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1993年スロバキアが分離独立したチェコスロバキアは、オーストリア=ハンガリー帝国のスラヴ社会に「汎スラヴ主義」の運動が吹き荒れる中、1918年に成立した国家である。チェコ語とスロバキア語は同じ西スラヴ語族で、言語こそ方言程度の違いしかないほど意思の疎通は可能だが、チェコは長年ハプスブルク・オーストリアで支配下にあり、当時欧州屈指の工業先進地域だった。一方スロバキアは約1000年もの間ハンガリー王国領、オスマン・トルコにブダペストが占領された150年間はブラティスラバがハンガリー王国の一時的な都となった経験があるものの後進地域であり、文化も歴史も異なる。<br /><br /> チェコ優位の連邦制の中、スロバキアの不満はくすぶり続け、共産主義時代にチェコに比べ重工業を推進め、コメコン依存の強かったスロバキアは民主化後、コメコンの崩壊が経済を直撃し、失業者が12%を超えた。一方のチェコは順調に経済発展を続け、プラハは91年失業者は1%しかなかった。経済が低迷するスロバキアでは、左派系民族主義のメチアルが指導者として圧倒的にスロバキア人から支持され、連邦の解消・独立を試みる。こうした運動に当時の大統領であるハベルも、EU各国首脳も連邦維持の方向で説得にあたったが、当時の首相クラウスは政治混乱が与えるマイナス要因が多いと判断し、クラウスとメチアルとの会談により連邦制度の放棄が決まり、凡そ70年に渡る連邦制は崩壊した。<br /><br /> チェコはスロバキアの負の重荷がなくなり、経済成長を加速させるが、スロバキアは今でこそ順調に経済発展しているが、大統領のコヴァーチと首相のメチアルとの激しい権力争いと金に纏わる腐敗で、政治は右往左往していた。政治闘争はコヴァーチ大統領の息子が拉致され、オーストリアで発見されるといった、誘拐事件まで引き起こした。この誘拐事件にはメチアルのコントロール下にあったSIS(スロヴァキア国家情報局)が関与したと言われ、ドラマ仕立ての政治の泥沼模様だった。スロバキアでは女性が誘拐され、西側諸国で娼婦として働かされるケースが当時しばしば発生し、誘拐された女性が何故西側に連れられる事ができるのか不思議だったが、大統領の子息が誘拐され、別国で発見される位なのだから、如何に国境の管理が甘く、誘拐事件が後を絶たないのもうなずける。<br /><br /> 民族主義のメチアルは、チェコスロバキア時代には一定の自治権を与えられていたマジャール人(ハンガリー人)たちのマジャール語を、公の場での使用を制限する「言語法」を成立させるなど少数民族への弾圧を行い、国内の民族対立が先鋭化し、結果として隣国のハンガリーとの関係も悪化した。<br /><br /> 2002年、ズリンダ政権が成立しようやく政治は軌道に乗り、EUにまで加盟するが、私が訪れた95年のブラティスラバは政権闘争の真最中、町に活気が見られなかった。とても首都とは思えぬ沈滞した空気が漂い、独立後の新進気鋭の雰囲気はなかった。ブラティスラバではマジャール人の男性と知り合い、話す機会が会ったが、民族主義の台頭によりマジャール人の自治権が侵害され、将来を憂いていたのが印象深い。<br /><br /> 

スロバキア政争劇場

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1995/03/20 - 1995/03/21

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worldspan

worldspanさん

1993年スロバキアが分離独立したチェコスロバキアは、オーストリア=ハンガリー帝国のスラヴ社会に「汎スラヴ主義」の運動が吹き荒れる中、1918年に成立した国家である。チェコ語とスロバキア語は同じ西スラヴ語族で、言語こそ方言程度の違いしかないほど意思の疎通は可能だが、チェコは長年ハプスブルク・オーストリアで支配下にあり、当時欧州屈指の工業先進地域だった。一方スロバキアは約1000年もの間ハンガリー王国領、オスマン・トルコにブダペストが占領された150年間はブラティスラバがハンガリー王国の一時的な都となった経験があるものの後進地域であり、文化も歴史も異なる。

 チェコ優位の連邦制の中、スロバキアの不満はくすぶり続け、共産主義時代にチェコに比べ重工業を推進め、コメコン依存の強かったスロバキアは民主化後、コメコンの崩壊が経済を直撃し、失業者が12%を超えた。一方のチェコは順調に経済発展を続け、プラハは91年失業者は1%しかなかった。経済が低迷するスロバキアでは、左派系民族主義のメチアルが指導者として圧倒的にスロバキア人から支持され、連邦の解消・独立を試みる。こうした運動に当時の大統領であるハベルも、EU各国首脳も連邦維持の方向で説得にあたったが、当時の首相クラウスは政治混乱が与えるマイナス要因が多いと判断し、クラウスとメチアルとの会談により連邦制度の放棄が決まり、凡そ70年に渡る連邦制は崩壊した。

 チェコはスロバキアの負の重荷がなくなり、経済成長を加速させるが、スロバキアは今でこそ順調に経済発展しているが、大統領のコヴァーチと首相のメチアルとの激しい権力争いと金に纏わる腐敗で、政治は右往左往していた。政治闘争はコヴァーチ大統領の息子が拉致され、オーストリアで発見されるといった、誘拐事件まで引き起こした。この誘拐事件にはメチアルのコントロール下にあったSIS(スロヴァキア国家情報局)が関与したと言われ、ドラマ仕立ての政治の泥沼模様だった。スロバキアでは女性が誘拐され、西側諸国で娼婦として働かされるケースが当時しばしば発生し、誘拐された女性が何故西側に連れられる事ができるのか不思議だったが、大統領の子息が誘拐され、別国で発見される位なのだから、如何に国境の管理が甘く、誘拐事件が後を絶たないのもうなずける。

 民族主義のメチアルは、チェコスロバキア時代には一定の自治権を与えられていたマジャール人(ハンガリー人)たちのマジャール語を、公の場での使用を制限する「言語法」を成立させるなど少数民族への弾圧を行い、国内の民族対立が先鋭化し、結果として隣国のハンガリーとの関係も悪化した。

 2002年、ズリンダ政権が成立しようやく政治は軌道に乗り、EUにまで加盟するが、私が訪れた95年のブラティスラバは政権闘争の真最中、町に活気が見られなかった。とても首都とは思えぬ沈滞した空気が漂い、独立後の新進気鋭の雰囲気はなかった。ブラティスラバではマジャール人の男性と知り合い、話す機会が会ったが、民族主義の台頭によりマジャール人の自治権が侵害され、将来を憂いていたのが印象深い。

 

同行者
一人旅
交通手段
鉄道 高速・路線バス タクシー
航空会社
アエロフロート・ロシア航空

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  • スロバキアを通過する事はありましたが、立ち寄ったのは実に9年ぶり。ハンガリーのエステルゴムの対岸シュトロヴォの町です。<br />ハンガリーのエステルゴムとスロバキアのシュトロヴォに架かるマーリア・ヴァレーリア橋です。橋の真ん中でハンガリーとスロバキアの国境に分かれています。ハンガリーのエステルゴムからシュトロヴォまで歩いて渡ることが可能です。

    スロバキアを通過する事はありましたが、立ち寄ったのは実に9年ぶり。ハンガリーのエステルゴムの対岸シュトロヴォの町です。
    ハンガリーのエステルゴムとスロバキアのシュトロヴォに架かるマーリア・ヴァレーリア橋です。橋の真ん中でハンガリーとスロバキアの国境に分かれています。ハンガリーのエステルゴムからシュトロヴォまで歩いて渡ることが可能です。

  • スロバキアは元々ハンガリーの領土だった為、ハンガリー国境付近には多くのマジャール人が住んでいます。シュトロヴォに住むマジャール人も少なくありません。<br /><br />

    スロバキアは元々ハンガリーの領土だった為、ハンガリー国境付近には多くのマジャール人が住んでいます。シュトロヴォに住むマジャール人も少なくありません。

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この旅行記へのコメント (3)

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  • 女一人旅さん 2008/10/16 19:52:38
    あのぉ
    ドヴォルジャークの時代(19世紀後半)って
    チェコとスロバキアは別だったのですか?
    教えてくらはいm(__)m

    worldspan

    worldspanさん からの返信 2008/10/19 04:52:47
    RE: あのぉ
    返事遅れてごめんなさい!
    私今ロンドンにいてまして。。。
    11日からモロッコとスペインの南部ちょっととジブラルタル、パリ、ロンドンと回ってたんですよ〜〜、今帰国のトランジットでロンドンに滞在しています。

    ドボルザーク(ドボジャーク)の時代はチェコとスロバキアって全く別の国っていうわけではないんですけど、別の国といえば別の国なんです。意味わからないですよね(笑)。チェコはオーストリア・ハプスブルク帝国の直接の支配地域にあったんですけど、スロバキアはハンガリー王国だったんですよ。そのハンガリー王国もオスマントルコに1526年モハーチの戦いで敗れ、オスマントルコに占領された後、ハプスブルク帝国の支配下に置かれたんです。なので、チェコとスロバキアはハプスブルク支配下という意味では一国の中にあったのですけど、スロバキアはマジャール王国(ハンガリー王国)の一部で1000年以上支配されていたのにたいし、チェコはボヘミア王国として、そして神聖ローマ帝国としても栄え(プラハは一時神聖ローマ帝国の首都でした)、その後ハプスブルクに組み込まれたので、同じハプスブルクにいてながら、文化は全く異なるんですよ。
    1867年ハンガリーがアウグスライヒでオーストリア人と同等の権利を得、国名もオーストリア・ハンガリー帝国となったその時代、ちょうどドボジャークが生きた時代なのですが、このころのスロバキアは完全にマジャール王国(ハンガリー王国)の一部となっており、チェコ人とスロバキア人の交流はあまりなかったといわれています。両者は言語的には非常に近いのですが、精神はチェコ人がドイツ人やオーストリア人に近いといわれ理知的でクール、スロバキア人はマジャール人やウクライナ人に近いとも言われ、スロバキア人は情熱的で粗野といわれています。

    > ドヴォルジャークの時代(19世紀後半)って
    > チェコとスロバキアは別だったのですか?
    > 教えてくらはいm(__)m

    女一人旅

    女一人旅さん からの返信 2008/10/19 17:39:39
    RE: あのぉ
    スペイン、パリ、ロンドンは解りますが
    ジブラルタルとは、さすがレアですね。。。(^-^;)

    全く別な国ではないけれど別な国…
    なるほど。。。でも何となく分った気が。。。!?
    コピペしてメモを取っておきます!

    ありがとうございました。

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