2007/11/18 - 2007/11/18
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まみさん
喜多院菊まつり目当ての川越散策の最中、というか、単に最寄り駅と喜多院の往復の道すがらにすぎませんが、足下に川越の街並みを描いたタイルをいくつも見つけました。
消火栓やマンホールのフタのようなものも、ちゃんとお洒落です@
というわけで足下にも注目してみたら、川越を紹介するなかなか面白いコレクションになりました。
そこで、川越歴史博物館で撮った写真とあわせて、一つの旅行記に仕立ててみました。
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歩道のタイル「成田山別院」
ちょうど参拝してきたところです。
拝殿ですね。正面の入口から見たところだと思いますが……ずいぶん雰囲気が変わります@
おやっ、よく見ると、鳥のフンが……。 -
歩道のタイル「蔵造りの屋根」
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歩道のタイル「蔵造りの家の窓」
「蔵の町
川越の土蔵造りの店舗は、いわゆる「蔵造り」として有名です。蔵造りは類焼を防ぐ為の巧妙な耐火建築で、江戸の町屋形式として発達したものです。蔵造りの建物が並ぶ一番街は、今の東京では見る事ができない江戸の面影をとどめています。平成11年12月には重要伝統的建造物群保存地区に指定され、平成19年1月には、「美しい日本の歴史的風土100選」に選定されました。」
(歴史博物館でもらった、川越観光案内所の「小江戸川越 見る 遊ぶMAP」より) -
消火栓
デザインのモチーフは、江戸時代の火消し道具かな。 -
蔵造りの家と時の鐘が描かれたマンホールのふた(?)
版画みたいですね。 -
歩道のタイル「喜多院」
拝殿である慈恵堂です。 -
歩道のタイル「喜多院の山門」
これは外から見たところですね。 -
歩道のタイル「本丸御殿」
あいにく今回は実物を見に行きませんでした。
「川越城本丸御殿
2007年築城550年/日本100名城選定
川越城は関東管領の扇谷上杉持朝が、古河公方に対抗するため、家臣の太田道真・道灌父子に命じて長禄元年(1457年)築城しました。その後江戸時代には幕府重職の大名が配置されましたが、明治維新後次第に解体され、大部分が住宅地や公園となってしまいました。現在は嘉永元年(1848)建造の本丸御殿の玄関と大広間が残り、往時を忍ぶことができます。(後略)」
(歴史博物館でもらった、川越観光案内所の「小江戸川越 見る 遊ぶMAP」より) -
歩道のタイル「時の鐘」
これも今回は実物を見なかったのですが、いろんなところでイラストや写真やフェィク(!)も見かけたので、すっかり見た気分になってしまいました@
フェイクといっては失礼ですが、時の鐘を模したお蕎麦屋さん
喜多院のすぐ近くにて
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/10884830/
関連の旅行記
「川越と喜多院散策その2:五百羅漢と市内散策」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10064029/ -
歩道のタイル「菓子屋横丁」
ずっと前に行ったことがあります。
たしかにこういう雰囲気だったよーな……。 -
歩道のタイル「資料館」
蔵造り資料館かしら。
へええ、蔵造りの建物を使った、かっこいい資料館だったんですねぇ。 -
足元の標識「本丸御殿」
他の場所でも一度この写真を撮ったのですが、連雀町の交差点に4つ並んでいたうえ、それまで曇っていたのにちょうど日が射したので、撮り直しました。
晴れ空の下で撮ると、カラーがくっきりとカラフルになります@
これはちょっと木の陰が差し掛かってしまいましたが。 -
足元の標識「蔵造り街」
お店の中のデフォルメデザインもいいな@ -
足元の標識「時の鐘」
おお、江戸の雰囲気です@ -
足元の標識「喜多院」
むむっ。なんか実物と印象がだいぶ違うんですけど。
カラフルな垂れ布がないせいですね。 -
川越歴史博物館の入口
実をいうと、川越市立博物館と勘違いして入ったんですよね。
でもなかなか良かったです。
展示されているものは、どれもすべてオリジナル、当時使われていたものだとか。
収蔵品は個人のコレクションが中心で、この博物館自体は半民半官だそうです。
入場料は500円です。
※川越歴史博物館の公式サイト
http://www.kawagoe-rekishi.com/index.html
思ったより解説がしっかりしていてびっくりです@
これから先の写真のコメントに使った解説は、この公式サイトから引用しています。 -
松灯蓋(まつとうがい)
ファインダーに一緒に入れた解説のとおりです。
貧しい庶民はこのようなもので明かりを取らなくてはならなかったのですね。 -
美しい浮彫の和鏡
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武人の埴輪(古墳時代)
「古墳において甲冑に身をかためた武人・武器・武具の埴輪は、武力と権力の象徴と同時に聖なる区域を守る意識があったと考えられている。この埴輪は、衝角付冑を付けた武装埴輪の頭部であり、儀仗(ぎじょう)武士の勇ましさと気品ある顔立ちが好ましい。」
(川越歴史博物館の公式サイトより)
http://www.kawagoe-rekishi.com/exhibit/kouko.html
2階には、このように埴輪や土器といった古代の遺品から、戦国時代から江戸時代にかけての物品などが展示されていました。 -
忍者の道具の一つ「撒きびし」
「まきびし」の種類には天然びし(ヒシの実)・鉄びし(鉄製)がある。これは地面に置くと必ずトゲが上を向き 上を向かぬ物は「まきびし」ではない。また、持ち歩く際に軽量で物音がしない事から天然びしを携行することが、もっとも多かったと云われている。天然の木の実ではあるが、踏みつけるとトゲが刺さり激痛がはしるので 武器としての効果は大き い。皮袋や竹筒に入れて目立たぬようにして持ち歩き、敵の追撃から逃れるときなどに地面に撒いたのである。屋敷の周りに撒いて置くと外部からの侵入の妨げにもなった。」
(川越歴史博物館の公式サイトより)
http://www.kawagoe-rekishi.com/exhibit/ninja.html -
忍者の道具の一つ「鉄毬」
鉄毬
「投げれば必ず刺るというすごい投てき武器」という説明書きがなんだかおかしくないですか。
こういう説明書きで、「すごい」だなんて@
手裏剣の写真も撮ろうと思ったのですが、あんまり上手く撮れないのであきらめてしまいました。 -
城主松平周防守康戴(やすのり)の正妻・花子のかんざし(江戸時代)
美しい……。
「江戸時代後期の作である「かんざし」は、金工師の優れた技術と格調ある仕上がりで 上位の女性が身につけるにふさわしい装飾品である。繊細な装飾には、金・銀・珊瑚・水晶を使い、鳥籠の中には金と銀で小鳥の細工がほどこされ、入念な金工の妙技である。松平周防守康載(やすとし)は1871年の廃藩置県により川越藩知事を免じられ その後に華族となる。
松平(松井)周防守家
松平周防守家は、本姓を松井と称し東條松平家に仕えていた。初代にあたる康親(やすちか)が戦で功績をあげ、家康より「松平」の姓を賜り徳川幕府の重臣として活躍をした譜代大名。
慶応二年(1866)松平周防守康英(やすひで)が奥州棚倉より八万石で川越城に入封した。のちに康載(やすとし)が家督を継ぎ2代にわたり幕末の動乱期を経た川越城主。」
(川越歴史博物館の公式サイトより)
http://www.kawagoe-rekishi.com/exhibit/shiro.html -
桃山時代の「蝶形兜」
3階の展示です。
おもしろい形の兜がたくさんありました。
変わり兜というそうです。
「変わり兜
兜は頭部を守る護身具として古代から着用され、古墳から出土する武装埴輪からも知ることが出来る。それは時代の流行と戦闘形式により改良が加えられ変化を遂げてきた。変わり兜は、定まった形式の兜(星兜・筋兜)とは違い 鉄板の打ち出しや革・和紙などを使って軽量をはかり、張懸(はりかけ)と呼ばれる手法も用いて漆で塗り固めて仕上げられている。室町時代末期から江戸時代初期にかけて、動植物や信仰的なものまで奇抜異形な兜が作られた。これは、武士が自己を誇示する心情の表れであり 武家文化の活力を感じさせてくれる。」
(川越歴史博物館の公式サイトより)
http://www.kawagoe-rekishi.com/exhibit/kabuto.html -
川越歴史博物館3階の武具室
右側のショーウィンドウに飾られている鎧兜のうち、小さいのは子供が着用したようです。
でもそのマネキンにはヒゲがあって、おじさん顔なんです。ギャップ〜@ -
おまけ:川越まつり紙人形
中央通りの割烹の店のショーウィンドウにて
奥の御輿は、川越まつりのものではないかと思うんです@
お店の看板は、達筆すぎて読めませんでした……。 -
おまけ:川越まつり紙人形
中央通りの割烹の店のショーウィンドウにて
アングルを変えて、もう一枚!
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