2007/05/05 - 2007/05/05
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ぬしま汽船さん
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出雲を発ち、この日のメインの目的地となる石見銀山へ。
以前、雑誌「羅針盤」で見てから、ずっと行きたいと思っていた場所。
出雲から9号線を西へ向かい、1時間ほどで石見銀山へ到着。
石見銀山は戦国時代後期から江戸時代前期にかけて発展した日本最大の銀山。16世紀、世界の銀流通量の1/3を占めていた日本の銀は、主にこの石見で作られていたそう。
その後、生産量は落ち、大正12年には休山となってしまう。昭和20年代には銀山の本体である柵内(さくのうち)に棲む人もほとんどいなくなり、石見銀山は歴史の表舞台からひっそりと姿を消していった…。その隆盛の跡を今日は巡る。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
-
AM8:00
石見銀山に到着。銀山公園前の無料駐車場に車を止め、歩いて回る。
写真の石橋を渡り、突き当りを左へ歩いていくと銀山柵内と呼ばれるエリアとなる。銀山の中心となるこのエリアは、320ヘクタールの範囲におよび、銀山の隆盛時である江戸時代初期にはその重要性から柵で囲まれていたため、そう呼ばれた。 -
点在する鉄のオブジェは大森に住むアーティストの作品だそう。
鄙びた景色の中、錆の質感が違和感を感じさせずに溶け込にでいた… -
街道沿いの「豊栄(とよさか)神社」
荒廃していたものの、新緑に包まれた境内に対し“侘しい”という印象を受けなかった。 -
「銀山街道」を歩く。
龍源寺間歩へと続く道は新緑がきれいだった。 -
道端に生えていたイタドリをちょっと食べる。
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間歩(まぶ)と呼ばれる坑道。
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石見銀山には間歩が600以上あると言われているが、内部公開されている間歩はほとんど無い。
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江戸中期に採掘されていた「龍源寺間歩」は内部公開されている唯一の間歩。
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中に入るとひんやりしていて気持ちいい。
公開されているのは入口から150m程度。その先の
坑道は崩落の危険があるため立ち入り禁止になっており、新しく掘られた連絡通路で、山の向こう側の栃畑谷の出口へと抜けられるようになっていた。 -
龍源寺間歩のところどころには支坑がいくつもあった。
腹ばいでしか進めないような小さなものが多く、壁や天井にノミの跡が残る。
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いたるところに間歩が口を開いている。
子供(たぶん兄弟)が一生懸命、ぽっかり開いた真っ暗な穴をのぞいていた。
大人ですら入ってみたい衝動に駆られる穴。子供はもっと入りたいんだろうと思う。 -
間歩の中は、暗闇と粉塵と油煙に覆われていたそう。崩落の危険や、湧き出てくる地下水とも戦いながら、酸素の少ない狭い暗闇で労働者達は働いていた。やっぱり採掘量のノルマもあったそう。
そんな厳しい環境下では、労働者の平均寿命は短く、30歳まで生きることが出来たら長寿のお祝いをしたらしい。 -
龍源寺間歩の出口から歩いて5分ほど。急勾配の長い石段の上に、佐毘売山神社(さひめやまじんじゃ)がある。
この神社は鈩(たたら)の守り神、金屋子神を祀っている。銀山で働く鉱夫たちの間では「山神さん」と呼ばれて親しまれていた、全国一の規模の山神社。
現存する建物は1819年に再建されたもの。
薄暗い木立の中、まっすぐ続く苔むした石段が魅力的。 -
神社の参道の脇に見える集落跡。
銀山開発に伴い造成した平坦地が階段状に連なり、石垣が残る。
銀山都市として鉱山労働者、武士、商人、手工業者
など多種多様な人々が居住した地区。積み重なる古い石垣が、往時の賑わいを物語っていた。 -
墓所へと続く苔むした石段。ここに観光地の気配は無い。
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銀山川沿いの遊歩道には、のどかな景色が続く。
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遊歩道を少しそれ、ゆるい坂を上っていくと右手に「清水谷製錬所跡」がある。
明治に建設された製錬所の遺構。当時のお金で20万円(現在の20余億円)もの巨費を投じて建設したが、わずか1年半で閉鎖。
現在は草に埋もれており、梅の木が植えられていた。
石垣の奥には、トロッコ跡も残っているそう。 -
道沿いには崩れた石塔が…。
ここにも時間の流れを感じる。 -
銀の精錬を行っていた下河原吹屋の跡。
発掘により見つかった、鉱石を砕いた要石、作業場、建物の礎石などの周りに雑草が生い茂り、花を咲かせていた。
この時期の旅行は何処に行っても花があるのが嬉しい。 -
縁側や軒先にも花が飾られていたりして、穏やかな雰囲気の町並み。
地元の人の心遣いが光る。 -
大森は銀鉱山の外郭町として発達した町で、きっちりと区画整理された城下町とは違い、武家、商家、寺社などが混在して建っている。
古い町並みが見直され、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、往時の雰囲気を壊さないように現在でも古い建物を活かした暮らしが営まれている。
人口は最盛期で20万人、100余りの社寺を抱えていたものの、銀山閉山から一世紀を経た現在の人口は500人程度。当時の大阪の人口が28万人程度とのことなので、この山間の町はとてつもなく賑わっていたのだろう。 -
保存地区となり、規制の網をかけられることに対して一部の人の間には抵抗もあったそう。
家の修繕に規制があったり、自販売機を撤去したりと、地域の人々の苦労と努力の上に成り立っている町並み。 -
大森のほぼ中心部にある「観世音寺」。
ここの石段を登ると→ -
→赤茶色の石州来待瓦で葺かれた、大森の町並みが見渡せる。
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昼は「中村製パン」でパンを買い、歩き食い。
道路の向かい側にはベンチに座って食べれるよう、屋根付きのスペースが用意されていた。
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たばこ屋の店先や、床屋の内装も古いまま残され、郵便局や銀行も古い木造建築となっている。
自販機やガスボンベは街並みの景観になじむよう、木の枠で囲われて置かれているものもあった。 -
大森のはずれにある「勝源寺」の山門。
ツツジがきれいだった。 -
古びた質感の雑貨を売っていた「河童屋」の軒先。
鄙びた町並みの中には、ギャラリーや鉄のオブジェが違和感無く溶け込んでいる。 -
古民家を改装した「群言堂」。
写真の中庭を囲むように部屋があり、それぞれ雑貨や服、食器などを売っている、店内にはカフェもあった。
“群言堂”とは「たくさんの人それぞれが好きなことを言いながらも影響し合って、一つの良い流れ、方向性をつくっていく」という考え方を表現した言葉だそう。 -
羅漢寺の川を挟んだ向かい側の、岩盤の斜面にある石窟。
写真右下の木戸の向こうに五百羅漢が並ぶ。
五百羅漢は、銀山での過酷な労働などで亡くなった鉱夫らの供養や安全のため、多くの人の寄進により、20年以上の歳月を掛けて彫像され、明和3年に完成した。羅漢像ははいずれも彩色されており、それぞれが笑ったり、照れたりと個性的な表情をしていた。 -
柔らかい岩肌の洞窟は一部が崩れかけていて、鉄骨を組み、仏像を守っていた。
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石窟の前に架けられていた3基の石の反り橋は、羅漢寺創建当時のもの。
実はこの橋が、石見銀山で一番見たかった場所。魅力的な姿の石橋と石窟。
AM12:30
温泉津温泉へと出発した。
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この旅行記へのコメント (1)
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- たらよろさん 2007/07/19 23:42:10
- はじめて、しっかり見ました
- こんばんわ♪
はじめまして、、、
石見銀山、世界遺産に登録されましたね。
初めてどのようなところなのかぬしま汽船さんの旅行記で確認させていただきました。
すご〜く興味深い所ですね。
深い苔もすごいしっ。
私も機会見つけていって来たいと思いました。
これからも宜しくお願い致します。
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