2007/08/30 - 2007/08/30
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BO/Mさん
仕事でロンビエンの方に行った。
その帰り、「車かえしたから、所長、セオムで帰りましょう」と平然と現地雇員に言われ、二の句が告げなかったが、もう工業区から歩き始めて、5号線をハノイ方面に歩き出した。 仕方ないので、付いて行くと、程無く、セオムが声を掛けてきた。 値段交渉の後、ケツ乗りで40分、ハノイ市内に向かった。 そしてバイクならではの、ロンビエン橋渡りで戻る事となったので、再びロンビエン橋を撮りまくった。 セオムのおっちゃんは、頼むからもっとちゃんと座ってくれ、的な事を言っていた。 ハンドルが不安定なのだろう、僕が写真ばかり撮りまくって左右に後部座席が揺れると。 ゴメンな、おっちゃん。 でもね、おっちゃんにピッタリくっつく趣味も無いんやで、許してくれろ。 何度目かの注意で、左手を後ろにもってきて、太股を撫でられた時はかなり引きましたが、まあ、変な意味は無さそうでしたので許しました。(太股タッチだけをね) ←何言ってんだか。
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今日のぉ〜 仕事はぁ〜 辛かったぁ〜
朝5時から資材積み込み、
その後出発して5号線へ、
あまり具体的な事は避けて、
昼頃仕事が終わり、一路ハノイへ戻ります、
が、帰りの車は用意してなかったので、
現地雇員いわく、「所長、セオム」 「え・・・?」
気付けばバイクのケツ乗りしてました。
この線路は、ハノイ方面からハイフォンへ向かうもの
で、車で2時間前後を5−6時間かけて走るとか?
いや、4時間だったか?
誰も仕事で鉄道使う人いないので、覚束無い記載に
なりまして、申し訳無い。
画像の方角を延長してゆくと、ハイフォンです。 -
さて、題記の通り、話題はロンビエン橋。
別名、「横たわるエッフェル塔」
エッフェル自身が設計したものか、エッフェル社で
設計したのかはいざ知れず、エッフェル所縁の橋で
あり、竣工後既に一世紀以上が経つ事も、事実です。
KANさん(歌手)のサイトで、彼がレンタチャリ
を借りて(しかも旧市街地で一日$1で借りている)
ロンビエン橋を往復(!)してます、チャリで。
常人では無いです。 ハッキリ言って。 その後も
チャリで旧市街地を駆け巡り、大教会前でも記念撮影
したり、フォー食ってる自分をミニ三脚で撮ったりと
面白キャラです、文章も含め、彼は。
フランスに2年間留学して、アマチュア・ピアニスト
課で修学したり、カタコト外国語が好きで、幾つかの
言語で語学検定を(4級、とか)持ってます。
なかなかの、行動派です。 -
今回は、橋に興味が有る方が、結果的に一人でも見て
頂ければ個人的には成功か、と勝手に考えています。
100年以上も前に建立され、かつアメリカの北爆時に、
何度となく標的にされ、壊され(故にシンプルと複雑
が絡み有っているのだ、と推察)、でも再度繋げ、と
まるでベトナム人そのものを象徴するかの様な爆撃と
再建を繰り返した歴史を誇る橋だそうです。
きっと、北爆前はもっと複雑な橋桁で素敵だったんだ
ろうな、と想像を膨らましてみると楽しいものです。
「西側代表」としてベトナムの「民主化」「解放」を
目論んだ米国ですが、結果ロンビエン橋が象徴する様
に、不屈の精神で敵の負け去る迄闘い続けるベトナム
に結果対抗出来ず、世論も70年代、ヒッピー、そして
平和を求めるアメリカの新世代により、撤収を止む無
くされ、その後ボートピープル等、難しい時代を経て
現在、注目されるこれから発展が約束されている国家
へとリストアップされる今日が来ました。 -
1900年代初頭、この橋は竣工され、今日も鉄道及び
徒歩、バイク専用橋として建材です。
願わくば、次の一世紀も持つ補強やメインテナンスを
怠らず、更に願わくば建立当時の骨格を再現して完全
なオリジナル・ロンビエン橋復元へとアメリカに資金
でも出させて(爆弾で壊した者の責任として)やる、
なんてしないかな?
新たな経済危機に直面しているアメリカに、そんな
余裕は無いか。 低所得者向け住宅ローンの焦げ付き
が円高を進め、経済市場を乱し、そしてアメリカは、
再度経済の舵取りの意味も含め、軍事産業の活性化を
図る為の「世界警察」化に走るのだろうか・・・・?
日本は、そのロジスティクス(兵站)として燃油補給
を続け、結果的に中東との関係を危うくして行くので
はないだろうか? ロンビエン橋に落とした爆弾は、
結局何回繰り返しても繰り返す歴史を物語っている、
そんな感じだ。 -
僕が経験している一番の円高は、皆も同じだろうが、95年初頭から、結果的に79円迄続伸した時期の事。 当時上海で、未だ時代はFEC(Foreign Exchange Currency)と言う、外国人兌換券なるものが、中国大陸では大手を振っていた。 80年代後半、トショウヘイによる南方講話に始まる改革開放、いわゆる中国に特徴を持つ社会主義経済の発展形としての全体主義から先富容認施策への転換は、その後現在に至るまで連綿無く続く、「世界の生産工場」としての中国の始まりだった。 中嶋嶺雄が国際関係論、特に中国論者として一番輝きを放った季節、80年代後半から90年代初頭、彼が未だ東京外国語大学で国際関係論を教えて、多くの著作物をものにした時期。 現在も国際教養大学学長として活躍される中嶋先生に私淑し、勝手に心の師、としてその本を読んだ時期が懐かしい。 そして95年の確かG5で円高容認がなされ、凄い勢いで円高が進んだ。 FECは当時人民元に闇レートで交換すると軽く1.5倍以上になった。 友諠商店でしか外国製品が買えず、友諠商店で購入する為にはFECが必要だった、そんな時代。
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当時上海駐在だった。 FECから人民元に闇で換えると市中では買い物が出来るが、地方へ行く列車の切符等はFECじゃないと外国人はダメ、とかで困った。 外貨統制が厳しく、FECと言う外国人専用兌換券により、外貨がどれだけ交換されたか、をチェックしていた。
経済って、バランスが不均衡になると、一つは自助作用としてバランスしようとする側面があり、また一国集中で貿易黒字、赤字が偏ると、その均衡を保つ為に関税障壁や非関税障壁を作り、特定商品の市場参入に対してかなり恣意的にブレーキをかけたり、容認したり、と結構国家間交渉で物事が進む。 そして、自国内に経済不安定が生じた場合、アメリカは「外敵退治の旗印」を立てて、民意を海外に向けさせ、軍事産業を活性化し、爆弾をどんどん落とし、「正義の味方」として大活躍する。 時には「大量殺傷兵器」の存在を作り上げ(デッチアゲ?)、「今、そこに在る危機」を煽り、満身創痍だがカンフル注射により蘇生する、と言う事を繰り返している様にも思える。
ロンビエン橋を幾度となく北爆した時代、強いアメリカ、は東西代理戦争としてのベトナムと言う舞台で、ゲームの「親」として君臨する事に必死だった。 -
昨晩、睡魔に襲われながら書いた部分を反芻すると、生半可な知識を披瀝している稚拙さを恥じる。
さて、橋に話を戻そう。
龍辺大橋の南方には、彰陽大橋がある。 ともに、ロンビエン橋、チュォンゾン橋、と言うのが発音から表記し得る日本語。 そのチュォンゾン橋のハノイ市内側ちょっと南方に、長距離バス発着所がある、らしい。 そこから国内各所へ行くバスが発着している。 -
チュォンゾン橋は、大型車両(車、バス)も通れる橋で、ロンビエン橋は鉄道、そしてバイク、徒歩専用となり、車は通過出来ない。
昔は鉄道線路上を車が通過していたそうだが。 -
偶に、自転車で通っている人に会います。 通過中、せいぜい2〜3台だったと記憶しておりますが。 バイクでも数分間(2〜3分?)かかるから、自転車だと5分間以上掛かるんじゃないかな?
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ひたすら、ただ、橋画像が続きます。
もう、橋を渡っている間中、撮り続けた、と言えます。 -
遠めで(チュォンズン橋側から見るのがいつものパターン)見ると、明らかに複雑な構造の橋梁鉄骨と、シンプルな直接的なゴタゴタしていない部分の二種類に分類出来ます。
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この辺は、何も無いシンプル部分。 多分、北爆時にぶっ壊されて、その後単純橋梁として再生された部分じゃないか、と思います。
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そんな部分が結構長く続きます。 この橋の強度ってどうなっているんだろうか? フト気になります。 ミネアポリスだかで、急に橋が落ち、多数の犠牲者が出たつい最近のニュース後、結構その話題がハノイ常駐日本人間で話されました。 近くで見ると、錆びて錆び色が良い味出している、ともいえますが、度が過ぎれば腐食している、と言う事になりかねませんし。
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ホン河(紅河)は、上流からの土を削り取り、流してきます。 この河の水質が、どの程度自然であり、どの程度汚れているのか、そして、ハノイの人々(少なくとも僕個人で聞いたのは5名)が言う、使い捨ての注射針だらけ、と言う川底・・・想像だに恐ろしいですが・・・それらを思いながら撮影。
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またまた、チャリです。 学生が多いみたいな気がします。 この橋を渡り、延々大学まで片道1時間半、とか結構居るんじゃないかな、と。 雨の日も、風の日も、灼熱地獄でも、ハノイの冬でも。
そうです、上海駐在中も、飲み屋のお姉ちゃんが、矢張り自転車で学校、店、自宅を通っていると言う涙ぐましい話を聞きました。 「だから、チップくれ」と言われた瞬間に、今までの美談が崩壊し、すっかり財布を握り締めて、ああ、これで何人の日本人からチップを巻き上げてきたのだろう、と思いましたが。 当時の上海(94−97年)は、矢張り今のハノイに似た、「これから経済的に勃興する時期」で、10年以上を経て、同じタイミングを、別な国で経験する、と言う事に、懐かしさを感じます。
当時の上海は、まだ若年層までバイクがいきわたっておらず、結構自転車の台数が多かったと思います。
その点、10年以上を経て同じ境遇が到来すると、自転車はバイクに変わる、と言う事なのだろうか?
自転車の彼は、「たまには運動の為にチャリでも乗るか」と言うだけだったりして・・・ -
この辺りも、爆破されて作り直した部分なんでしょうか。 アメリカって、アメリカって、と思いつつも、戦争って、結局こんなもんなんだろうな、とも思う。
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珍しく、前方より鉄道車両が近付いてきています。
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やってきました。 タイミング的には、正午前、って感じだったと思います。
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対向して走ってゆく為、あっという間に過ぎ去りました。
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結局、何処行きの電車だったのかも知れず。 客車がついていました。 方角的にハイフォン行きじゃないか、と勝手に推察。 でも、途中からスイッチしてランソンの方に行くやつも、こんな感じの車両編成だったな、とおもったりして。
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まだまだ、橋が続きます。
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ひたすら、橋の画像です。
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この辺は、生き残った部分なのか?
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この旅行記へのコメント (2)
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- アリヤンさん 2007/10/22 17:16:32
- ロン・ビエン橋と注射針
- BO/Mさん、こんにちわ。ハノイ駐在、頑張っておられますね。
前回果たせなかったロン・ビエン橋の徒歩横断だったけれど、BO/Mさんのブログを見てもう行って見て来たような気分になりました。
茶色く濁ったホン河の川底をさらったらどれだけの注射針が出てくるか?想像しただけでゾッとする!
共感します。
BO/Mさんのブログは参考にさせてもらっています。
11月末ころには南寧から東興ーモンカイ経由でベトナムに入ろうか、と考えています。
- BO/Mさん からの返信 2007/10/23 04:40:23
- 東興=モンカイルート、及びラオカイルート
- 毎度です、またまた遊びにいらして下さって有難うございます。
ご存知の通り、中越回廊は大きく3通りあり、辺境貿易の地元民同士の別ルート以外では、いわゆるあまねく外国人に対して門戸を開いているルートは、モンカイ、ドンダン(友誼関)、ラオカイとなる為、既に踏破調査済みの友誼関以外2ヶ所を調査する事は、今年後半の課題でもあります。
勿論、その他東西回廊、第二東西回廊(カンボジア、ラオスルート)も実走してみて初めて色々と分かる事も有ろうかと、それは3月末までの「今期」課題として掲げております。
仕事での出張としてそれら地域に行く事はありますが、あくまでも業務出張なので、何か「旅」をする4トラの皆様とは異なったアプローチだな、と他の方のブログを見つつ、感じております。
ロンビエン橋も同様、5号線沿いにザーラムの方へ行く為にモーターバイクルートならこの橋を多用する為、折に触れて画像に残しています。 今度は日中の安全そうな時間帯なら、徒歩で渡る、またはKANさんの様に自転車で往復する、と言うのもアイデアかな、とは思いつつ。
今日も夜遅く、並行して一本南側のチュンズオン橋を深夜往復しました。 確実にラリっているバイク3台が蛇行して、狭い橋を我が物顔に練り走っておりました。 あれは明らかにヤク中の表情だな、と感じながらタクシーの車窓より見たものでした。
深夜、は警備体制も強化されており、拳銃やマシンガンを持った特殊部隊的な警察が、2人一組でバイクに跨り、治安維持につとめています。 流石に彼らにレンズを向け、ストロボをたく勇気は有りませんのでまだ画像化されていませんが、結構流血を伴う捕り物は、深夜の市内で散見される光景です。 そして、深夜のチュンズオン橋をハノイ市内側に入ると、大体12時過ぎから明け方05時頃迄、青果類を売る地方から出てきた行商で賑っており、それはとても壮観です。 これもそのうちリポートしてみたいな、と考えております。 今日は残念ながらデジカメを携帯せずに(珍しく)深夜人を送った為、画像化する事ならず、でした。 今後とも、種々情報交換、共有をさせて頂けましたら幸甚、何卒宜しくお願い申し上げます。
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