2007/05/02 - 2007/05/02
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牧野車塚古墳(まきのくるまづかこふん)は、大阪府枚方市にある全長107.5m、前方部幅44mの前方後円墳で埋葬者は不明。
周囲に幅約10mの空濠があることが解っている。古墳は5世紀前半に作られたものと考えられており、1922年に国指定史跡に指定された。付近には赤塚・権現塚・子供塚等の小古墳があったことが知られており、かつては牧野車塚古墳を中心に古墳群が形成されていたものと考えられている。 太田明氏は著書『日本古代遺跡の謎と驚異』で牧野車塚古墳は大和に描かれた大三角形の頂点に位置するとし、イギリスのストーンヘンジとの関連性にも言及、真偽は判らないが謎めいた古墳でもある。5世紀以前は神話と実話が混在しており古代史自身謎が多いが、牧野車塚古墳の埋葬者は4−5世紀の重要な人物だったことは間違いないだろう。
牧野車塚古墳から1キロほどの場所に「渚院(なぎさのいん)の跡」がある。平安時代に文徳天皇(もんとくてんのう827−858年)の第1皇子惟喬親王(これたかしんのう、844−897年)の別荘であった渚院の跡の史実は明確だ。惟喬親王は第1皇子でありながら、母が紀氏の出身であったことから文徳天皇は母が太政大臣藤原良房の娘、女御明子であった第4皇子、惟仁親王(これひとしんのう850−880年、後の清和天皇)を皇太子に指名した。天皇になれなかった失意の惟喬親王は859年に15歳で東近江市(町村合併前は永源寺町君ヶ畑)に出家し隠遁。春には渚院を訪れ交野ヶ原で在原業平 (ありわらのなりひら825−880年)らと狩猟や花見をして心を和ませようとしたそうだ。
惟喬親王に仕え、六歌仙でもあった平安時代の代表的歌人、在原業平は惟喬親王の失意の心を渚院の桜を見ながら詠んだと言われている。
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(古今集)
美しい桜、だが一瞬に散ってしまう桜の花に、心はせかされ穏やかではない。もし、桜がこの世に無ければ「春の心」はもっとのどかだっただろうに。
渚院の跡には1796年には観音寺が建てられていたが、1870年に廃寺となり、現在は鐘楼と梵鐘が残っている。梵鐘は河内惣官鋳物師枚方田中家の作で、1796年の鋳造。田中家鋳造の梵鐘としては、市内に残る唯一のもので1996年に廃渚院観音寺鐘楼梵鐘として有形文化財に指定されている。
田中家は枚方(ひらかた)の地で河内鋳物師として、梵鐘・灯籠をはじめ鍋・釜・鋤・鍬などを鋳造していた。
1960年頃廃業したが、江戸時代中期に建てられた鋳物工場は1973年に大阪府の有形文化財に指定され、その工場と主屋の寄贈を受けた枚方市が、藤阪に移築復元し1984年に、枚方市立旧田中家鋳物民俗資料館として開館している。
(写真は牧野車塚古墳)
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