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1974年3月。<br /><br />アフガニスタンでの馬乗りに飽きて、カイバール峠を越え、パキスタン領に入った。<br />パキスタンは通過しただけなのか?今では、さっぱり記憶に残っていない。<br />インド・パキスタン国境を越えてすぐの町、インド側のアムリッツアの記憶が鮮明に残っている。<br /><br />国境のインド側イミグレで、徹底的に荷物検査をされた。<br />中には、裸にされた者も居たほどだ。<br />パキスタン側でヤミ両替したインドルピー(額はいつもしれている)と、ドラッグか大麻が目当てらしい。<br /><br />ワタクシは、実はパキ側国境でヤミ両替をしたインドルピーを持っていた。<br />それをクツ下の中に隠していた。<br /><br />インド側イミグレ係官のやり方はこうだ。<br />コンクリートの台の上にリュックを載せて、その上で、係官がひっくり返し、洗いざらい中身をぶちまける、やり方だ。<br />「幾らなんでもヒドイ!」<br />バックパッカーたちの持ち物は、たかが知れている。<br />でも、中からボールペンや、ちょっとした物を見つけると、あからさまに欲しそうな顔をする。<br />それを提供すると、検査の厳しさが和らぐのである。<br />1ドル紙幣でも、ソッとパスポートに挟んで渡せばもっと効果はアップするのだ。<br /><br />こんな所は、一人で切り抜けるのは厳しいし心細い。<br />アフガンで意気投合した、ヒロユキ君とヒロフミ君2人と連携した。<br />最初に荷物検査をパスしたヒトに、次のヒトがヤミ金をクツから出し、後ろ手に手渡してしまうのだ。<br />そうすると、そのヒトはヤミ金を持っていないので、オクすることなく検査を受けられる。<br /><br />係官のやり方にアタマに来ていたワレワレは、袖の下は出さない、ペンひとつ提供しないゾ!っと決心していたので、検査には時間が掛けられた。<br />若者の意地だった。<br />イラン、アフガンあたりで鍛えられて来たので、コッチもいやらしいインド人税関職員には屈しないのだ。<br /><br />小金をセビル係官に業を煮やして、とうとう「マネージャーを出せ!責任者を出せ!」と反抗してしまった。<br /><br />妙なファイトを燃やしたせいか、中々国境を通してもらえず、インド領手前(無国籍地帯)で足止めを余儀なくされた。<br />夕方になってしまい、日暮れが迫ってきた。<br />責任者が出てきて、「大人しくするのなら通してやる」、というので大人しくして、税関の閉まる瀬戸際にインド側に放逐された。<br /><br />かくして、アムリッツアの端っこの村に着いた時は、もう辺りは真っ暗だった。<br />自転車リキシャーの運チャンに、どこか安い宿に連れて行ってクレ、と頼むと勢いよく出発した。<br />連れて行かれたところ、ソコはどうもお寺のようで、お寺の堂内ならまだしも、通されたのは牛小屋の中。<br />ワラが積んであるだけの土間だった。<br />その夜は仕方なくソコに寝た。<br />でも食事もせずに税関でダダをこねていたので、ハラが減っていた。<br />ターバンを巻いた(ここは誰もがターバンを巻いていたが)お寺のヒトに、何か食べるものは無いか?と尋ねた。<br />(身振り手振り)<br /><br />でてきたもの、今でもハッキリその見目を覚えている。<br />ドロっとした茶色がかったクリーム色した半分固体、半分液体の物体ダ!。<br />これはどう見ても、酔っ払いがゲロしたモノにしか見えない。<br />でもお寺さんは最初にこう言っていた。<br />「あなた方のお口に合うかどうか分かりませんが、私どもが日頃食べているものならあります。それで宜しかったらドウゾ」っと言っていたモノだ。<br />そう断ってから、親切心だけで(このお寺は全くの無料だった)持って来てくれた彼等の食べ物だけに、見た途端に<br />「ウェーッ!<br />こんなモン要らん!」<br />なんて、アナタ、言えますか?<br />「シュクリヤ、シュクリア」と手を合わせて、目をつぶって食べました。<br /><br />味?<br />味なんぞ全く覚えていません。<br />食べ物であったことは、間違いありませんでした。<br />(後日、イエメンの山のてっぺんの民家で出された食べ物もこれに似ていた。人間、本当に飢えればなんでもクエルものです。<br />おそらく、豆と小麦粉の煮込みスープだったと思います。)<br /><br />写真は翌朝の写真です。<br />(この時のインドでは、友人と並んで撮ったこの写真1枚が残るのみです。シーク教徒と握手しているのがワタクシです。)<br />これを見ると、ワレワレが寝ていたのは後ろのちゃんとした建物の中で、牛小屋ではなかったノダ。<br />周りに一杯牛が居たので牛小屋だ、と思い込んでいたダケだった。<br /><br />このような調子で、ワタクシはユーラシア大陸を東に進んでいました。 

ユーラシア横断3: 印パキ国境の町・アムリッツアー 「シーク教徒に一宿一飯」

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1974/03 - 1974/03

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アリヤン

アリヤンさん

1974年3月。

アフガニスタンでの馬乗りに飽きて、カイバール峠を越え、パキスタン領に入った。
パキスタンは通過しただけなのか?今では、さっぱり記憶に残っていない。
インド・パキスタン国境を越えてすぐの町、インド側のアムリッツアの記憶が鮮明に残っている。

国境のインド側イミグレで、徹底的に荷物検査をされた。
中には、裸にされた者も居たほどだ。
パキスタン側でヤミ両替したインドルピー(額はいつもしれている)と、ドラッグか大麻が目当てらしい。

ワタクシは、実はパキ側国境でヤミ両替をしたインドルピーを持っていた。
それをクツ下の中に隠していた。

インド側イミグレ係官のやり方はこうだ。
コンクリートの台の上にリュックを載せて、その上で、係官がひっくり返し、洗いざらい中身をぶちまける、やり方だ。
「幾らなんでもヒドイ!」
バックパッカーたちの持ち物は、たかが知れている。
でも、中からボールペンや、ちょっとした物を見つけると、あからさまに欲しそうな顔をする。
それを提供すると、検査の厳しさが和らぐのである。
1ドル紙幣でも、ソッとパスポートに挟んで渡せばもっと効果はアップするのだ。

こんな所は、一人で切り抜けるのは厳しいし心細い。
アフガンで意気投合した、ヒロユキ君とヒロフミ君2人と連携した。
最初に荷物検査をパスしたヒトに、次のヒトがヤミ金をクツから出し、後ろ手に手渡してしまうのだ。
そうすると、そのヒトはヤミ金を持っていないので、オクすることなく検査を受けられる。

係官のやり方にアタマに来ていたワレワレは、袖の下は出さない、ペンひとつ提供しないゾ!っと決心していたので、検査には時間が掛けられた。
若者の意地だった。
イラン、アフガンあたりで鍛えられて来たので、コッチもいやらしいインド人税関職員には屈しないのだ。

小金をセビル係官に業を煮やして、とうとう「マネージャーを出せ!責任者を出せ!」と反抗してしまった。

妙なファイトを燃やしたせいか、中々国境を通してもらえず、インド領手前(無国籍地帯)で足止めを余儀なくされた。
夕方になってしまい、日暮れが迫ってきた。
責任者が出てきて、「大人しくするのなら通してやる」、というので大人しくして、税関の閉まる瀬戸際にインド側に放逐された。

かくして、アムリッツアの端っこの村に着いた時は、もう辺りは真っ暗だった。
自転車リキシャーの運チャンに、どこか安い宿に連れて行ってクレ、と頼むと勢いよく出発した。
連れて行かれたところ、ソコはどうもお寺のようで、お寺の堂内ならまだしも、通されたのは牛小屋の中。
ワラが積んであるだけの土間だった。
その夜は仕方なくソコに寝た。
でも食事もせずに税関でダダをこねていたので、ハラが減っていた。
ターバンを巻いた(ここは誰もがターバンを巻いていたが)お寺のヒトに、何か食べるものは無いか?と尋ねた。
(身振り手振り)

でてきたもの、今でもハッキリその見目を覚えている。
ドロっとした茶色がかったクリーム色した半分固体、半分液体の物体ダ!。
これはどう見ても、酔っ払いがゲロしたモノにしか見えない。
でもお寺さんは最初にこう言っていた。
「あなた方のお口に合うかどうか分かりませんが、私どもが日頃食べているものならあります。それで宜しかったらドウゾ」っと言っていたモノだ。
そう断ってから、親切心だけで(このお寺は全くの無料だった)持って来てくれた彼等の食べ物だけに、見た途端に
「ウェーッ!
こんなモン要らん!」
なんて、アナタ、言えますか?
「シュクリヤ、シュクリア」と手を合わせて、目をつぶって食べました。

味?
味なんぞ全く覚えていません。
食べ物であったことは、間違いありませんでした。
(後日、イエメンの山のてっぺんの民家で出された食べ物もこれに似ていた。人間、本当に飢えればなんでもクエルものです。
おそらく、豆と小麦粉の煮込みスープだったと思います。)

写真は翌朝の写真です。
(この時のインドでは、友人と並んで撮ったこの写真1枚が残るのみです。シーク教徒と握手しているのがワタクシです。)
これを見ると、ワレワレが寝ていたのは後ろのちゃんとした建物の中で、牛小屋ではなかったノダ。
周りに一杯牛が居たので牛小屋だ、と思い込んでいたダケだった。

このような調子で、ワタクシはユーラシア大陸を東に進んでいました。 

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  • シーク教徒の人々との接触は、アムリッツアー滞在数日のみでした。<br />「シークの人々は、本当に親切でいい人々だ!」との印象だけが残りました。<br /><br />ところが、数年後、ビジネスでシーク教徒の商人と、毎日のように渡り合うことになりました。<br /><br />シーク教徒の「商売人」は、ユダヤ商人、アラビア商人などと並び称される、名うての商売上手な人種として、世界から注目されていた人たちなのです。<br />主に、中近東諸国とアフリカ諸国を舞台に活躍しています。<br /><br />その経験から、現在では、こう思っています。<br />「シーク教徒の商人、信用できるのは、万に一人のみ。商人でない普通の人は、ほとんど信用できる」<br /><br />ところが、一番ねばり強くてカシコイ商人は、ニッポン商人で、中でもナニワの商売人が、一番「シツコク、ネバイ強く、エゲツナイ」のです。<br /><br />もう一つ、シーク教徒で有名なのは「シーク兵は勇猛果敢で戦争にはめっぽう強い」ことです。<br />イギリス人がシーク兵を前線によく使い重宝した、とか。<br /><br />このときの写真右側の友人は、つい最近までカリブ海の島に入り浸り、現在はメキシコに移住した。今だにニッポンに帰って来ていません。<br /><br />そうそうアムリッツアーで有名な世界遺産でもある、ゴールデン・テンプルは見に行きましたが、詳細なことはもう記憶の彼方に行ってしまってよく覚えていません。

    イチオシ

    シーク教徒の人々との接触は、アムリッツアー滞在数日のみでした。
    「シークの人々は、本当に親切でいい人々だ!」との印象だけが残りました。

    ところが、数年後、ビジネスでシーク教徒の商人と、毎日のように渡り合うことになりました。

    シーク教徒の「商売人」は、ユダヤ商人、アラビア商人などと並び称される、名うての商売上手な人種として、世界から注目されていた人たちなのです。
    主に、中近東諸国とアフリカ諸国を舞台に活躍しています。

    その経験から、現在では、こう思っています。
    「シーク教徒の商人、信用できるのは、万に一人のみ。商人でない普通の人は、ほとんど信用できる」

    ところが、一番ねばり強くてカシコイ商人は、ニッポン商人で、中でもナニワの商売人が、一番「シツコク、ネバイ強く、エゲツナイ」のです。

    もう一つ、シーク教徒で有名なのは「シーク兵は勇猛果敢で戦争にはめっぽう強い」ことです。
    イギリス人がシーク兵を前線によく使い重宝した、とか。

    このときの写真右側の友人は、つい最近までカリブ海の島に入り浸り、現在はメキシコに移住した。今だにニッポンに帰って来ていません。

    そうそうアムリッツアーで有名な世界遺産でもある、ゴールデン・テンプルは見に行きましたが、詳細なことはもう記憶の彼方に行ってしまってよく覚えていません。

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