2007/01/13 - 2007/01/13
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ソフィさん
私が東海道新幹線の仕事にたずさわり始めたのは、1960年(昭和35年)のことだった。
発令を受け、雪深い秋田・岩手県境の山中から、家族を盛岡に残して、とりあえず東京に馳せ参じた。
新幹線調査室が1959年に出発し、翌1960年には新幹線総局に格上げされて、全国からメンバーが集められたのだった。
そのころ、まだ世銀の動きもはっきりしないまま予算の目途が立っておらず、果たして出来るものかどうか未知の段階だったが、東京オリンピックを四年後の1964年に控えて残された時間は少なく、猪突猛進の感じだった。
新幹線総局は、国鉄本社ビルの最上階8階の大講堂に、補佐クラス以下の若いメンバー全員が机を並べ、非常時体制を感じさせ、壮観だった。
この「大部屋」が、どれほどチームワーク固めに役立ったか、計り知れない。
私は「新幹線総局建設局計画課補佐兼新幹線調査室補佐」という長い発令を貰い、建設基準の策定業務に従事する。
これは、新幹線設計の基本となる数値を決める仕事で、ほとんど全ての専門分野を網羅するものだった。
国鉄の各専門分野がいかに高いレベルでも、それぞれの専門がバラバラならば、力を発揮しない。
建設基準策定は、専門分野の力を合わせるための、まとめ役的な仕事だった。
私がそれを担当するのは、まだ若くて「専門」の色に染まっていないからだと、上司の課長から説明された。
会議では「自分の思っていることを、遠慮せずにどしどし発言しなさい」と、励まされる。
会議のメンバーは30歳代だったが、私がいつも一番若かった。
毎日専門家たちが、口角泡を飛ばしながら議論をする。
世界に例を見ない、全列車250キロという高速運転を可能にするために、それぞれの専門家には不安が残っている。
自分の専門分野では、少しでも有利な設計条件を貰って、技術的なゆとりを残したいと考えるのは、当たり前だろう。
専門技術がわかっていない私は、その行司役に向いているようだった。
専門の人の発言はいつも我田引水的と、色眼鏡で見られがちの中で、私の発言は中立的と受け止められる。
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