2007/05/02 - 2007/05/03
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drakenさん
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2006年の桜咲く頃、drakenは某トラベラーさんから荘川桜の
リクエストをいただきました。
しかし、昨年のGWはすでに屋久島行きが決まっていたため行く事ができませんでした。
リクエストされたトラベラーさんはすでに忘れているかもしれませんが、drakenは一年後の今年のGWについに約束の『荘川桜』の下にやって来ました。
その巨大な2本の桜に秘めた感動ストーリーを少しでも
みなさんにお伝えできればいいな。
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白川郷の駐車場周辺の渋滞を抜け、やっと御母衣ダムに到着しました。
ε=( ̄。 ̄;A フゥ…
ここは、御母衣ダムの隣にある『電源開発株式会社』の御母衣ダム展示館『MIBOROダムサイドパーク』です。 -
MIBOROダムサイドパークからは、御母衣ダムが
目の前に見えます。 -
さらにダムに近づいて、ズームアップしてみました。
この御母衣ダムが普通のダムと違う事に気付いていただけましたか?
ここはコンクリート製のダムではなく、『ロックフィルダム』と言って、壁の中心の粘土質で水をせき止め、その両面を砂や砂利で固め、さらにその外側を岩で固めます。 -
ダムの内部はこんな感じになっています。
この後、御母衣ダム建設の歴史や「荘川桜」誕生にまつわるドラマ『桜守の詩』を見ました。
全国的にはほとんど知られていないこのダムには
プロジェクトX並のドラマがあるのです。
戦後復興期の電力不足を補うために建設計画が立てられた御母衣ダム。しかし、水力発電に適したこの御母衣の地は、当時1200人以上の住民が生活していた地域でした。
国家の発展のためとはいえ、彼らに故郷を後にする決断をしてもらうのは、御母衣ダム建設の計画者『電源開発株式会社』初代総裁・高碕達之介にとっても苦渋の選択でした。
御母衣ダム建設のため、住民との補償交渉に自らあたった高碕総裁。当初「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会」まで結成して建設反対を訴えていた住民も、真摯に対話する高碕総裁の姿に心を打たれ、ダム建設に合意するのであった。それはつまり、彼らのふるさとがダムのそこに水没し、消え去る事を認めることであった・・・。
高碕総裁の回想録にこんな一言があります。
「電源開発側でも、泣きの涙であった。人々の心の裡(うら)は、痛いほど判っていた。しかし、国全体の進歩のためには、目をつむってでもやりとげなければならぬ大事業である」(『文藝春秋』昭和34年8月号)
一方、死守会の書記長を務めていた若山芳枝さんの談話
「先生(高碕)は私たちにお話になる時、かわいそうだと同情されお泣きになりました。私たちも泣きますし、先生も涙を拭いてお話になる、そういう間柄でございました。本当に細やかな情をお持ちでしたから」(『東罐』平成5年4月号)
高碕総裁のような人情あふれる方が、直接交渉にあたったおかげで、住民の方々も納得できたんでしょうね。保証金の額だけじゃなく、電源開発側だけの都合でなく、住民の方々のつらい心情を深く理解された高碕総裁だったから・・・。 -
両者が歩み寄り、ついに死守会が解散される事になりました。
その解散式には、74歳ですでに総裁の職を辞していた高碕も招かれた。高齢で交通の不便なあの御母衣の地へ行くのは、かなり大変だったろうに・・・。
式に出席した高碕は、若山らと万感こもる握手を交わした。両者涙のうちに、式は終わった。
その後高碕は、突然「周囲を見てみたい」と、若山にいった。
高碕は、水没予定地をゆっくりと歩き出した。
沈みゆく学校や、鉄橋や、家々を見てまわった。
そして学校のとなりにあった光輪寺の境内にきたとき、ふと、歩みを止めた。
高碕
「境内の片隅に、幹周一丈数尺はあろうと思われる桜の古木がそびえていた。葉はすっかり落ちていたが、それはヒガン桜に違いなかった。私の脳裡には、この巨樹が、水を満々とたたえた青い湖底に、さみしく揺らいでいる姿が、はっきりと見えた。この桜を救いたいという気持(きもち)が、胸の奥のほうから湧き上がってくるのを、私は抑えられなかった」
高碕は、木の幹に手を遣りながら、「助けたい」といった。それを聞いた若山は、不思議に思ったという。
高碕は、自宅に植物研究室を設けるほどの自然愛好家であった。そして彼は、村人たちとの長い交渉を経て、その桜の、老いた幹や枝以外のものまで見つめられるようになっていた。古木は、村人にとり、その一生を通して生活のなかに存在した村の象徴であることを想(おも)ったに違いなかった。若山は、古木のことをこう回顧する。
「赤ちゃんのころは背負われて見上げたもので、小学生ぐらいになればガキ大将を中心とした格好の遊び場となりました。若いカップルにはデートの場所でもありましたし、歳とってからはお彼岸や大事なお参りで憩う場といった感じだったんです」
高碕は、その場にいた電源開発社員に桜を救ってくれるよう、頼み込んだ。
さらに帰京後、高碕はある人物のもとを訪れた。 -
自宅に植物研究室を持つほどの自然愛好家だった高碕は、光輪寺の老桜がこのまま湖底に沈む事が、あまりにもたえがたかったのです。
老桜を救うため、移植を決心した高碕は東京に帰り、何人かの専門家を訪問するも、高さ30m、幹の周り6m、重さ40tあまりの巨大な古木の移植を専門家は「無謀」だと拒否した。
数日考え込んだ末、神戸で『桜博士』と呼ばれている『笹部新太郎』氏のことを思い出し、最後の頼みとばかり、移植の依頼をしました。最初拒否していた笹部氏も高碕の桜への切なる愛情、住民への思いに感動し、ついに協力を約束したのでした。
協力を約束したものの、笹部はこんな心情だったそうです。以下、笹部の回想。
「私の顔を見ながら、私の答えを待っている。私はハッとして今更ながら取り返しのつかない軽はずみな放言を悔いてみたが、事ここに到っては、もはやどうなるものでもない。思わず『私でよろしくばやってみましょう』と答えるほかなかった。ものの勢いである。(中略)私も男のはしくれだ、ままよ、どうとでもなれ! やれるだけはやってやろう。こうした機会はまたとは来まいと胸を張るかと思えば、不運にもこれに失敗したら、私は今後はもう桜を語るまい、としょんぼり肩を落としもした」(『櫻男行状』)
現地に調査に入った笹部氏は、光輪寺のほかに照蓮寺にも老桜がある事を発見、ともに救い出す事を決断しました。
さらに現場作業をになう庭職人として、当時日本一と言われた『丹羽政光』氏が計画に参加しました。
前例のない巨大老桜の移植に向けて、最高の人材が集まり、奇跡の挑戦が始まりました。 -
高碕の決心から1年余り経った昭和35年11月15日。ついに移植作業が開始されます。作業開始を初頭の寒さ厳しい11月としたのは、木の活動が停止するこの時期に行なう事で、移植の成功率を高めるためでした。
世界植樹史上例のない移植工事であった。重量合わせて73トン。移動距離600メートル。高低差50メートル。
運搬のため桜の枝や根を刈り込み、何重にもむしろを巻いた。
桜はむやみに枝を伐採すると、たちまち立ち枯れしてしまう外傷に弱い植物として知られている。しかしこの2本ほどの巨木の移植は、枝や根を伐らずには、数メートルを移動させることすら困難であった。
枝や根を刈り込んで無残な状態になった桜をこうして現在の中野展望台の所まで、引き上げる作業を2度繰り返しました。
移植はされたが、丸裸になってしまった老桜を見た周囲の声は冷たかった。
荘川村の老人からの手紙
「(前略)おれたち年寄りの手や足をけずりとって生きてゆけるかいの むごいことしてしまったわい 金までかけて殺さなくともよさそうなもんじゃがなぁ(中略)だるまみたいにしてあら縄のホータイぐるぐるまいて がんじがらめにしてわざわざ山へつれだし殺すなんてひどいことだ たましいがあれば罰があたってかまった人にさわりがあるよ おらあうたててうたてて見とれんわい」
地元の人々ばかりでなく、笹部は植物関係の学究や、技術者からも非難を受け、マスコミにも叩かれた。
笹部は、無言で春を待った。
「私はひたむきに新しい春にあうて出てくるであろうこの老桜の嫩芽(どんが)を待ちつづけたが、雪国のおそい春にじれじれした」 -
遅い春が訪れ、待ちに待った若い芽が出た。
そして昭和37年(1962年)、水没記念碑が完成し、その除幕式に、桜の移植の指揮を執った笹部と、その発起人である高碕達之助が招かれた。
式には、他の土地へ移住した約500人もの村人が、大型観光バスに分乗してかけつけていた。村人は、老若分かたず、すべてが水没した水面を見つめて泣いた。そして、わずかに生き残った2本の老桜にすがりつくように集った。高碕が挨拶を始めた。
「昭和二十七年十月十八日基本計画の発表をみたときから、皆さんの幸福をひたすらねがいながら交渉をすすめた。国づくりという大きな仕事の前に父祖伝来の故郷を捨てた方々の犠牲は今、立派に生かされています」
挨拶の途中で、高碕は涙をこらえきれず、泣いた。そんな高碕を見て、笹部も泣いた。笹部の回想。
「温情をこめて語る一語一語は、日ソ漁業交渉の立役者として、今、全世界の脚光を浴びている世紀の人とは思えない。それは、謙譲と誠実にあふれる一個の好々爺のようであった」
川風は冷たかったが、村人たちは、いつまでも桜の下の輪を解こうとはしなかった。
そして高碕が、裸になった桜を見上げながら、詠んだ。
ふるさとは
湖底(みなそこ)となりつ
移し来し
この老桜
咲けとこしへに
それから3年経った昭和39年(1964年)、高碕から笹部のもとへ、手紙が届いた。あの桜の愛称を取り決めておきたいとの旨がしたためられていた。それが、高碕の絶筆であった。昭和53年(1978年)には、笹部も天寿をまっとうした。
2人はこの世にはない。
しかし、「荘川桜」と名付けられた2本の老桜は、いまもなお、ダムの水面(みなも)をのぞみながら、新たな枝葉を天へとひろげている。(了)
【参考資料】
電源開発株式会社 『荘川桜物語』
http://www.jpower.co.jp/sakura/tokoshie/index.html
電源開発株式会社 『荘川桜物語』パンフレット
荘川観光協会
人の愛情によって助けられた『荘川桜』パンフレット -
駐車場に車を停め、協力金100円を払って、
いよいよ『荘川桜』に対面です。 -
コチラが桜の移植のきっかけとなった光輪寺の桜
ほんと、見事な桜の木です。 -
-
コチラが『照蓮寺』の桜
どちらも立派な桜ですね。 -
荘川桜にはもう一つ 感動話があります。
「太平洋と日本海を桜で結ぶ」
〜人を愛し、桜を愛した車掌がいた〜
佐藤良二 さんの物語
名古屋駅から金沢まで、約250kmを走っていた、旧国鉄の「名金バス」。岐阜県の山間、国道156号線を縫うように走るのがメインルートでした。
当時、日本一の長距離路線バスの車掌をしていたのが、今回の主役『佐藤良二』さんです。
先ほど書いたように、高度経済成長時代に、御母衣ダム建設で村の一部が水没し、一緒に沈むはずだった荘川桜。
佐藤さんはその荘川桜の近くの白鳥町在住で、荘川桜の移植とダムに沈む村を見続け、その移りゆく風景をカメラに何枚も収めてきました。
生まれ故郷ではないとはいえ、水の底に沈み、消えゆく村を見続け、どんな思いだったんでしょうね。 -
沈み行く村の姿に淋しさを感じながら、一方、世紀の大移植で奇跡的に復活した荘川桜には命のたくましさを感じていたのではないでしょうか。
その荘川桜から受けた感動が佐藤さんにある夢を思い立たせました。
「自分が乗るバスの路線(名古屋−金沢)を、太平洋と日本海をつなぐ、『さくら道』にしよう」と
彼はバスの走る道沿いに、桜の苗木を黙々と植え続けた。
乏しい蓄えを注いだ。
少ない休暇を使った。
その佐藤さんの姿に感動し、協力を申し出る人も大勢いたそうです。
その後、桜博士のアドバイスを参考に、ただ苗木を植えるのでなく、寿命が数百年から千年というアズマヒガンサクラである荘川桜の種から思考錯誤しながら苗木を育て、その子孫を植え続けたのである。 -
しかし桜を植え続けているうちに、佐藤さんの体は次第に病魔に冒されていった。
入退院を繰り返しながらも桜を植え続け、2000本あまりの桜を植えた頃だろうか佐藤さんは病に倒れた。
病床にいながらも、「人の喜ぶことをしたい」と我が身を顧みず、無償の行為を貫いた佐藤さんでしたが、
ついに、志半ばの47歳という若さでこの世を去られました。 -
佐藤さんは『さくら道』の夢を果たす事は、できませんでしたが、その後、無二の親友や仲間たちが、名古屋から金沢まで桜を植えていきました。
そのさくら道は、さくらの季節にドライバーの心を癒してくれます。
もし、さくらの季節に「世界遺産 白川郷」に行かれる機会がある方は、ぜひ少し足を伸ばして、御母衣湖の『荘川桜』、「さくら道」を見学されてみては?
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佐藤さんの意思はコチラにも引き継がれています。
『さくら道国際ネイチャーラン』
http://shirotori.gujo.to/sakurainr/HP/sakurainr1.htm
名古屋から金沢までの当時のバス路線(約250km)を徹夜で走ります。
この地球の上に 天の川のような
美しい花の星座を作りたい
花を見る心が 一つになって
人々が仲良く暮らせるように・・・
佐藤良二 -
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ふるさとは 水底となりつ
うつし来し この老桜 咲けとこしへに
電源開発株式会社 初代総裁
高碕達之助
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最後にもう一つ 高碕氏のことば
「進歩の名の下に、古き姿は次第に失われてゆく。
だが、人の力で救えるものは、何とかして残してゆきたい。古きものは古きがゆえに尊いものである。」
この水の底に沈んでしまった村そのものを救うことはできなかったが、村のシンボル『荘川桜』を救った事で、水の底に沈んだ村がある事を後の人もきっと思い出してくれるでしょう。
長文旅行記、最後までありがとうございました。
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この旅行記へのコメント (4)
-
- ぼぬかいさん 2007/06/21 12:46:43
- プロジェクトX
- 泣きそうになったのだ。。。。
荘川桜にそんな話があったとはつゆしらず。
春になると沢山のおばさまたちを乗せた観光バスが行く所としか思っていなかった。。。。
枝や根を切り落とされて移植したのに今でもこうして桜が咲き 人々を惹きつけてやまない荘川桜。
桜も人々の気持ちに応えて一生懸命生きたのでしょうな。。。
風の中〜のす〜ばるぅ〜♪
- drakenさん からの返信 2007/06/24 11:14:38
- RE: プロジェクトX
- ぼぬかいさん、書き込みありがとうございます。
>泣きそうになったのだ。。。。
ぜひ、泣いて頂きたかったです。
実は僕も桜ロードの事は知っていたんだけど、ダムの底に沈む村から救出された桜だったということは、この旅行計画を立てるまで知りませんでした。
ダムの底に沈んでしまった村はもう戻らないけど、荘川桜が咲き続ける限り、村と桜移植の美談は語り継がれることでしょうね。
僕は荘川桜に近づくとき、ドライブ中のBGMは 『地上の星』にして気分を盛り上げていったんですよ。で、離れる時は『ヘッドライト・テールライト』にしてました。
ぼぬかいさんも、白川郷などに行く機会がありましたら、ぜひ荘川桜の事も思い出してみてくださいね。
ちなみに、荘川桜の約束をしたトラベラーさんとは埼玉のあの方なんだけど、本人忘れちゃったかな?
-
- hizuk927さん 2007/06/16 13:42:10
- はじめまして
- drakenさん、はじめまして
御母衣ダムの旅行記を読ませて頂きました。実は以前、母の友人の実家が御母衣ダムの湖底に沈んだと聞いたことがあります。私も数回、御母衣に行ったことがありましたが、当時はこんなドラマがあったことも知らず、ただ綺麗な景色として眺めていたくらいです。プロジェクトX 〜桜ロード 巨木輸送作戦〜を見ましたが、とても感動的でした。
多くの人にとって御母衣は白川や五箇山への通過点だと思いますが、drakenさんが旅行記に記してくれて、とても嬉しく感じます。私も機会があれば、また訪れたいと思います。
素敵な旅行記に一票投票させて頂きます。
ところで、話は変わりますが、神岡の「宙ドーム神岡」へはdrakenさんが訪問された2〜3日後に私も行きましたよ。しかも行き先はdrakenさんが行かれた滑川の隣町の魚津です。同じルートを通った方がいらっしゃるのは面白いですね。次の旅行記で兼六園を紹介されていましたが、兼六園にもノーベル賞(イグノーベル賞ですが)に関するエピソードがあるのはご存知ですか?
2003年の化学賞:「ハトに嫌われた銅像の化学的考察」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E8%B3%9E%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E5%8F%97%E8%B3%9E%E8%80%85%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7#.E4.B8.80.E8.A6.A7
最後に五箇山についてコメントさせて頂きます。
私が白川・五箇山の集落で一番好きなのが相倉集落です。長閑な風景と白川程大規模で無いのが好きな理由です。そんな風景をdrakenさんが綺麗に写真に収めて頂いているので嬉しいく感じます。それにしても相倉集落を一望できる場所をよく見つけられましたね。細い山道を登るので、見つけにくく無かったですか?私は4〜5回訪問してやっと見つけることが出来ました。
今後もdrakenさんの旅行記を楽しみにしています!
- drakenさん からの返信 2007/06/17 21:50:22
- RE: はじめまして
- こんばんは、hizuk927さん。
drakenです。
荘川桜の旅行記への投票ありがとうございました。
>多くの人にとって御母衣は白川や五箇山への通過点だと思いますが、drake>nさんが旅行記に記してくれて、とても嬉しく感じます。私も機会があれ
>ば、また訪れたいと思います。
そうですね。多くのトラベラーさんにとっては御母衣は、ほとんど知られていない所だと思います。
僕自身、トラベラーとして御母衣はあまりお勧めできないのですが、御母衣のエピソードは、できるだけ多くのトラベラーさんに知って頂きたいと思い、今回の旅行記を作成しました。
そんな思いを感じて頂けて、とても嬉しく思います。
ありがとうございます。
兼六園のイグノーベル賞の情報ありがとうございます。
確かに、ヤマトタケル像にはハトが寄っていなかったような気がします。
>私が白川・五箇山の集落で一番好きなのが相倉集落です。
僕も以前は白川郷しか知りませんでしたが、今回の相倉集落の訪問で、
相倉集落が一番のお気に入りになりました。観光地化が進んでしまった白川郷とは違い、相倉集落は昔の雰囲気がそのまま残されているような気がします。旅行記のタイトルにもつけましたが、この風景を未来に残して欲しいです。
相倉集落の展望スポットは、入り口の駐車場から矢印看板があったので、
僕は迷うことなく行く事ができましたよ。
hizukさんが行かれた頃は、まだ看板がなかったんでしょうかね。
では、失礼します。
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