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-ウクライナ・モルドヴァ イコン紀行 --&#8211;<br />【期間】2003年4月26日〜2003年5月5日<br /><br />【略号】<br />BritishAirways(BA)AirFrance(AF)UkraineInternational(PS)TaromRomaniaAirline(RO)成田 (NRT)London(LHR)Paris(CDG)Kiev(KBP)Lviv(LWO)Bucharest(OTP) ユネスコ世界遺産(WCH)<br /><br />【行程】 <br />4/26 (土) BA006 NRT10:55-15:15x.LHR<br />         AF1971 LHR17:00-19:10CDG<br />4/27 (日) AF2652 CDG10:05-14:10KBP<br />4/29 (火) PS146 KBP10:00-11:30LWO<br />          急行LVOV22:52---<br />4/30 (水)  --06:25 Chemivsti&#8212;12:06 Suceva Nord<br />5/2 (木)  RO710 IAS07:00&#8212;08:05OTP<br />5/3 (金)  AF1089 OTP07:00-09:10CDG	<br />5/4(土)AF1670CDG13:00-13;10x.LHR<br />BA007LHR15:45&#8212;<br />5/5(日)  	---11:25NRT<br /><br />【費用】<br />1. NRT&#8212;LHR  @JL/BA特典航空券<br />2. LHR-CDG-KBP//OTP-CDG-LHR@JL/AF特典<br />3. KBP-LWO @280ゴブリナ  /PS普通運賃<br />4. IAS-OTP @US$102 RO普通運賃<br />5.  LVOV/ukraine&#8212;Suceva/Romania @夜行寝台<br />6.  4/30-5/1 Moldova車チャーター&ガイド@US$345<br />7.  5/1  Bucarest車チャーター&ガイド@US$153<br /><br />【宿泊費】 <br />Minerva Hotel  @US$104<br />Ukraine Hotel   @US$69<br />Letitia House   @US$38 二食付<br />Hotel Moldova   @US$48<br />Sky Gate Hotel  @US$153<br /> <br /><br /> イコンに出会ったのは25年前のシチリア島だった。タオルミナの街で覗いた骨董屋で、始めてそれに「手を触れた」。 35cm x 25cm 位の分厚い木板に聖ニクラウス(サンタクロースのモデル)が描かれた絵で、手にすると、ずしりと重かった。聖人の周囲は沈んだ光沢を持った純銀の覆い(オクランド)が被さっていたからだった。 身分証明書のように、真正面を見据えているだけの単純な肖像画なのに、その小さな老人の表情に私は惹かれた。<br /><br />静かで、凛として、僧衣に眼を捉われなければ、<br />俳優で云うと、加藤嘉や大滝栄治のような老人がただ、そこにいて、じっと私を見ているようだった。 後で知った事だがイコンはその描き方に綿々と受け継がれてきた規範があって、画家が創意でその規範を変えることは許されていない、、しかし、その店にあった聖人たちは一人一人、様々な感情を持って、こちらを視ていた。慈愛の眼もあれば、峻厳にこちらを問うているのもあり、人生の様々な道筋を見据えているようだった。<br /> それまで美術品など買ったことも無かったが、もう2度と、こんな絵に出会えないと、感じて、私はそのイコンを買った。その時からイコンへの旅は始まった。ギリシアから始まり、ロシア、ブルガリア、シリヤ、シナイ半島からパレスチナ、そして南米に至るまで、その遍歴はまさに小アジアに派生した初期キリスト教がギリシアを経て、地中海世界、スラブ世界、そして新世界にまで広がっていった伝道の足跡を辿る旅でもあった。<br /><br />2003年春 私は旅立った。 <br />「そのイコン」を見るために。<br /><br />カルチェラタンの宿<br />成田からパリへ 26 Apr<br />久しぶりのパリだった。 RERで空港からサンミッシェルまで出て、カーデイナルリモワーヌに降り立った。今まで泊まるのは殆どサンジェルマン界隈だったが、久しぶりに、カルチェラタンに泊まる。<br />隣に、小さいシネマテークがあり、フランク・キャプラの映画に長い列が並んでいた。その年代も風情も様々な人々に、パリという町の懐の深さを感じた。<br /><br />キリル文字の世界へ<br />パリからキエフへ 27 Apr<br />朝早く発って、ヨーロッパの西から東へ5時間飛びウクライナのキエフに着いた。さてこれから、ウクライナで、一番神経を使わねばならない局面が始まる。ウクライナは「入りは良い良い、出るのは怖い」で、通関の落し穴が隠されているのだ。携帯品や手持通貨をキリル文字の書式に詳細に記入しておかないと出国時に税関職員から強請りや拘束にまで至る危険性が待っているのだ。カウンターで居並ぶ税関吏の内、一番誠実そうな列に並んだ。彼は丁寧に、私の記入の不備を直してくれた。着陸から、ここまでで2時間経過していた。以前、例会でこの危険性を報告された向坂さんに感謝を覚えて、空港を出た。「寒い!」まわりの人達はまだ分厚い外套を着ている。すぐに白タクシーの引き合いの洗礼だ。その雑踏の中を掻き分けて、バス乗場を捜した。しかしキリル文字!少しは英語表記があるかと期待したが、B級トラベラー向けには、そんな優しさは用意されていなかった。たぶん、これでいいんだろうな、、と、その乗合バスに乗りこむ。最新版のロンプラでさえも、多くのホテル情報が変わっていて、予約したホテルも、その場所には無かった。同乗していた3カ国語を操る外交官のお陰で、そこから相乗りタクシーで、ネザレジノスティ広場の前に聳え立つウクライナ・ホテルに着いた。<br /> <br />ボルシチは酸っぱかった<br />今夜は気張って、ロシア貴族御用達だった創業1833年のレストラン・ホスティニー・ドゥヴィールに行った。キリル文字と英語の通じない異国で、タクシーを使わずに1時間半もかけて、目的地に辿り着いたのも、食への執着心からだろう。ウクライナで最高の店はがらんとしていた。前夜は15ユーロの慎ましい中華定食だったので、分不相応の注文をした。前菜にベルーガ・キャビア、ウクライナ風のボルシチ、それにコサック風串焼きを頼んだ。赤キャベツを一杯入れて、真っ赤に染まったボルシチスープの酸っぱさに、はるばる遠くに来たなあと思った。<br /> <br />食堂は暗かった<br />キエフ 28 Apr<br /> 朝4時に起きる。テラスに出て、北国の遅い夜明けをゆっくりと眺めた。11階の部屋から遠い寺院の玉葱型の尖塔に少しづつ朝日が当たっていくのが見える。7時になったので2階の食堂に降りた。この階、停電?と間違えるほど、真っ暗だった。眠そうな給仕が運んできた朝食はウクライナ経済を象徴するような皿だったので、前夜買った缶詰のイクラを黒パンに載せて食べた。 <br /><br />高級ホテルの使い方<br /> ホテル前から続く大通りを歩いて、Premier Palace Hotelに行った。Webで予約をして、その確認書をバウチャー代わりにウクライナ大使館からビザを発行して貰った恩義あるホテルだ。流石にキエフ最高のホテルだけあって、サービスという西欧的な概念を知っているコンシェルジェが、宿泊客ではない者の質問にも丁寧に答えてくれた。一番の骨董店や旬のレストラン、いろんな実勢価格、それらは、どんな街に行っても一番信頼すべき情報だ。<br /><br />復活祭をルーシの都で祝う<br /> コンシェルジェからの入れ知恵で多少自信が付いたので、白タクを拾って、ペチェールスカ大修道院 (WCH)に行った。この日は復活祭にあたり、この広大な寺院の、あちこちで主の復活を祝う典礼の聖歌が響いていた。復活祭はその年により期日が前後する。GWの期間と、その日程が重なるのは極めて稀だったので、数年前からの計画であった。<br /> 正教(オーソドキシー)を新教の信者から見ると、特異なのは聖書の不在であろう。それを補足するために聖歌がありイコンがある。いや、その逆で、それらの聖像を介しての祈りの方が、聖書の言葉だけで思念するよりも、この土地の人々のエートス(悟性)に合ったという事なのだろう。聖三位一体教会、ウスィフスヴィヤツカ教会なども美しかったが、ビックリしたのは、トラベズナ教会にある柱楼やクーポラだった。まるでクリムトが描いたようで、造営した職工達の類まれな美意識に驚嘆した。<br /> <br /><br /> その感動は続いて訪れたソフィア大聖堂 (WCH)<br />でより深まった。イスタンブールのハギア・ソフィア大聖堂から、名を採られた、この聖堂の、見ものは、クーポラを覆う内部のモザイク画と回廊を覆うフレスコ画だろう。回廊の壁や天井の絵の、ひとつひとつに驚きがあり、まる1日このフレスコ画を見ていても飽きない位だ。聖人達の表情にも、ふくよかな気品が感じられる。フランス・オータンのサン・ラザール聖堂のタンパンに描かれたロマネスクの聖人達とシンパシーを感じるのは私だけであろうか? 大地の恵みの豊饒なウクライナと、これも実り多いブルゴーニュとの比較文化を試みるのも面白いかも知れない。<br /> <br /> <br />アンドレイ坂での掘出物<br /> アンドレイ教会は女帝エカテリーナのキエフ来訪を記念して建てられた寺院で、女帝の趣向からイタリアの建築家を招いて18世紀に建てられたバロック様式の教会だ。内部は大きな窓から差込んだ陽光に内陣の装飾が踊るように輝いていて、ビザンチン様式の寺院とは大違いで、エカテリーナ時代の西欧化志向が如実に感じられた。小高い丘から、なだらかに下る、この一帯はポディルと呼ばれ、多くの文化人や芸術家が瀟洒な住まいを建てていた。300m位続く坂の両側には多くの露天商が立並び、様々な民芸品や骨董を売っていた。私は、ここで19世紀のイコンを3点とバルナック型のライカを安価で手に入れた。 収穫は喜びだったが、国境をどう越えるかという心配を同時に抱え込んだ。<br /> <br />ハプスブルグ帝国の東端へ<br />キエフからリビヴへ 29 Apr<br />前日乗った真面目な運転手に朝7時に来て貰い空港に行った。飛行機は旧ソ連製の2発のプロペラ機で、乗客は2人だけ。剥き出しの機体にただ体が縛られて輸送された感じで、今まで乗ったロシアの国内線では1番のスリリングなフライトだった。<br /> <br /><br />LVIVあるいはLVOV<br />ウクライナ第2の都市であるリヴィブは、キエフの西400km、ポーランド国境に近い。文化的にはハプスブルグ帝国の東端としての歴史が長く、交易の要所として栄えた町だった。ウクライナ・カソリックという正教とは異なる宗派の総本山もあり、ロシアへの独立心が強い。ウクライナ語が日常語で、ロシア語を使おうならケンモホロロだ。(とは言え、どちらも話せなかったが)そんな空港についてまずビックリしたのが空港のビルの優雅さだった。ミニバスで町に向かった。(タクシーはまだ怖いから使わない)気温は35度!キエフでの、凍えるような寒さが別世界のようだ。乗客はみなオーバーを脱いで半袖姿。初めての街、どこがどこだか判らない。たぶん、終点は街の中心だろう、と思ってる内に、目抜き通りをどんどん過ぎて、バスは町外れ(って思えるような)に向かってき、終には高島平みたいな巨大団地に着いてしまった。 運転手は始めから、この言葉の通じない外国人からは復路の運賃など請求する気はないようだ。彼が休憩する間、私は民の釜戸の風情を観察しながら、その道草を楽しんだ。復路はロンプラの地図と照合して、スヴァボーディ大通りと思われる辺りで降りて、Grand Hotelでバックパックを預かって貰らってから町を歩いた。<br /> <br />西ウクライナの美意識<br /> 市内を路面電車が走り、通りを散歩する人の表情からも、この町がとても過しやすい事が分る。大聖堂を見てから、豪壮な商人達の屋敷が並ぶリノック広場 (WCH)に行った。贅を尽くした屋敷の内部が有料で公開されていて秋田・角館のようだ。その一つ、コルニャクト邸の中庭ではカフェがあり、室内楽を聴きながら一服が出来た。<br /><br />国立博物館 珠玉のイコンたち<br /> 国立博物館を訪れた。閉館30分前で、帰宅を急ぐ館員達に、あと30分だけよ!と言はれ、カメラと荷物を預けた。撮影禁止、カタログも売っていない、この博物館で見たイコンは驚天動地の作品ばかりだった。イエス、聖ゲオルグ、三聖人、聖ニクラウス、どの絵も卓抜で伸びやかだ。 斬新な構図から聖者の祈りがストレートに視る者を射抜いて来る。 いいイコンには「表情」がある。外見は規範を守りながらも、画家(修道士)は聖人の心をどう表そうかとの1点に全力投球する。だから、いいイコンには一人一人の表情がある。ジョットがフランシスコ派の修道士達との出会いで、聖人達の表情に息を吹き込んだように、この土地の修道士達も、そんなのびやかな精神風土で、これらの傑作を描いたのだろうか?<br /> <br />夜行二等寝台で国境越え<br />リビヴからVadul Siretへ<br /> リヴィヴ駅に行き、ブカレスト行きの国際列車の寝台車の切符を購入した。旧ソ連圏ではどんな切符を買うのにも、タフな忍耐心が必要だが、3時間もかけて駅舎を出たときには流石にグッタリと疲れた。<br />途中、若い警官に職務質問されたが、これも予習していたので、その上司を呼び、落着いて対処した。<br />KIEV-LVIV&#8212;Suceva&#8212;Bucharest&#8212;Sofia間を3日かけて走る、この鈍行列車は両国関係の悪いウクライナとルーマニアを結ぶ唯一の越境ルートだ。目的地のモルドバ地方はウクライナに近いルーマニア北東にあるため、この路線を国境越えのルートにした。鉄道内での盗難の多さや、辺境の税官吏達の腐敗振の問題もあり、キエフの旅行代理店は、ブタペスト経由の空路を強く進言してきた。 <br />しかし、入国時の税関での印象で、役人全部が腐敗していたら国など成り立つはずもなく、不断の注意と危機管理で、切り抜けられると判断した。そして、万が一、国境にて拘束された際のルーマニア側スタッフとの緊急連絡手段をも決めていた。<br /> アジアからの旅行者のそんな杞憂を抱えて、汽車は22:52ゆるゆるとLVIV駅を出発した。<br /><br />ワシリーとゴルゴーツキー<br /> 4人用のコンパートメントに入ると先客2名が既に酒盛りを始めていた。「ドーブルィヴェーチェル」と挨拶をして、互いに自己紹介をした。彼等は自家製のピクルスや肉の酢漬けを肴にドブロクのようなお酒で盛上っていた。私にも食え食え、、と薦めるが、お腹がいっぱい、とジェスチャーして、代わりに日本のナッツやおかきを薦めた。肉でベトベトになった手を見かねてAir Franceで貰ったウエットタオルを渡すと、香りを嗅いで、感心していた。彼等はルームメイトのために、自分達の事や、ベッドの作り方を教えてくれた。すでにパジャマの上に分厚いセーターを着ているので、明け方には寒い?と訊くと、ダーッという。新参者に下の寝台を譲ってくれ、自分達はウクライナ側の国境Chemivstiで降りるので、先に別れを言っておくという。一夜の宿の隣人達がかくも心優しき友だったので、安堵して私もいつしか眠りについていた。<br /> 04:20 Chemivstiに着いた。ワシリー達は隣人を起こさないように電気も付けないで身支度をしていた。何とデリカシーを持った人々かと感心した。ここで、鈍行列車と国際線列車を切り離した。ルーマニア鉄道とはレールの幅が違うために、客車をクレーンで持ち上げ違う台座にはめ換えていた。作業に2時間を要してから、列車は06:25出発した。<br /><br />税関検査とSARS<br />Vadul SiretからSuceva Nordへ 30 Apr<br /> 07:04 Vadul Siret着、いよいよウクライナで最も緊張の時がやってきた。国境駅にて、まずパスポートコントロール、そして税関検査がやって来た。<br /> 係員はまず税関申告書を配布して、ウクライナ語で手短な指示をしている。コンパートメントのあちこちで外国人旅行者がトラブッテいた。私の番が来た。係官は入国時に詳細な申告をして認印を得ている書類を一瞥してあっさりとスタンプしてくれた。陸路の越境という一番手薄な検査状況だったが、事前の準備で事無きを得たのに、改めて情報収集の大事さを覚えた。<br /> それから列車はルーマニア側に入り、こちらは簡単なパスポート〜税関検査があった。このローカル線で欧米人もとよりアジア人など大層珍しく、日本のパスポートを見せた途端、役人が「ヤーパンが乗っている」と大声で呼んだ。すかさず検疫の女性がマスクをして現れ、「アーン」と喉を調べた。その時の、状況からはSARSは東洋のペストのように思われていたのだろう。列車はまた延々と続く馬鈴薯畑を進んだ。途中から、朝の耕作をする人がだんだん見えて来るが、みんな馬を耕作機につけて畑を耕している。自動車が走っているのは殆ど見られない。<br /><br />Visit Romania<br /> 12:06 Suceva Nord駅到着 プラットホームの先に「 MrYashima」のボードを持ったマリアンさんを見つけた。彼はVisit Romaniaというブカレストの旅行代理店が手配してくれた通訳兼運転手で、これから2日間モルドバでお世話になる人だ。お昼だったので、両替をしてからスチェバで一番のレストランに行く。 Romania(ローマ語を話す人々)は名前から判るようにイタリアと言語、民族性、料理等々、深い繋がりを持っている。 それゆえレストランの雰囲気がイタリアの田舎に来たようなのだ。私のブロークン・イタリアーノでも何とか判ってくれた。 料理はブオノ! まず野菜が旨い。豚肉が旨い。鳥が旨い。パスタもアルデンテで大満足、、そしてクレジット・カードでも払えた。旧ソ連圏から東欧に移動したんだというのが如実に感じられた。<br /> <br />五つの修道院 (WCH)<br /> ルーマニアは近世、3つの国が統合して出来た国だ。北からモルドバ、ハンガリー領だったトランシルバニア、それにワラキアだ。この旧モルドヴァ公国の内、Sucevaを中心にした一帯をブコヴィナ地方といい、特筆すべき寺院が多く集まっている。その中でも世界遺産にも認定された代表的な五つの修道院を巡るのが今ルーマニア観光のハイライトになっている。その特色は、礼拝堂の外壁に描かれたフレスコ画。オスマントルコの支配下、抵抗の心の支えとなったのはキリスト教の正義で、歴代の領主達は戦果を挙げる度に神への御恩として礼拝堂を寄進した。そして、人々に恩寵をもっと知らしめるため、建物内部だけでは足りなく、寺院の外壁にまで聖書の題材を描かせた。 いわばスペインに於けるレコンキスタと同様に、憂国的な王の意志から、これらの宗教美術が生まれた。しかしその脅威が無くなったあと、500年間の風雪で20年前には朽ち果てるまでなっていたのを、わずかな修道女たちの尽力によって1993年にユネスコ世界遺産に指定された。<br /><br />ヴォロネッツ修道院<br /> それでもブコヴィナ地方は、まだまだ田舎、人々の主要な足は馬車だ。土の道を荷台に家族を乗せて、畑に向う光景にほっとする。そんなスローライフの土地だから、バスは日に1~2本しかない。それで、英語の出来る運転手&amp;車をチャーターした訳だ。 始めにフモール修道院を見てから、夢にまで見た、この修道院に到着した。<br />NHKハイビジョン特集「神が生きる大地」で紹介されたあのシスター・ガブリエラが、今日も観光客に伊語、仏語、英語を駆使して、壁画の説明をしていた。ボロネッツの青と呼ばれる、その鮮やかな壁面に近寄ると、聖人から罪人まで、一人一人のドラマが目に飛び込んできて、これが描かれた500年前の戦渦の轟音さえも聞こえてくるようだ。無名のミケランジェロ達が心血を注ぎ、東欧の辺境に、システィナ礼拝堂にも匹敵するような傑作を残していた事実に、我々の世紀はようやく気が付き始めた。<br /> <br /> <br />民宿LETITIAに泊まる<br /> この日はSuceva郊外のレテツィア家に民宿した。大きな2階建ての家で、ゲストルームが2部屋あり、その日は他にフランス人の親子が泊まっていた。家族は農業をしてるお爺ちゃん、宿の女将のお婆ちゃん、エッグ・アーティストの長女、それに英語が少し話せる次女という構成で、隣の家のおばちゃんなんかも始終台所で井戸端会議なんかしていた。長女からイースター・エッグ作りを教えて貰えるのが、ここの売りなのだが、前夜、あまり寝てなかったので、残念ながら辞退した。夕食は前菜,スープ,サラダ、メイン、デザートと並び、自家製の果実酒や蒸留酒なども付くご馳走だった。全ての皿にもお婆ちゃんの「おふくろの味」がこもっていて、美味しく、大満足の夕食だった。<br /> <br />スチェビッツァ修道院<br /> SucevaからIASIへ 1 May<br /> 一夜ではあったが、ルーマニアの田舎の家庭に触れて、とても良かった。お爺ちゃんと別れの握手をした時、がっしりとした骨太の手に、土を一生耕してきた農夫の手応えを感じた。 お土産に差上げたデジタル世界時計と昆布茶、おじいちゃんはどう思ったかな、、いつまでも手を振っている彼等をバックミラーに見ながら考えた。それから1時間かけて、スチェビッア修道院に着いた。広大な田園の中に要塞のように建っていた。五つの中では、一番大きく、かつ今でも多くの修道士達が居住している現在進行形の祈りの場だ。それ故、寺院の懐を自給自足で支えるため、多くのイコンが作られていた。中でもユニークなのがガラス版に彩色されたイコンで、画家の自由な表現が許されていた。私はそこで聖母像を買った。オレンジ色の花に囲まれたふくよかな表情をしたマドンナで、A.ルソーがメキシコの花市場で描いたようなファンタジーなイコンだった。<br /> <br />モルドバ公国の栄華<br /> IASI:ヤシはモルドヴァ公国の首都としてのみならず、長らくルーマニア文化の都として君臨した。文化宮殿はメーデーのため、閉館していたのが、三聖人教会では感謝祭の典礼に立ち会う事が出来た。昔、北スペイン・ブルゴス郊外のサント・ドミンゴ・シロス修道院でグレゴリオ聖歌による典礼に参加した事があった。それと比較すると正教の典礼はポリフォニーではなく、各司祭の単声で構成されている点で、カソリックとは全然違い、ソリストの技量が重要になってくる。この日は音楽録音のためか、平服の若い音楽家達が神父と共に楽譜を使って「歌って」いた。とても美しい典礼で、音楽として感動を覚えたが、イコンと同じように、こうした形を通しての、祈りへ関る姿がいまも東方世界では日常に根付いている。 目には見えない、精神世界の国境、こんな形で知るのも、旅の面白さだろう。<br /> <br />Tarom Romania航空でひとっ飛び<br /> IASIからBucharestへ 2 May<br /> 翌日、ヤシから国内線でブカレストへ移動した。Visit Romaniaのダンさんが笑顔で出迎えてくれた。<br />外交官だった、父上の赴任で、港区の中学校に通っていた好青年で、麻布十番での少年時代を懐かしそうに日本語で話してくれた。かつて「バルカンの小パリ」と謳われたブカレストはチャウシェスクの暴政で、何の面白みも無い都になってしまっていた、そんな町に1泊を決めたのは、ある目的からだった。<br /> <br />ブカレストの骨董巡り<br /> 空港ホテルに荷物を置いてから、市内に向った。<br />農村博物館はルーマニア各地から農家、教会、水車など297点ものが集められ、広大な園内に展示されている野外博物館だ。マラムレッシュ地方の「黒い教会」もあり、わずかな時間で、フォークロアの宝庫である、この国の魅力を知ることが出来た。それから、国立美術館、ルーマニア・コレクション美術館を矢次早に見た。昼食は「ビールいっぱいの馬車」という老舗のレストランで食べたが、ここのボルシチが今までで最高だった。それから、そのある目的にかかった。 市内の骨董店を全て、回ってイコンを見つけることだった。Web,ロンプラ等を調べて、周ったが、逸品にはなかなか出会えなかった。夕刻まで捜して、もう諦めかかっていた時、期待しないで入った店で、これはという作品に出会った。捜すという行為には、仕事でもプライベートでも、最後に思わぬドラマがあると痛感した。 ダン君は私の華僑的な注文にも淡々と堪えてくれた。そして店主の笑顔が涸れるまで、交渉して18世紀と19世紀の2枚のイコンを私の手へと導いてくれた。 帰路、Unirea百貨店のビンテージ・ワイン店でMurfatlarの稀少品を入手した。<br /><br />パリへ<br />ブカレストからパリへ 3 May<br /> イコン6点、稀少ワイン3本、アンティーク・ライカ1点、聖ニクラウスの木彫、聖人達のマトリョーシュカ、を入れた重さ25Kgのバックパック、コンピューターとビデオとデジカメが入ったサブバックを抱えて、私はAir France機に乗り、西欧へと飛んだ。 宿に着き、重たいバックパックから出したイコン達が無事なのを確かめてから、私はテラスに出て、ソルボンヌの屋根を遠くに眺めながら、隣で買ったクレープとシードル酒でパリの昼食を味わった。午後はアレジア通りで洋服を物色し、郊外のラ・バレッに行って、食材を買い、夜はソルボンヌの裏のポリドールに行き、未来のサルトル&ボーボワール達と共に、パリの「おふくろの味」を味わった。<br /> <br /><br />翌朝は早起きして、歩いて10分のムフタール通りに行った。新鮮な惣菜を買い、保冷ケースに入れて、翌日の我家の食卓を飾るようにした。こんなことが出来るのもカルチェラタンに泊まった余得であろう。最後に、今、焼き上がったのばかりのクロワッサンを頬張りながら、私は帰路へと着いた。<br /> <br /><br />

神が生きる大地

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2003/04/28 - 2003/05/05

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bloom3476

bloom3476さん

-ウクライナ・モルドヴァ イコン紀行 --–
【期間】2003年4月26日〜2003年5月5日

【略号】
BritishAirways(BA)AirFrance(AF)UkraineInternational(PS)TaromRomaniaAirline(RO)成田 (NRT)London(LHR)Paris(CDG)Kiev(KBP)Lviv(LWO)Bucharest(OTP) ユネスコ世界遺産(WCH)

【行程】 
4/26 (土) BA006 NRT10:55-15:15x.LHR
AF1971 LHR17:00-19:10CDG
4/27 (日) AF2652 CDG10:05-14:10KBP
4/29 (火) PS146 KBP10:00-11:30LWO
急行LVOV22:52---
4/30 (水) --06:25 Chemivsti—12:06 Suceva Nord
5/2 (木)  RO710 IAS07:00—08:05OTP
5/3 (金)  AF1089 OTP07:00-09:10CDG
5/4(土)AF1670CDG13:00-13;10x.LHR
BA007LHR15:45—
5/5(日) ---11:25NRT

【費用】
1. NRT—LHR @JL/BA特典航空券
2. LHR-CDG-KBP//OTP-CDG-LHR@JL/AF特典
3. KBP-LWO @280ゴブリナ  /PS普通運賃
4. IAS-OTP @US$102 RO普通運賃
5. LVOV/ukraine—Suceva/Romania @夜行寝台
6. 4/30-5/1 Moldova車チャーター&ガイド@US$345
7. 5/1 Bucarest車チャーター&ガイド@US$153

【宿泊費】 
Minerva Hotel  @US$104
Ukraine Hotel @US$69
Letitia House @US$38 二食付
Hotel Moldova @US$48
Sky Gate Hotel @US$153


 イコンに出会ったのは25年前のシチリア島だった。タオルミナの街で覗いた骨董屋で、始めてそれに「手を触れた」。 35cm x 25cm 位の分厚い木板に聖ニクラウス(サンタクロースのモデル)が描かれた絵で、手にすると、ずしりと重かった。聖人の周囲は沈んだ光沢を持った純銀の覆い(オクランド)が被さっていたからだった。 身分証明書のように、真正面を見据えているだけの単純な肖像画なのに、その小さな老人の表情に私は惹かれた。

静かで、凛として、僧衣に眼を捉われなければ、
俳優で云うと、加藤嘉や大滝栄治のような老人がただ、そこにいて、じっと私を見ているようだった。 後で知った事だがイコンはその描き方に綿々と受け継がれてきた規範があって、画家が創意でその規範を変えることは許されていない、、しかし、その店にあった聖人たちは一人一人、様々な感情を持って、こちらを視ていた。慈愛の眼もあれば、峻厳にこちらを問うているのもあり、人生の様々な道筋を見据えているようだった。
 それまで美術品など買ったことも無かったが、もう2度と、こんな絵に出会えないと、感じて、私はそのイコンを買った。その時からイコンへの旅は始まった。ギリシアから始まり、ロシア、ブルガリア、シリヤ、シナイ半島からパレスチナ、そして南米に至るまで、その遍歴はまさに小アジアに派生した初期キリスト教がギリシアを経て、地中海世界、スラブ世界、そして新世界にまで広がっていった伝道の足跡を辿る旅でもあった。

2003年春 私は旅立った。 
「そのイコン」を見るために。

カルチェラタンの宿
成田からパリへ 26 Apr
久しぶりのパリだった。 RERで空港からサンミッシェルまで出て、カーデイナルリモワーヌに降り立った。今まで泊まるのは殆どサンジェルマン界隈だったが、久しぶりに、カルチェラタンに泊まる。
隣に、小さいシネマテークがあり、フランク・キャプラの映画に長い列が並んでいた。その年代も風情も様々な人々に、パリという町の懐の深さを感じた。

キリル文字の世界へ
パリからキエフへ 27 Apr
朝早く発って、ヨーロッパの西から東へ5時間飛びウクライナのキエフに着いた。さてこれから、ウクライナで、一番神経を使わねばならない局面が始まる。ウクライナは「入りは良い良い、出るのは怖い」で、通関の落し穴が隠されているのだ。携帯品や手持通貨をキリル文字の書式に詳細に記入しておかないと出国時に税関職員から強請りや拘束にまで至る危険性が待っているのだ。カウンターで居並ぶ税関吏の内、一番誠実そうな列に並んだ。彼は丁寧に、私の記入の不備を直してくれた。着陸から、ここまでで2時間経過していた。以前、例会でこの危険性を報告された向坂さんに感謝を覚えて、空港を出た。「寒い!」まわりの人達はまだ分厚い外套を着ている。すぐに白タクシーの引き合いの洗礼だ。その雑踏の中を掻き分けて、バス乗場を捜した。しかしキリル文字!少しは英語表記があるかと期待したが、B級トラベラー向けには、そんな優しさは用意されていなかった。たぶん、これでいいんだろうな、、と、その乗合バスに乗りこむ。最新版のロンプラでさえも、多くのホテル情報が変わっていて、予約したホテルも、その場所には無かった。同乗していた3カ国語を操る外交官のお陰で、そこから相乗りタクシーで、ネザレジノスティ広場の前に聳え立つウクライナ・ホテルに着いた。

ボルシチは酸っぱかった
今夜は気張って、ロシア貴族御用達だった創業1833年のレストラン・ホスティニー・ドゥヴィールに行った。キリル文字と英語の通じない異国で、タクシーを使わずに1時間半もかけて、目的地に辿り着いたのも、食への執着心からだろう。ウクライナで最高の店はがらんとしていた。前夜は15ユーロの慎ましい中華定食だったので、分不相応の注文をした。前菜にベルーガ・キャビア、ウクライナ風のボルシチ、それにコサック風串焼きを頼んだ。赤キャベツを一杯入れて、真っ赤に染まったボルシチスープの酸っぱさに、はるばる遠くに来たなあと思った。

食堂は暗かった
キエフ 28 Apr
 朝4時に起きる。テラスに出て、北国の遅い夜明けをゆっくりと眺めた。11階の部屋から遠い寺院の玉葱型の尖塔に少しづつ朝日が当たっていくのが見える。7時になったので2階の食堂に降りた。この階、停電?と間違えるほど、真っ暗だった。眠そうな給仕が運んできた朝食はウクライナ経済を象徴するような皿だったので、前夜買った缶詰のイクラを黒パンに載せて食べた。 

高級ホテルの使い方
 ホテル前から続く大通りを歩いて、Premier Palace Hotelに行った。Webで予約をして、その確認書をバウチャー代わりにウクライナ大使館からビザを発行して貰った恩義あるホテルだ。流石にキエフ最高のホテルだけあって、サービスという西欧的な概念を知っているコンシェルジェが、宿泊客ではない者の質問にも丁寧に答えてくれた。一番の骨董店や旬のレストラン、いろんな実勢価格、それらは、どんな街に行っても一番信頼すべき情報だ。

復活祭をルーシの都で祝う
 コンシェルジェからの入れ知恵で多少自信が付いたので、白タクを拾って、ペチェールスカ大修道院 (WCH)に行った。この日は復活祭にあたり、この広大な寺院の、あちこちで主の復活を祝う典礼の聖歌が響いていた。復活祭はその年により期日が前後する。GWの期間と、その日程が重なるのは極めて稀だったので、数年前からの計画であった。
 正教(オーソドキシー)を新教の信者から見ると、特異なのは聖書の不在であろう。それを補足するために聖歌がありイコンがある。いや、その逆で、それらの聖像を介しての祈りの方が、聖書の言葉だけで思念するよりも、この土地の人々のエートス(悟性)に合ったという事なのだろう。聖三位一体教会、ウスィフスヴィヤツカ教会なども美しかったが、ビックリしたのは、トラベズナ教会にある柱楼やクーポラだった。まるでクリムトが描いたようで、造営した職工達の類まれな美意識に驚嘆した。


 その感動は続いて訪れたソフィア大聖堂 (WCH)
でより深まった。イスタンブールのハギア・ソフィア大聖堂から、名を採られた、この聖堂の、見ものは、クーポラを覆う内部のモザイク画と回廊を覆うフレスコ画だろう。回廊の壁や天井の絵の、ひとつひとつに驚きがあり、まる1日このフレスコ画を見ていても飽きない位だ。聖人達の表情にも、ふくよかな気品が感じられる。フランス・オータンのサン・ラザール聖堂のタンパンに描かれたロマネスクの聖人達とシンパシーを感じるのは私だけであろうか? 大地の恵みの豊饒なウクライナと、これも実り多いブルゴーニュとの比較文化を試みるのも面白いかも知れない。


アンドレイ坂での掘出物
 アンドレイ教会は女帝エカテリーナのキエフ来訪を記念して建てられた寺院で、女帝の趣向からイタリアの建築家を招いて18世紀に建てられたバロック様式の教会だ。内部は大きな窓から差込んだ陽光に内陣の装飾が踊るように輝いていて、ビザンチン様式の寺院とは大違いで、エカテリーナ時代の西欧化志向が如実に感じられた。小高い丘から、なだらかに下る、この一帯はポディルと呼ばれ、多くの文化人や芸術家が瀟洒な住まいを建てていた。300m位続く坂の両側には多くの露天商が立並び、様々な民芸品や骨董を売っていた。私は、ここで19世紀のイコンを3点とバルナック型のライカを安価で手に入れた。 収穫は喜びだったが、国境をどう越えるかという心配を同時に抱え込んだ。

ハプスブルグ帝国の東端へ
キエフからリビヴへ 29 Apr
前日乗った真面目な運転手に朝7時に来て貰い空港に行った。飛行機は旧ソ連製の2発のプロペラ機で、乗客は2人だけ。剥き出しの機体にただ体が縛られて輸送された感じで、今まで乗ったロシアの国内線では1番のスリリングなフライトだった。


LVIVあるいはLVOV
ウクライナ第2の都市であるリヴィブは、キエフの西400km、ポーランド国境に近い。文化的にはハプスブルグ帝国の東端としての歴史が長く、交易の要所として栄えた町だった。ウクライナ・カソリックという正教とは異なる宗派の総本山もあり、ロシアへの独立心が強い。ウクライナ語が日常語で、ロシア語を使おうならケンモホロロだ。(とは言え、どちらも話せなかったが)そんな空港についてまずビックリしたのが空港のビルの優雅さだった。ミニバスで町に向かった。(タクシーはまだ怖いから使わない)気温は35度!キエフでの、凍えるような寒さが別世界のようだ。乗客はみなオーバーを脱いで半袖姿。初めての街、どこがどこだか判らない。たぶん、終点は街の中心だろう、と思ってる内に、目抜き通りをどんどん過ぎて、バスは町外れ(って思えるような)に向かってき、終には高島平みたいな巨大団地に着いてしまった。 運転手は始めから、この言葉の通じない外国人からは復路の運賃など請求する気はないようだ。彼が休憩する間、私は民の釜戸の風情を観察しながら、その道草を楽しんだ。復路はロンプラの地図と照合して、スヴァボーディ大通りと思われる辺りで降りて、Grand Hotelでバックパックを預かって貰らってから町を歩いた。

西ウクライナの美意識
 市内を路面電車が走り、通りを散歩する人の表情からも、この町がとても過しやすい事が分る。大聖堂を見てから、豪壮な商人達の屋敷が並ぶリノック広場 (WCH)に行った。贅を尽くした屋敷の内部が有料で公開されていて秋田・角館のようだ。その一つ、コルニャクト邸の中庭ではカフェがあり、室内楽を聴きながら一服が出来た。

国立博物館 珠玉のイコンたち
 国立博物館を訪れた。閉館30分前で、帰宅を急ぐ館員達に、あと30分だけよ!と言はれ、カメラと荷物を預けた。撮影禁止、カタログも売っていない、この博物館で見たイコンは驚天動地の作品ばかりだった。イエス、聖ゲオルグ、三聖人、聖ニクラウス、どの絵も卓抜で伸びやかだ。 斬新な構図から聖者の祈りがストレートに視る者を射抜いて来る。 いいイコンには「表情」がある。外見は規範を守りながらも、画家(修道士)は聖人の心をどう表そうかとの1点に全力投球する。だから、いいイコンには一人一人の表情がある。ジョットがフランシスコ派の修道士達との出会いで、聖人達の表情に息を吹き込んだように、この土地の修道士達も、そんなのびやかな精神風土で、これらの傑作を描いたのだろうか?

夜行二等寝台で国境越え
リビヴからVadul Siretへ
 リヴィヴ駅に行き、ブカレスト行きの国際列車の寝台車の切符を購入した。旧ソ連圏ではどんな切符を買うのにも、タフな忍耐心が必要だが、3時間もかけて駅舎を出たときには流石にグッタリと疲れた。
途中、若い警官に職務質問されたが、これも予習していたので、その上司を呼び、落着いて対処した。
KIEV-LVIV—Suceva—Bucharest—Sofia間を3日かけて走る、この鈍行列車は両国関係の悪いウクライナとルーマニアを結ぶ唯一の越境ルートだ。目的地のモルドバ地方はウクライナに近いルーマニア北東にあるため、この路線を国境越えのルートにした。鉄道内での盗難の多さや、辺境の税官吏達の腐敗振の問題もあり、キエフの旅行代理店は、ブタペスト経由の空路を強く進言してきた。 
しかし、入国時の税関での印象で、役人全部が腐敗していたら国など成り立つはずもなく、不断の注意と危機管理で、切り抜けられると判断した。そして、万が一、国境にて拘束された際のルーマニア側スタッフとの緊急連絡手段をも決めていた。
 アジアからの旅行者のそんな杞憂を抱えて、汽車は22:52ゆるゆるとLVIV駅を出発した。

ワシリーとゴルゴーツキー
 4人用のコンパートメントに入ると先客2名が既に酒盛りを始めていた。「ドーブルィヴェーチェル」と挨拶をして、互いに自己紹介をした。彼等は自家製のピクルスや肉の酢漬けを肴にドブロクのようなお酒で盛上っていた。私にも食え食え、、と薦めるが、お腹がいっぱい、とジェスチャーして、代わりに日本のナッツやおかきを薦めた。肉でベトベトになった手を見かねてAir Franceで貰ったウエットタオルを渡すと、香りを嗅いで、感心していた。彼等はルームメイトのために、自分達の事や、ベッドの作り方を教えてくれた。すでにパジャマの上に分厚いセーターを着ているので、明け方には寒い?と訊くと、ダーッという。新参者に下の寝台を譲ってくれ、自分達はウクライナ側の国境Chemivstiで降りるので、先に別れを言っておくという。一夜の宿の隣人達がかくも心優しき友だったので、安堵して私もいつしか眠りについていた。
 04:20 Chemivstiに着いた。ワシリー達は隣人を起こさないように電気も付けないで身支度をしていた。何とデリカシーを持った人々かと感心した。ここで、鈍行列車と国際線列車を切り離した。ルーマニア鉄道とはレールの幅が違うために、客車をクレーンで持ち上げ違う台座にはめ換えていた。作業に2時間を要してから、列車は06:25出発した。

税関検査とSARS
Vadul SiretからSuceva Nordへ 30 Apr
 07:04 Vadul Siret着、いよいよウクライナで最も緊張の時がやってきた。国境駅にて、まずパスポートコントロール、そして税関検査がやって来た。
 係員はまず税関申告書を配布して、ウクライナ語で手短な指示をしている。コンパートメントのあちこちで外国人旅行者がトラブッテいた。私の番が来た。係官は入国時に詳細な申告をして認印を得ている書類を一瞥してあっさりとスタンプしてくれた。陸路の越境という一番手薄な検査状況だったが、事前の準備で事無きを得たのに、改めて情報収集の大事さを覚えた。
 それから列車はルーマニア側に入り、こちらは簡単なパスポート〜税関検査があった。このローカル線で欧米人もとよりアジア人など大層珍しく、日本のパスポートを見せた途端、役人が「ヤーパンが乗っている」と大声で呼んだ。すかさず検疫の女性がマスクをして現れ、「アーン」と喉を調べた。その時の、状況からはSARSは東洋のペストのように思われていたのだろう。列車はまた延々と続く馬鈴薯畑を進んだ。途中から、朝の耕作をする人がだんだん見えて来るが、みんな馬を耕作機につけて畑を耕している。自動車が走っているのは殆ど見られない。

Visit Romania
 12:06 Suceva Nord駅到着 プラットホームの先に「 MrYashima」のボードを持ったマリアンさんを見つけた。彼はVisit Romaniaというブカレストの旅行代理店が手配してくれた通訳兼運転手で、これから2日間モルドバでお世話になる人だ。お昼だったので、両替をしてからスチェバで一番のレストランに行く。 Romania(ローマ語を話す人々)は名前から判るようにイタリアと言語、民族性、料理等々、深い繋がりを持っている。 それゆえレストランの雰囲気がイタリアの田舎に来たようなのだ。私のブロークン・イタリアーノでも何とか判ってくれた。 料理はブオノ! まず野菜が旨い。豚肉が旨い。鳥が旨い。パスタもアルデンテで大満足、、そしてクレジット・カードでも払えた。旧ソ連圏から東欧に移動したんだというのが如実に感じられた。

五つの修道院 (WCH)
 ルーマニアは近世、3つの国が統合して出来た国だ。北からモルドバ、ハンガリー領だったトランシルバニア、それにワラキアだ。この旧モルドヴァ公国の内、Sucevaを中心にした一帯をブコヴィナ地方といい、特筆すべき寺院が多く集まっている。その中でも世界遺産にも認定された代表的な五つの修道院を巡るのが今ルーマニア観光のハイライトになっている。その特色は、礼拝堂の外壁に描かれたフレスコ画。オスマントルコの支配下、抵抗の心の支えとなったのはキリスト教の正義で、歴代の領主達は戦果を挙げる度に神への御恩として礼拝堂を寄進した。そして、人々に恩寵をもっと知らしめるため、建物内部だけでは足りなく、寺院の外壁にまで聖書の題材を描かせた。 いわばスペインに於けるレコンキスタと同様に、憂国的な王の意志から、これらの宗教美術が生まれた。しかしその脅威が無くなったあと、500年間の風雪で20年前には朽ち果てるまでなっていたのを、わずかな修道女たちの尽力によって1993年にユネスコ世界遺産に指定された。

ヴォロネッツ修道院
 それでもブコヴィナ地方は、まだまだ田舎、人々の主要な足は馬車だ。土の道を荷台に家族を乗せて、畑に向う光景にほっとする。そんなスローライフの土地だから、バスは日に1~2本しかない。それで、英語の出来る運転手&車をチャーターした訳だ。 始めにフモール修道院を見てから、夢にまで見た、この修道院に到着した。
NHKハイビジョン特集「神が生きる大地」で紹介されたあのシスター・ガブリエラが、今日も観光客に伊語、仏語、英語を駆使して、壁画の説明をしていた。ボロネッツの青と呼ばれる、その鮮やかな壁面に近寄ると、聖人から罪人まで、一人一人のドラマが目に飛び込んできて、これが描かれた500年前の戦渦の轟音さえも聞こえてくるようだ。無名のミケランジェロ達が心血を注ぎ、東欧の辺境に、システィナ礼拝堂にも匹敵するような傑作を残していた事実に、我々の世紀はようやく気が付き始めた。


民宿LETITIAに泊まる
 この日はSuceva郊外のレテツィア家に民宿した。大きな2階建ての家で、ゲストルームが2部屋あり、その日は他にフランス人の親子が泊まっていた。家族は農業をしてるお爺ちゃん、宿の女将のお婆ちゃん、エッグ・アーティストの長女、それに英語が少し話せる次女という構成で、隣の家のおばちゃんなんかも始終台所で井戸端会議なんかしていた。長女からイースター・エッグ作りを教えて貰えるのが、ここの売りなのだが、前夜、あまり寝てなかったので、残念ながら辞退した。夕食は前菜,スープ,サラダ、メイン、デザートと並び、自家製の果実酒や蒸留酒なども付くご馳走だった。全ての皿にもお婆ちゃんの「おふくろの味」がこもっていて、美味しく、大満足の夕食だった。

スチェビッツァ修道院
 SucevaからIASIへ 1 May
 一夜ではあったが、ルーマニアの田舎の家庭に触れて、とても良かった。お爺ちゃんと別れの握手をした時、がっしりとした骨太の手に、土を一生耕してきた農夫の手応えを感じた。 お土産に差上げたデジタル世界時計と昆布茶、おじいちゃんはどう思ったかな、、いつまでも手を振っている彼等をバックミラーに見ながら考えた。それから1時間かけて、スチェビッア修道院に着いた。広大な田園の中に要塞のように建っていた。五つの中では、一番大きく、かつ今でも多くの修道士達が居住している現在進行形の祈りの場だ。それ故、寺院の懐を自給自足で支えるため、多くのイコンが作られていた。中でもユニークなのがガラス版に彩色されたイコンで、画家の自由な表現が許されていた。私はそこで聖母像を買った。オレンジ色の花に囲まれたふくよかな表情をしたマドンナで、A.ルソーがメキシコの花市場で描いたようなファンタジーなイコンだった。

モルドバ公国の栄華
 IASI:ヤシはモルドヴァ公国の首都としてのみならず、長らくルーマニア文化の都として君臨した。文化宮殿はメーデーのため、閉館していたのが、三聖人教会では感謝祭の典礼に立ち会う事が出来た。昔、北スペイン・ブルゴス郊外のサント・ドミンゴ・シロス修道院でグレゴリオ聖歌による典礼に参加した事があった。それと比較すると正教の典礼はポリフォニーではなく、各司祭の単声で構成されている点で、カソリックとは全然違い、ソリストの技量が重要になってくる。この日は音楽録音のためか、平服の若い音楽家達が神父と共に楽譜を使って「歌って」いた。とても美しい典礼で、音楽として感動を覚えたが、イコンと同じように、こうした形を通しての、祈りへ関る姿がいまも東方世界では日常に根付いている。 目には見えない、精神世界の国境、こんな形で知るのも、旅の面白さだろう。

Tarom Romania航空でひとっ飛び
 IASIからBucharestへ 2 May
 翌日、ヤシから国内線でブカレストへ移動した。Visit Romaniaのダンさんが笑顔で出迎えてくれた。
外交官だった、父上の赴任で、港区の中学校に通っていた好青年で、麻布十番での少年時代を懐かしそうに日本語で話してくれた。かつて「バルカンの小パリ」と謳われたブカレストはチャウシェスクの暴政で、何の面白みも無い都になってしまっていた、そんな町に1泊を決めたのは、ある目的からだった。

ブカレストの骨董巡り
 空港ホテルに荷物を置いてから、市内に向った。
農村博物館はルーマニア各地から農家、教会、水車など297点ものが集められ、広大な園内に展示されている野外博物館だ。マラムレッシュ地方の「黒い教会」もあり、わずかな時間で、フォークロアの宝庫である、この国の魅力を知ることが出来た。それから、国立美術館、ルーマニア・コレクション美術館を矢次早に見た。昼食は「ビールいっぱいの馬車」という老舗のレストランで食べたが、ここのボルシチが今までで最高だった。それから、そのある目的にかかった。 市内の骨董店を全て、回ってイコンを見つけることだった。Web,ロンプラ等を調べて、周ったが、逸品にはなかなか出会えなかった。夕刻まで捜して、もう諦めかかっていた時、期待しないで入った店で、これはという作品に出会った。捜すという行為には、仕事でもプライベートでも、最後に思わぬドラマがあると痛感した。 ダン君は私の華僑的な注文にも淡々と堪えてくれた。そして店主の笑顔が涸れるまで、交渉して18世紀と19世紀の2枚のイコンを私の手へと導いてくれた。 帰路、Unirea百貨店のビンテージ・ワイン店でMurfatlarの稀少品を入手した。

パリへ
ブカレストからパリへ 3 May
 イコン6点、稀少ワイン3本、アンティーク・ライカ1点、聖ニクラウスの木彫、聖人達のマトリョーシュカ、を入れた重さ25Kgのバックパック、コンピューターとビデオとデジカメが入ったサブバックを抱えて、私はAir France機に乗り、西欧へと飛んだ。 宿に着き、重たいバックパックから出したイコン達が無事なのを確かめてから、私はテラスに出て、ソルボンヌの屋根を遠くに眺めながら、隣で買ったクレープとシードル酒でパリの昼食を味わった。午後はアレジア通りで洋服を物色し、郊外のラ・バレッに行って、食材を買い、夜はソルボンヌの裏のポリドールに行き、未来のサルトル&ボーボワール達と共に、パリの「おふくろの味」を味わった。


翌朝は早起きして、歩いて10分のムフタール通りに行った。新鮮な惣菜を買い、保冷ケースに入れて、翌日の我家の食卓を飾るようにした。こんなことが出来るのもカルチェラタンに泊まった余得であろう。最後に、今、焼き上がったのばかりのクロワッサンを頬張りながら、私は帰路へと着いた。


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