2007/09/19 - 2007/09/19
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めるくんさん
信濃全域をほぼ支配下に置き、更に領地拡大に執念を燃やす甲斐国主の武田信玄公。一方、これ以上の武田軍北進は絶対に阻止しなければならない越後国主の上杉謙信公。両軍は川中島(長野市)において後世永遠に語り継がれる激闘を繰り広げました。(甲越両軍による川中島の合戦は十年以上にわたり続けられました。中でも最も激戦となった第四次川中島合戦の内容に沿って旅行記を作成しました)
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海津城です。永禄3年(1560年)頃、武田信玄公が上杉謙信公との決戦に備え、家臣の山本勘助に命じて築かせたお城です。
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海津城は戦国時代の城名で、後世(江戸時代以降)は松代城と言われました。
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太鼓門です。
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戌亥櫓です。石垣の上には大きな櫓があったと思われます。
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甲府を出陣した信玄公は一旦茶臼山(長野市)に陣を置きます。そして妻女山(長野市)に陣をおいた謙信公と数日対峙した後に海津城に入城しました。
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謙信公が陣を置いた妻女山です。頂上からは川中島一帯を眺めることができます。
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信玄公が陣を置いた茶臼山方面です。
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正面が川中島古戦場一帯となります。
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海津城方面です。妻女山に陣を置いた謙信公は、信玄公が海津城に入城した後も全く動きませんでした。そこで武田軍は軍を二手に分けて、一方は妻女山の陣所を奇襲、一方は妻女山麓で待ち伏せする啄木鳥戦法を用いることとしました。(啄木鳥がくちばしで木を突き、驚いて穴から出てきた虫を捕獲する事に例えた)山本勘助の提案といわれております。
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上杉軍の軍旗『毘』と『龍』です。夜明け前の奇襲計画に備え、海津城からは多くの飯炊きの狼煙があがりました。これを見た謙信公は直感的に奇襲を察知し、奇襲される前に先に妻女山を下りる決断をします。
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画像は史跡雨宮の渡です。上杉軍は深夜武田軍に気づかれぬよう静かに妻女山を下ります。そして千曲川の浅瀬であった雨宮の渡を渡って川中島の八幡原に陣を移します。
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そして永禄四年(1561年)9月10日早朝、武田軍奇襲隊は妻女山の上杉陣地を奇襲しますが、そこはもぬけの殻でした。一方武田軍待ち伏せ隊も八幡原付近に陣をおきますが深い霧のため見通しがききませんでした。やがて夜が明け徐々に霧が薄れると、何と目の前には上杉軍全軍が陣を構えてました。
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かくして八幡原で両軍の死闘が始まりました。武田軍は全軍の約半数を妻女山の奇襲に充てたため、兵力に勝る上杉軍が優勢となりました。防戦一方の武田軍は信玄公の実弟で武田軍副将の武田信繁公、重臣の諸角虎定、山本勘助などが相次いで討ち死にしました。
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苦境に立たされた武田軍でしたが、やがて妻女山に向かった奇襲隊が加勢に戻ったため、戦いの後半は武田軍が有利となります。
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武田軍に押され気味の状況を打破するため、謙信公は単騎で信玄公の陣に乗り込み一騎打ちを果たします。
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信玄!覚悟!
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させるか!謙信!
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三太刀七太刀の石碑です。謙信公は馬上より三度太刀で斬りつけ、信玄公は軍配でその攻撃を防いだそうです。しかし後にその軍配を調べたところ、刀傷が七ヶ所あったために三太刀七太刀といわれるようになりました。
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逆槐です。 信玄公がここに陣を構える際、土塁の土留めとして槐の杭を逆さに打ち込んだものが大木となったそうです。
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執念の石です。信玄公の陣地に乗り込んだ謙信公に、武田方の原大隅守が槍を突きますが外してしまいます。悔しさのあまりに石を槍で貫き通したそうです。
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南長野運動公園にある館助宮跡地です。この付近で山本勘助は上杉軍に討ち取られたそうです。啄木鳥戦法の失敗の責任を感じて敵陣めがけて突進したそうです。
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八幡原史跡公園の南側におぎのやという釜飯屋があります。そこの駐車場の片隅に胴合橋という史跡があります。上杉軍に討ち取られた山本勘助の首を武田軍が奪い返し、この付近で首と胴を合わせて勘助であると確認したそうです。
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山本勘助のお墓は古戦場からやや離れた千曲川の河川敷にあります。
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山本勘助のお墓です。
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八幡原史跡公園から歩いて5分くらいのところに典厩寺というお寺があります。ここには信玄公の実弟で武田軍の副将であった武田信繁公のお墓があります。
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武田軍・上杉軍の軍旗です。両軍の戦死者を弔っているようです。
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典厩寺の境内には日本一大きな閻魔像があります。
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信繁公首清めの井戸です。
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信繁公は信玄公に劣らず武勇・知略に優れた人物だったようで、その死は武田軍にとっては大きな痛手となったようです。
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信繁公のお墓です。
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八幡原史跡公園の北側に武田軍重臣諸角虎定の墓所があります。
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諸角虎定は信繁公幼きときの守役でした。信繁公討ち死にを知り憤慨し、上杉軍に突進したところを討たれたそうです。
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諸角虎定のお墓です。81歳の討ち死にだったそうです。
この戦いで甲越両軍は三万人前後の兵力を動員しましたが、七〜八千人もの戦死者を出したそうです。武田軍としては川中島一帯を引き続き支配下に置くことができ、上杉軍としては武田軍の北進をこの地で阻止することができたので、この戦いについては両軍引き分けとの評価となってます。
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この旅行記へのコメント (2)
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- もにかさん 2007/10/17 00:29:02
- 一騎打ち
- 有名な像ですね。
ところで
>軍配を調べたところ、刀傷が七ヶ所あったために三太刀七太刀といわれるようになりました。
すごいよね。
皆、一騎打ちを信じてしまうよ。
本当は何の時の刀傷なんだろう・・・
- めるくんさん からの返信 2007/10/21 18:57:52
- RE: 一騎打ち
- 有名な像ですがあくまでも伝説です。数万の兵が入り乱れる大混戦の中、
総大将が単騎で敵陣に乗り込むなどあり得ないと思われます。
しかしながら戦国を代表する英傑同士ですから、
それに近い出来事があったのかも知れません。
誰にも真実がわからない・・・まさに伝説・・・戦国浪漫ですな。
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