1971/06/26 - 1974/01/31
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アリヤンさん
1971年6月。
初めての海外渡航だった。
南回りロンドン行き。一番安かったエジプト航空に乗った。
香港、バンコック、ボンベイ、カイロ、ローマ、パリと色々なトコロに寄港しながらロンドンにたどり着くのだ。
当時のヨーロッパ南回りはそんなものだと思っていた。
初めての飛行機だもの、、、
フランス、パリがワタクシにとって、初めてのヨーロッパだった。
語学留学でロンドンへ行く途中に、一日だけ「花の都パリ」を見ておこうとル・ブルジェ空港に降り立った。
初海外、初のヨーロッパ、初のパリ。
ワタクシにとって、パリの空は暗かった。
待てど暮らせど、カイロからのエジプト航空には荷物が出てこなかったのだ!
人生初ロスト・バッグだ!!
これが初ロスト・バッグでラスト・ワンだった。
以降、今日まで飛行機にはゴマンと乗ったが、ロスト・バッグはこのときだけだった。
生まれて初めての海外旅行で、ロストバッグをするとは、なんとアワレなことだ!
かくして、ワタクシの人生初のパリは「全く憂鬱」なパリとなった。
しかし、「若い」ということは素晴らしいとしか言えない。
ロストバッグくらいでは、へこたれなかった。
当時、オペラ座すぐそばにあったエジプト航空のオフィスに行って、あらかじめ英作文した紙を読み上げて、精一杯のお願いをした。
しかし、ケンモ・ホロロな対応にガックリしてしまった。
それでもパリには1泊2日の滞在をした。(宿は郊外のユースホステルだった)
失意のパリ滞在を終えて次の日、トボトボとル・ブルジェ空港からロンドンに飛び立とうとした。
全く不親切だったエジプト航空に掛け合うのはもうあきらめていた。
空港で色々考えた末に「先進国の人なら何とか助けてくれるカモ?」っと考ついた。
エアフランスの美人グランド・スタッフに荷物の捜索をお願いしてみた。
ナント、当方の言い分に耳を傾けてくれたのでした!
そのグランドスタッフに、名前と留学先のロンドンの住所を書き残し「もし荷物が出てきたらそこに送って下さい!」と依頼したのでした。
高校時代、英語科目は好きで得意なほうであった。
でも大学時代、英会話科目は2年連続で落としていたほど会話力がダメだった。
(その後同じ大学に復学して3回目も落とした。必死に勉強して4回目にしてやっとその単位がとれたのでした。日本の大学は2年終了後休学して4年間ヨーロッパ遊学していたので足掛け8年で必須単位の英会話を取ったというわけでした。イギリスに英会話留学までしたワタクシは、帰国後の英語会話力はプロペラだったのですが、日本の大学の英会話は米語でしかも学力中心主義だったので、会話ができても単位は取れなかったのでした。つまり「ドコカがおかしかった」、としか言いようがない「日本の英語教育」でした)
さて、初パリでの「おのぼりサン」は、ちゃんと一人で郊外のユースホステルに泊まり、凱旋門とオペラ座だけは見てきたのでした。
このときのパリ訪問が、以来、ワタクシの海外生活の縁となり、ロンドン1年の生活の後には、オランダのハーグ経由でパリに落ち着き、そのパリに約3年近く住むことになるなった!
最初の「失意のパリ」滞在中には想像もつきませんでした。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 観光バス ヒッチハイク 徒歩 飛行機
- 航空会社
- エジプト航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
外国に行くのだから、「高性能カメラで、素晴らしい写真を一杯撮ろう!」とニコンの一眼レフを持って行った。
しかし、腕は悪く、宝の持ちグサレであった。
当時の写真で残っているのは、表紙とこの写真のみ。
それも、ただ凱旋門を写したもの。
その他はすべてワタクシの記憶の中にあるのみです。 -
イチオシ
この時はロストバッグのこともあって、意気消沈していた。
カメラだけは良いものを持った、チンチクリンのジャパニーズ・ボーイだったに違いない。
その後、
ロンドンで、1年間、英語を曲がりなりにも勉強した。
ロンドンといえば、次はパリだ!という気になった
いわゆる「ロン・パリ」だ!
と、いうわけで次の年には、ここパリに住みつく事になった。
縁(エン)とは面白いものだ。
(ま、ロンドン生活1年後に、パリ滞在に至るまでには、ワタクシの青春を揺さぶる大きなハプニング[ロマンス]がロンドンであったのですが、、、) -
次の年、つまり1972年に、再度パリにやって来たニッポンのチンチクリン・ボーイは困った。
しゃべる英語は相手に通じてはいるのだが、応えは必ずフランス語だった。
つまり「フランス語の理解としゃべりができないと、一般生活がかなり難しいこと」を思い知らされた。
それではと、先ずフランス語学校の「アリアンス・フランセーズ」に行った。
入学願書は英語で書いたが、受付のマダムは常にフランス語で返答してきた。
当時のワタクシは、フランス語のフの字も知らなかった。
日本の大学での第二外国語はドイツ語を履修していた。
この時のワタクシはフランス語については全くの無知であった。
ロンドン生活時代に「パリに行ったら、パリ大の学生にならなきゃソン、ソン」と滞在仲間から聞いていたので、フランス語もできないのに、無謀にもパリ第6大学(Universite Rene Descartes)の社会学部の学生になってしまったのだった。
アリアンスで懸命な勉強のおかげで、フランス語がほんの少しだけ分かるようになった9月に、難解な入学願書を辞書片手に読んで記入して、パリ大学の学生になってしまったのだった。
アリアンス・フランセーズでは、初級の初級から始め、毎日一番前の席で先生の口元を見て、そりゃあ熱心に勉強をしたのでした。
その成果があったのだろう、フランス語のワカラン「テンプラ・パリ大学生」が出来上がったのでした。
パリでは大学生の身分になれば、すごい特典があったのです。
パリ大学生7大特典。
1,国立大学は基本的には授業料がタダ!:「無料!」だったのです。
2,学生食堂で食事が食べれられる!(一食たったの0.80フラン=当時レートで48円)。貧乏学生だったワタクシにとって、これが大きかった。
3,パリ中の国立図書館が無料で利用できる!
4,パリ中の国立美術館・博物館に無料で入ることができる!
5,学生向けアルバイトの紹介が受けられる!
6,フランス滞在許可証が取れる!
7,学生向け下宿の紹介を受けられる!
その他、パリの学生パリジェンヌやパリ以外のフランセーズともお友達になれる!
でも、その場合でもフランス語は必須だ。 -
フランス語が出来なくても、学生食堂でチケットを提示して、メシは食える。
しかし、フランス語がネックになってお友達が出来ない。
要領の良いヤツなどは、パリ大の東洋学部の日本語学科にもぐり込み、お友達を作るヤカラが結構居た。
小生、「そのようなインチキはやらない!」
(今にして思えば、ワタクシもそうしておけばもっと生活が楽しかったカモ?)
堂々と「フランス人の中で勉強をするノダ」とイキがっても、肝心なフランス語が出きんのです!
72ー73年は、「完全実質テンプラ学生」に終わった。
(テンプラとは、「外側は学生のコロモを着ていても、中身は別物」)
しかし、アリアンスではフランス語の修行を真面目にやって、上級までトントン拍子に登って行った。
ロンドン時代にできたお友達だけがフランス人のお友達だった。
彼との会話はもっぱら英語だった。
後は極力日本人とは付き合わずに、外人やフランス人とお友達になることが多かった。
*この時代に今のパートナーとは出会った。
パートナーはファッション関係の勉強でパリで勉強をしていた。
詳しくは当人のプライバシー保護のため、これまでとしておきます。
*写真は当時のありがた~い学生証。 -
これは「レッセ・パッセ」という証明書で、このパッセを見せると、ルーブルでも、オランジェリーでも、どこでも国立美術館・博物館はタダで入れてくれるのだ。
入り放題・見学し放題なのだ。
芸術・美術・歴史などを学ぶヒトたちには、素晴らしいことだろう。
フランスの教育に対する姿勢、「自由、平等、博愛は素晴らしい」、の一言につきる。
極東の端っこの国から来た若者でも、学ぶ気があれば受け入れてくれるのだ。
しかも無料で、色んな便宜も図ってくれる!
(最近、日本でも高等教育の無料化が選挙になれば叫ばれているが、今から約半世紀前のフランスではすでに実現していたのだ!)
おかげで、ルーブル博物美術館には何度も何度も足を運んで飽きるまで色んな歴史的名作・遺物を眺めた。
印象派絵画の多かった、オランジェリーやジュ・ド・ポムにも何度も何度も行った。(当時オルセー美術館はまだできていなかった)
*ロンドンでも大映博物館や国立美術館(ナショナルギャラリー)もすべての人たちに無料だった。
それに比べ、我が国の国立美術・博物館の入場料の高いことと比べ、教育にたいする姿勢の差は「雲泥の差」といえるだろう。
日本の高等学校の卒業証明が、こちらでは、大学入学資格のバカロレアに相当するのだった。
(ワタクシのフランス人の友達は、このバカロレアを取るのに浪人までして苦労していた、と言うのに!。フの字もワカラン、当方がすんなり大学に入れるなんて!?
なんてフランス・パリはエエとこヤ!!!)
*現在でもフランスの国立大学に留学したければ日本の高等学校卒業証明さえあればたいていどこでも入学はできる、のです!ただフランス語の能力を求められますが。ただのフランス語習得のための留学ならばOKのはずです。
ワタクシのムスメがアンジェのカトリック大学に入学した時(約10年前)もこの方式は通用しました。 -
次の年、フランス語は上達。
シャベリだけは自信があった。
フランス人が分からんくらい、早口でしゃべれた。
(単に何を言っているのかが分からんかった?)
今度は、入学試験のあるソルボンヌ入学を、無謀にもトライ。
パリ大1と2、3あたりが昔のソルボンヌ大学に相当するらしい。
パリ第2大学の経済学部に申し込んだ。
論文と面接試験があった。
ワタクシは面接で合格したようなものだった。
面接では女史然としたマダム教授が出てきてワタクシに言い放った。
「あなたの論文は中学生並みです!そんな語学力で本当に大丈夫ですか?」と言われた。
ここで引くわけには行かない。
得意のシャベリが炸裂だ!
「ワタクシは、このパリ第2大学の経済学部に入るために、遠い極東の日本国からはるばるやって来たのです。
またその為に、今まで血のにじむ思いで、フランス語の勉強をしてきました。
フランス語を聴いて理解する能力はあります。
作文力はこれから努力して磨きをかけます。
ワタシは、この大学で勉強がしたいのです!
日本の大学は退学までしてやってきたのです。
ワタシにはもうここパリ第二大学で勉強するしかないのです!
フランス語の勉強は2年目になり、もっと努力します!
お願いデス!
マダムの賢明なるご判断を、期待しておりマス!!!」 -
女史曰く
「ワカリマシタ。
アナタはワタシの言うこともシッカリ分かっているし、自分の意思を相手に伝えることも出来ることがヨク分かりました。
外人学生のためのフランス語養成特別カリキュラムを取ることを条件に、入学を許可しましょう!」
っと、なってしまったのだ。
晴れて入学試験を受けて、ソルボンヌの学生になってしまったノダ。
ユメのようであった。
教科書も全部買って、アンフィテアトル(階段状大講堂)での講義に出た。
一番前の席で、必死に先生の講義を聴いた。
家に帰ってから夜中まで勉強をした。
しかし講義の内容は、日本と殆ど同じだ。
(大講堂で大勢の学生相手にやるアレだ)
日本のどこの大学でも、同じように後ろのほうは騒いでいるワ、近くのヤツは寝ているワ、フランス人は母国語だから、半分ふざけて聴いていても理解できるし、教科書を読むのもそんなに苦労はしないだろう。
な~んじゃあ!?
わがパリ生活人生に疑問が湧いてきた。
「このままではフランス語はうまくなるだろうが、頭は決して良くはならない!」
だって日本の大学でやった事を、また繰り返すダケなのだから。
「これじゃあ、進歩がナイッ!」ではないか!? -
滞在2年の終わりころになると、滞在するお金が底をついてきた。
少しの間、日本から仕送りを受けていたが、父親が当方が知らぬ間に亡くなってしまい仕送りに頼るわけには行かなくなった。
(末っ子の息子には知らせても帰って来ないだろうとの考えで、ワタクシには父親の他界の事は伏せられていた)
金が無くては、イクサが出来ぬ!
学生アルバイトに精を出し始めた。
「背にハラは換えられなくなると、ヒトはなんでも出来るようだ。」
学生アルバイト募集所に行って張り紙を見て、自分で電話をかけて、アルバイトの口をゲットする。
この時初めて「自分のフランス語は通じるのだ!相手の云うことがヨック分かるのだ!」っと我ながら感心した。
「窮鼠ネコを噛む」「人間追い詰められれば、なんでもデキル!」のである。
あるときには、シャンパーニュ地方のエペルネにまで、ぶどう摘みのバイトに精をだした。
そのぶどうが世界的に有名なシャンパンの「モエト・シャンドン」や「ドンペリ」のシャンパンになるのを見て知った。
有名ブランドの裏事情も垣間見た。
ある時は、スペイン女流画家のハウス・ボーイ、ある時は会社事務所の掃除係。
ある時は日本人の手品師芸人の英語家庭教師兼情報係、、、
(この手品師、当時パリのアーティスト登竜門であったオランピア劇場に出ていた。フランス人の奥さんと一人娘とパリで暮らしていた。世界中の芸能会社とのコレポンに英語が必要だったのでそうした手紙の翻訳や返事を書いたりもした。)
当時の普通の学生アルバイトはたいてい時給はたったの5フラン(当時レートで約300円)だった。家庭教師だけは少しマシだった。
などなどをして稼いだが、ナンボにもならなかった。
(ロンドンでも色んなアルバイトはやったことがある。ある時はソホー地区のイタ飯屋の皿洗い[これは労働許可証がないので3日でクビ]、ある時はファストフードの「ウィンピーのウェイター」、ある時は工場の軽作業など。時給はホンの50ペンスだった)
その頃、パリのアチコチで見かける、日本人団体観光客を載せた観光バス。
バスの中には日本人のガイドが、マイクを持ってガイドをやっている。
「あのバイトは良さそうだなあ!」
しかし、どうやれば良いのか?
無い知恵を絞った。
先ずは正攻法で、パリの観光局に聞きに行った。
「ライセンスが要ります、カルト・トラバイユ(労働許可証)が要ります」でアウト。ワタクシ、その両方がありません。
当方は出稼ぎ移民では無いので、フランスの正規の労働者になるつもりは無い。
だから当局の許可なしで、稼ぐことを考えてオった。
アチコチ関係先を当たったが、どこも模範的な回答でダメ。
あきらめて、当時、作家志望の友達(日本人)、彼のフランス人のガール・フレンドと一緒に、黒人街にある中華料理屋で安くてうまいメシを食べていた。
会話はフランス語が主だった。
ハス向かいに、ネクタイをきっちり締めて場違いな気取った日本人ビジネス・マンが一人寂しく食事をしていた。
そのビジネスマン氏がワレワレに興味を持ったのか?
「君たち、フランス語がうまいネ。ちょっとアルバイトをやるつもりはないかね?やる気があるなら、ここのこのヒトの所へ行けば、優秀であれば出来るよ」っと天使のようなお言葉。 -
翌日、早速教えられた旅行社をオペラ座界隈に見つけた。
言われていたヒトに会った。
(確か「さぬき」さんと仰ったと記憶している)
やさしい女性で、
「アリヤンさん、やる気があれば出来ますよ~。
先ずトランスファーからやって見る?
そう、あのヒトのアシスタントで、明日空港に行って頂戴。
一人で出来るようになるまでは、お手当ては無いけど~」
男性社員の一人に付いて、その日からトランスファーの修行を始めた。
トランスファーとは、団体客の空港での出迎え、ホテルへ連れて行く仕事である。
バスの手配は会社がやってくれる。
その後、毎日のようにトランスファーのアシスタントをやっていると、男性社員がワタシのみすぼらしい姿を見かねて、
「もうソロソロ一人でやって見る?タダ働きだったらつらいだろう」
と、言ってくれた。
正直、金欠病は重かった。
晴れて、一人でトランスファーの仕事をやった。
簡単だった。
フランス語はバスの運転手(殆どが他国からの移民だった)に指示を出すくらいで、あとは日本人相手に日本語をしゃべっていればイイのだから。
初めてお手当てをもらった。
1回のトランスファーで80フラン(当時で約4800円)。
もらって、その高額さにビックリした。
それまで、パリ大の学生としてバイト代1時間5フラン(300円)だったのだから。
たったの2時間くらいのお仕事で4800円も戴けるのだから、時給にしたら2400円にもなるのだ!!
「なんという、ボロい商売だ!!」
それから毎日、その旅行社に通い詰めて、トランスファーの仕事を何度もやった。
旅行社はオペラ通り真ん中辺りにあった(当時)。
当方の当時の下宿はシテ島上だったので、職住近接で非常に便利だった。
とある日、旅行社の事務所でガイドのローテーションを組んでいた副所長さんが、ローテーション表を眺めて唸っていた。
唸りながら後ろをふり向くと、たまたま、ワタクシがソファに座って居た。
唸る副所長、ワタクシを目にして思わず、
「キミ、ベルサイユ宮殿のガイドできる?」
アリヤン:「ハイッ!できます!(実は行ったことも見た事もない)」
副所長:「明日の朝、エクワイヤトール・ホテルに行って、J○Tツアーのお客さんをピックアップして、ベルサイユ半日ツアーのガイドをやってくれないかネ?」
アリヤン:「ハイッ、やります!」
副所長:「キミ、本当にガイドできるノ?」
アリヤン:「ハイッ!アソコは何度も行っているので、大丈夫です!」
(ココで正直に申告すればそれまでの苦労が水のアワになるので、ワタクシとしては苦肉の策として、ツイうそをついてしまった。神様スイマセンデシタ)
副所長:「それじゃあ、頼む!」
ってな具合で、初ガイドの仕事をゲットした。
半日ツアー数時間で、1回300フラン(18000円)になった。
行ったこともない、ベルサイユ宮殿をどうやってガイドしたのかって?
「人間追い詰められれば意外な能力を発揮する」のです。
初ベルサイユ宮殿観光ガイドを切り抜けた。
当時のパリ事務所(ミキ・ツーリスト)は所長以下、社員全員がパリ現地採用のヒトばかりで、プロのガイドたちも、元はパリにあこがれて日本からやって来た連中ばかりだった。
ここで詳しく語り始めると長くなるので、この当時のパリの雰囲気とこの旅行社の雰囲気は、確か70年代後半に芥川賞を取った、青野聡氏の「愚者の夜」に詳しく描写されているので、ご興味のある方は読んでみてください。
登場人物の人間関係には、かなりな創作がなされているが、回りの状況や環境描写は結構正確です。
この芥川賞作家さん、全く同時期に同じ旅行社で働いていました。
アチラさんは社員として、コチラはバイトとして。
閑話休題。
うまいアルバイトが軌道に乗ったので、しばらくはフランスに滞在することになりました。
そうするとフランス滞在でも長期滞在するには許可証が要るのでした。
ここで、そのことをちょっと紹介します。
1年間はなんら許可なしで、パリに住んでいました。
ところが、規制が厳しくなって来たので、ワタクシも滞在許可証を取ろう、となりました。
全日制のパリ大学の学生なので、長期に滞在する資格はある。
当時、滞在許可証は警察本部で発行されていました。
住んでいるシテ島にある警察本部に行ってみると、「銀行口座にしかるべき金数があることを証明する必要がある」、と分かった。
それで銀行に行って、口座を開こうとした。
ところが口座開設には、なんと滞在許可証が必要なのだ!
滞在許可証を取得するには、銀行口座が必要なのだ!
完全な「パラドックス」の世界に落ち込んでしまった。
どうすりゃ良いノダ!卵が先かニワトリが先か?だ。
パリの町中をフラフラしながら、無い知恵を絞りにしぼった。
そうそう、「郵便貯金はどうか?」
郵便局に行って、貯金窓口をじっくり観察。
滞在許可証を持ってなさそうな、外国人が口座を開きに来た時、そばに寄っていき、スパイさながらにこっそり観察をした。
すると、「名前と住所だけ」で、口座が開けたのだった!
「捨てる神あれば拾う神アリ!」だ。
ガイドで稼いだお金の入った郵便貯金通帳を持って、再度警察署本部へ行った。
第二の関門。
「いつ、フランスに入国したかの証明がない。」
近隣国への陸路出入りには、当時でも隣国からの入国スタンプが押されなかった。
それでいつフランスに入国したのか?を証明するものがパスポートにはないのである。
そして、またまた「ない知恵を絞りに絞った」。
係官:「イツ、フランスにやって来たのかね?」
アリヤン:「1週間前に、オランダから汽車に乗って、フランスに入国しました。最初に貴国に入ったのは3か月前です。オランダには何度も行っています。」
疑わしそうな目をして、
係官:「それなら国境から、コッチに通って来た駅にはどんな駅があったか言えるかね?」
アリヤン:「サンコンタン、サンドニ、、、、、」っとスラスラ言ってやった。
(実際覚えられるほど、足げくオランダには行っていたので自然と途中の主だった駅名は覚えていた。)
係官:「オーケ、つい最近にオランダから入国したと認めます。」
「ビヤン、ワラッ!(よろしい!ハイッ)」っと、ばかりに滞在許可証にスタンプを押して、サインをしてくれたのでした。
めでたく「滞在許可証」をゲット!!した次第でした。
これで、ワタクシはレッキとした1年間滞在許可証を持ったパリ在住の日本人になったのでした。
このように、当時は、何かにつけ、外人滞在者には鷹揚なところがあった時代だったのでした。
現在では考えられないほどノンビリした「古き良きパリ」だった。 -
ガイドのアルバイトは、身入りが良いので、夏休みなどに、集中してみっちり働けば、1年間の生活費くらいは稼げたのだった。
例えば、
朝から「パリ一日観光ガイド」+「パリ・ナイトツアー」(夜10時くらいから、カルチェラタンのシャンソニエでお茶をして、モンマルトル辺りの2・3流キャバレーで食前酒を、そして、真夜中あたりからシャンゼリゼ通りの「キャバレー・リド」かモンマルトルの「ムーラン・ルージュ」でディナーショーを観覧)
を連日こなして、毎日午前3時ころに終了して4時ころに寝る。
翌日また朝早くからガイドに精を出す。
睡眠時間は数時間しかない。
こうした毎日を続ければ、月150万円くらいにはなった。
(その代わり、睡眠時間が不足する)
実際にプロのガイドさんの中には毎月150万円稼いでいた人がいた。
毎日、同じところを案内して、同じ説明を繰り返し、同じジョークで笑ってもらい、馬車馬のごとく働く。
そのうち、そんな生活に満足できなくなった。
「自分はいったい、パリで何をしているのか?
こんな水商売をやりにパリにやって来たのではナイ!」はずだった。 -
お金が少し溜まってくると、そういった生活がイヤになり、旅にでた。
パリ⇒ベルギー⇒ルクセンブルグ⇒オランダ⇒西ドイツ⇒西ベルリン⇒ミュンヘン⇒オーストリア⇒スイス⇒イタリア⇒南フランス⇒パリとヒッチハイクで廻るのです。
72ー74年のパリ滞在中に、フランスからドイツ・スイス・オーストリア・イタリアにかけて、ヒッチハイクで2回くらい廻った。
お金はふんだんにあったが、どうしてヒッチハイク旅行をするかって?
ヒッチハイクはその地の人たちとのふれあいがあった。
楽しかった。
いろんな国・地方・タイプの人たちと、出会い会話を交わし、時には心を通じあうことができた。
自らが「すこしづつ成長できている」と思えたのだった。
泊まるところは大抵がユースホステルだった。
時には載せてもらった若者の家だったりもした。 -
あることがキッカケで帰国する決意をした。
(青い目のGFが無為に過ごすワタクシを見て日本への帰国を勧めてくれたのだった)
1974年初めにフランスを後にして、オランダ・ハーグ、ドイツ、オーストリア経由のヒッチハイクでイタリア・ミラノ経由で地中海まで進んだ。
そこから汽車に乗り、イタリア半島のカカトにあるブランディジまでたどり着いた。
そしてブランディジから船に乗りギリシャのペトラ経由でアテネへ。
そこからまた海路でイスタンブールへ。
あとはトランス・アジア・エクスプレス(汽車)でトルコを東に横断してイランへ。
テヘランからマシャットへとイランを東に横断。
さらにバスでアフガニスタン・ヘラート⇒カンダハル⇒カブールとアフガニスタンを東に横断した。
そして、パキスタンを横断してインド・デリーまで進んだ。
(このルートは当時の「ヒッピーロード」であり、後日沢木耕太郎氏のベストセラーとなった「深夜特急」の逆バージョン[西から東]への進み具合だ)
ワタクシの場合、デリーのあとは飛行機でバンコックに飛びバンコックで約1か月くらい滞在してのち、我が日本・羽田にたどり着いたのだった。
羽田空港に着いたときはポケットに数枚のジャリ銭しか持っていなかった。
まさにヒッピーまがいなワタクシではあった。
この時のユーラシア横断は約4ヶ月の旅だった。
このパリ滞在青春時代最後の「ユーラシア大陸横断」がワタクシにとっての「グレート・ジャーニー」となり、ワタクシの生涯の「タビの原点」となりました。
また、ロンドンの1年間とパリでの約3年の生活は、わが「青春の原点」でもありました。 -
イチオシ
パリ1区、シテ島のとっぱしにあるアパルトマン。
そのアパルトマンの最上階の屋根裏部屋。
そこがワタクシのパリでの棲み処でありました。
「パリの空の下」というシャンソンが頭の中に流れてくるような生活でした。
写真は何年も後で、子供達を連れてパリにやって来たときのものですが、ワタクシは必ず、かつて青春時代に住んでいた屋根裏部屋の見える場所に行き、子供達に、
「お父さんは、昔、あそこに住んでいたんダヨ」
と、自慢していました。
最近ではパリでここに連れて行くと、子供達は、
「アー、分かりました。お父さんが住んどったトコやろ!もうエエわッ!」
と、言われるのです。
ポン・ヌフ(新橋)が通っており、その真ん中にアンリ4世の騎馬像が立っているところです。
左岸に行くと、当時「新橋」という日本料理屋があって、そこのバイトをやっていた岩立鉄男クンが、この屋根裏部屋に住んで居た。
彼は窓の無い狭い部屋に住んでいたが、「隣の窓付き、セーヌ河がまともに見える眺めのすごい部屋」が空き部屋になっているので、アリヤンもどうか?」
っという、有難いお話をしてくれたのでした。
それまでは凱旋門近くのクルーセル通りの暗い屋根裏部屋に住んでいたワタクシは即決で、ここ「パリの空の下、セーヌのほとり」に住む事になったのです。
なんせ、イブ・モンタンが住んでいたことのある超高級アパルトマンですよ。
(イブ・モンタンは屋根裏ではなく、その下の階の高級アパルトマンでした。住所は 29 Place D'Auphine,Paris1区のシテ島の屋根裏部屋でした。 )
過去の有名なヒトの名前が、壁に刻印されている優良物件でした。
しかも、家賃はたったの250フラン(当時レートで15,000円)/月)でした。
カクシテ、ワタクシはパリの空の下、セーヌのほとり、ノートルダム寺院やコンシエルジュの建つ、シテ島の上に住むことになったのでした。
7月14日のパリ祭には、窓から身を乗り出してセーヌの柔らかい風になぜられ、色鮮やかなブルーインパルスを見上げ、遠くシャンゼリゼーのざわめきを心地よく聴いていました。
古き、良き、「パリの空の下」でした。 -
シテ島の先端:パリ1区、プラス・ドーフィヌ。
写真手前の入り口から入って、急な階段を登ること、6階の屋根裏部屋、セーヌ川に向かって窓が開いていた。
下をバトー・ムシュが行きかい、遠くにサクレ・クールの教会、その下にエッフェル塔が見えていた。
さらに、シャンゼリゼ通りまで見渡せたのでした。
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この旅行記へのコメント (5)
-
- kioさん 2012/03/29 21:09:16
- いいですね!
- アリヤンさん こんばんわ
70年代初めの破天荒な若者の息吹が伝わってきます。
自分もそうですが、振り返ると、若い頃の、行動力、実行力、
眩しく感じてしまいます。
- アリヤンさん からの返信 2012/03/30 13:38:01
- RE: いいですね!
- kioさん、
「若さ」はホント、いいものです。
でも若かりしころのたびはただ「前にススム!」で、実のところあまり周りが見えていなかった、と思う。
年を重ね人生の経験と知恵を積んできた現在、あのタビ、このタビ、ホント、もったいなかったナア!と思うのです。
やってきたことに後悔はないけれど、ゆっくり進む今のタビのほうが俄然面白いのです。
「疲れないように、時間さえかけてボチボチ進めばどんなところでも行ける!どんなところでも観光以上の楽しみ方ができる!」
が現在の心境です。
それをボチボチと実行に移しています。
そう、タビの楽しみは、コレカラですナア!
70年代に世界を駆け巡ったことのある「今どきのジイさん、また書を捨て外にでよう!」
-
- BO/Mさん 2011/04/25 17:20:07
- お久しぶりです
- 父は建築家で、コルビュジェ事務所で一時期クセナキスと一緒に仕事をしていました。(クセナキスは数学者にして現代音楽家) 芸大の前身、東京美術学校 建築学科卒後、戦争の時代を経てフランスへ行き、その後日本に戻り建築家として活躍。 フランスは僕にとって一度は訪れてみたい国です。 今まで、仕事で中国・台湾・香港・韓国・フィリピン・インドネシア・シンガポール・マレーシア・ベトナム・タイ・カンボジア・インドと出張や駐在をしてきましたが、ついぞアジア(広域での西アジア・インドを含む)を出た事が有りません。
僕はアリヤンさんのこの原点、を偶に覗き見するのが好きです。
何も考えず、または見えぬうちから、海外に行き、何とかその地で大人になって行く過程の若者、を見る事が出来るからだと思います。
僕も決して若くは無くなりましたが、気持ちの若さ=成長過程であると考え、時にここを訪れ、気持ちを新たにしています。 有難うございます。
-
- れなさん 2007/09/16 20:57:14
- はじめまして
- こんばんは!
はじめまして、れなと申します。
ランダムトラベラー検索でアリヤンさんの旅行記に
飛んできました。
いろいろと見させていただいていて、
特にこのパリの旅行記が心に残りました。
知的好奇心旺盛で、全てのことにいい意味で貪欲だったんですね。
とても素敵なことだと思います。
・・・なにやらわたしも触発されてきました。
また、お邪魔します。
ありがとうございました!
- アリヤンさん からの返信 2007/09/17 13:47:43
- RE: はじめまして
- れなさん
「パリを好きになった理由」へのご訪問、ありがとう。
頑張って100カ国以上の制覇を目指してください。
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