シテ、適当ノ設備ヲ爲シ、其ノ歳十一月十五日ヲ以テ、土工ノ一切ヲ竣へ、其ノ地積ヲ挙ゲテ之ヲ本会二寄附セラレタリ。本会ノ有志、及チ碑ヲ建テ、翁ノ遺蹟ヲ顕彰セムコトヲ謀ル。遠近聞ク者、争ウテ醵金ヲ寄セ、女学校生徒及ビ小学校児童ノ之二応ジタル者、亦少シトセズ、頃者、碑石漸ク定マル。因テ其ノ次第ヲ記シ、之二勒ス。」と書かれているそうです。この碑文から写したなんて根性のある方が居るんですね。しんちゃんも真似をせねばならん!漁火新聞は『http://www2.odn.ne.jp/~seinen/backnumber/05_05/ijin_den.htm』難しくて写真からは無理でしたのでコピーさせていただきました。お断りを入れていますが、NGが出た場合は削除しますので、あしからず・・・以上「小田原市尊徳記念館」見学記でした。

    三木本幸吉を称える記念碑、漁火新聞からコピーさせていただきました。「二宮尊徳翁ノ誕生セラレタル旧宅ノ趾ニシテ、又其ノ興復ノ辛酸ヲ嘗メラレタルノ地ハ、即チ此ノ總計二五九坪ノ地積、是ナリ。明治四十二年三重県鳥羽町ノ人、御木本幸吉氏其ノ地久シク堙晦二属スルヲ憾ミトシ、貲ヲ出シテ此ノ地ヲ購ヒ、工ヲ起シテ、適当ノ設備ヲ爲シ、其ノ歳十一月十五日ヲ以テ、土工ノ一切ヲ竣へ、其ノ地積ヲ挙ゲテ之ヲ本会二寄附セラレタリ。本会ノ有志、及チ碑ヲ建テ、翁ノ遺蹟ヲ顕彰セムコトヲ謀ル。遠近聞ク者、争ウテ醵金ヲ寄セ、女学校生徒及ビ小学校児童ノ之二応ジタル者、亦少シトセズ、頃者、碑石漸ク定マル。因テ其ノ次第ヲ記シ、之二勒ス。」と書かれているそうです。この碑文から写したなんて根性のある方が居るんですね。しんちゃんも真似をせねばならん!漁火新聞は『http://www2.odn.ne.jp/~seinen/backnumber/05_05/ijin_den.htm』難しくて写真からは無理でしたのでコピーさせていただきました。お断りを入れていますが、NGが出た場合は削除しますので、あしからず・・・以上「小田原市尊徳記念館」見学記でした。

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