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2006/10/15(日)第8日目:ゲデレー城ツアー&ブダペスト<br />ゲデレー城ツアー(コーヒータイム付)<br />ブダペスト国立博物館(再訪)、応用工芸美術館、オペラ座でハンガリーのオペラ「バンク・バーン」(エルケル・フェレンツィ作曲)を鑑賞<br /><br />国立博物館は、ブダペスト再訪でリベンジしたかった筆頭の1つです。<br />2年前の2004年から東欧を旅行ターゲットにしている理由に、私の中の空白の東欧史を埋めていきたい、というのがあります。<br /><br />ブダペストの国立博物館は、ハンガリー史を学ぶのに最適です。<br />なので当然、2年前にも1時間50分かけてじっくり見学しました。<br /><br />関連の旅行記<br />「2004年夏のブダペスト・ウィーン・チェコ旅行20日間  (1)ハンガリー編(続き)ブダペスト観光 長めの感想(ハイライトその3)」<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10039103/<br />写真とは別に国立博物館の感想を書いたページ<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/10507976/<br /><br />しかし、そのときの旅行は、ハンガリーよりむしろチェコの方がメインだったので、勉強になったという満足感はあったものの、頭に入ったか、というのとは別でした。<br />むしろ、同じく初めて触れたチェコ史と、ますますごちゃごちゃになった気がします。<br />いかに知らないことがたくさんあるか、頭が整理できていないか、という焦りも同時に残りました。<br />フタを開けたらあまりにたくさんの料理があって、見ているだけでお腹いっぱいになってしまった、とでも言ったらよいでしょうか。<br /><br />今回のハンガリー旅行の下調べにおいて、ハンガリー史の復習は重視しました。<br />いよいよそれが試されるのです。<br />2年前には訳の分からなかった展示が、本日は1つでも多く、意味の分かるものとなっているのでしょうか。<br /><br />たぶん、2年前よりは展示品の面白さや意味が分かるようになっているでしょう。<br />でも、おそらくまだまだ消化不良で終わるでしょう。<br /><br />というわけで、何度でもリベンジしたいところです、国立博物館は。

2006年ハンガリーとルーマニア旅行第8日目(2):ブダペストに戻って、国立博物館再訪

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2006/10/15 - 2006/10/15

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まみ

まみさん

2006/10/15(日)第8日目:ゲデレー城ツアー&ブダペスト
ゲデレー城ツアー(コーヒータイム付)
ブダペスト国立博物館(再訪)、応用工芸美術館、オペラ座でハンガリーのオペラ「バンク・バーン」(エルケル・フェレンツィ作曲)を鑑賞

国立博物館は、ブダペスト再訪でリベンジしたかった筆頭の1つです。
2年前の2004年から東欧を旅行ターゲットにしている理由に、私の中の空白の東欧史を埋めていきたい、というのがあります。

ブダペストの国立博物館は、ハンガリー史を学ぶのに最適です。
なので当然、2年前にも1時間50分かけてじっくり見学しました。

関連の旅行記
「2004年夏のブダペスト・ウィーン・チェコ旅行20日間  (1)ハンガリー編(続き)ブダペスト観光 長めの感想(ハイライトその3)」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10039103/
写真とは別に国立博物館の感想を書いたページ
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/10507976/

しかし、そのときの旅行は、ハンガリーよりむしろチェコの方がメインだったので、勉強になったという満足感はあったものの、頭に入ったか、というのとは別でした。
むしろ、同じく初めて触れたチェコ史と、ますますごちゃごちゃになった気がします。
いかに知らないことがたくさんあるか、頭が整理できていないか、という焦りも同時に残りました。
フタを開けたらあまりにたくさんの料理があって、見ているだけでお腹いっぱいになってしまった、とでも言ったらよいでしょうか。

今回のハンガリー旅行の下調べにおいて、ハンガリー史の復習は重視しました。
いよいよそれが試されるのです。
2年前には訳の分からなかった展示が、本日は1つでも多く、意味の分かるものとなっているのでしょうか。

たぶん、2年前よりは展示品の面白さや意味が分かるようになっているでしょう。
でも、おそらくまだまだ消化不良で終わるでしょう。

というわけで、何度でもリベンジしたいところです、国立博物館は。

  • ゲデレー宮殿ツアーから戻って、再び鎖橋<br /><br />EURama ツアーのオフィスはインターコンチネンタル・ホテルにあるため、ゲデレー宮殿見学ツアーの終わりはインターコンチネンタル・ホテルの前でした。<br />鎖橋は目の前です。<br />何度か夜景を撮った鎖橋ですが、昼間、すぐ近くから写真を撮りたくて近付いてみました。<br />すると、なにやら妙ににぎやかです。<br />どうやらマラソン大会が行われている最中でした。<br /><br />はじめは、鎖橋の写真を撮るのにちょっと邪魔!とか思ったあの赤いゴール。<br />でも、こういう場に巡りあわせるのはそうそうあるものではありません。<br />こういう鎖橋もいいかもしれない、と思って写真を撮っておくことにしました。

    ゲデレー宮殿ツアーから戻って、再び鎖橋

    EURama ツアーのオフィスはインターコンチネンタル・ホテルにあるため、ゲデレー宮殿見学ツアーの終わりはインターコンチネンタル・ホテルの前でした。
    鎖橋は目の前です。
    何度か夜景を撮った鎖橋ですが、昼間、すぐ近くから写真を撮りたくて近付いてみました。
    すると、なにやら妙ににぎやかです。
    どうやらマラソン大会が行われている最中でした。

    はじめは、鎖橋の写真を撮るのにちょっと邪魔!とか思ったあの赤いゴール。
    でも、こういう場に巡りあわせるのはそうそうあるものではありません。
    こういう鎖橋もいいかもしれない、と思って写真を撮っておくことにしました。

  • 鎖橋の前のマラソン大会のゴールの様子<br /><br />チアガールとゴールする人たちを入れて撮ってみました。<br />動く人物の一瞬をカメラで捉える試みは、思った以上に面白かったです。<br />私にとって、街角写真に人を入れる応用のようなものです。<br />あるいは車窓からの撮影に通ずるところもあるかしら。<br />とにかくチャンスを逃すまいと、どんどんシャッターを切ります。液晶を覗いたまま、ゴールする選手の姿が映ると、すかさずシャッターを切ります。30回近くシャッターを切りました。<br />大半は、気に入らない写真ばかりになってしまいました。特に、チアガールのポーズが難しかったです。<br />しかし、数討ちゃ当たるものです。<br />ゴールを切った選手たちもそれなりに様になっていて、チアガールのお姉さんたちのポーズも決まった!───と、自分ではなんとか合格点を出せる写真を、こうして残すことができました。

    鎖橋の前のマラソン大会のゴールの様子

    チアガールとゴールする人たちを入れて撮ってみました。
    動く人物の一瞬をカメラで捉える試みは、思った以上に面白かったです。
    私にとって、街角写真に人を入れる応用のようなものです。
    あるいは車窓からの撮影に通ずるところもあるかしら。
    とにかくチャンスを逃すまいと、どんどんシャッターを切ります。液晶を覗いたまま、ゴールする選手の姿が映ると、すかさずシャッターを切ります。30回近くシャッターを切りました。
    大半は、気に入らない写真ばかりになってしまいました。特に、チアガールのポーズが難しかったです。
    しかし、数討ちゃ当たるものです。
    ゴールを切った選手たちもそれなりに様になっていて、チアガールのお姉さんたちのポーズも決まった!───と、自分ではなんとか合格点を出せる写真を、こうして残すことができました。

  • 鎖橋を渡る手前<br /><br />このアングルでも夜景写真を撮りたいです@<br />夜景撮影のリベンジが可能なのは、明日あたりかな。

    鎖橋を渡る手前

    このアングルでも夜景写真を撮りたいです@
    夜景撮影のリベンジが可能なのは、明日あたりかな。

  • ブダペスト国立博物館<br /><br />2年前の2004年の初ブダペストのときに国立博物館に行ったときは、入場料は無料でした。<br />そのときは、その日はたまたま無料の日なのかと思いましたが、今回も企画展以外は無料で入れました。<br />……って、よく見たらガイドブックにもちゃんと無料と書いてありましたねぇ。<br /><br />古代ギリシャ建築の1番華やかなコリント様式の柱を取り入れた、白亜のネオクラッシック様式の建物。1847年建築。<br />設計はポラック・ミハーイ。<br /><br />国立博物館前の広場は1848年革命蜂起の舞台となったところですが、まだ建築したての翌年のことだったのですね。<br />伝説では、1848年3月15日、詩人ペテーフィ・シャーンドルが、自由を求める市民蜂起の先頭に立ち、国立博物館前に集った1万人の前で「国民の詩」を朗読したことになっています。<br />実際は彼が自ら詩を朗読したのは大学やカフェだけだったようですが、その詩はビラに書かれて、民衆の間にばらまかれたようです。<br />(参考「読んで旅する世界の歴史と文化 中欧」新潮社)

    ブダペスト国立博物館

    2年前の2004年の初ブダペストのときに国立博物館に行ったときは、入場料は無料でした。
    そのときは、その日はたまたま無料の日なのかと思いましたが、今回も企画展以外は無料で入れました。
    ……って、よく見たらガイドブックにもちゃんと無料と書いてありましたねぇ。

    古代ギリシャ建築の1番華やかなコリント様式の柱を取り入れた、白亜のネオクラッシック様式の建物。1847年建築。
    設計はポラック・ミハーイ。

    国立博物館前の広場は1848年革命蜂起の舞台となったところですが、まだ建築したての翌年のことだったのですね。
    伝説では、1848年3月15日、詩人ペテーフィ・シャーンドルが、自由を求める市民蜂起の先頭に立ち、国立博物館前に集った1万人の前で「国民の詩」を朗読したことになっています。
    実際は彼が自ら詩を朗読したのは大学やカフェだけだったようですが、その詩はビラに書かれて、民衆の間にばらまかれたようです。
    (参考「読んで旅する世界の歴史と文化 中欧」新潮社)

  • 国立博物館のギフトショップで買ったハンガリー史の冊子<br /><br />カラー写真満載で40〜50ページ程度で日本語とあらば、ハンガリー史をざっと復習するのにはうってつけです。<br />国立博物館に展示されている物品や絵の写真が載っているので、博物館のカタログ代わりにもなります。<br />なによりも執筆はハンガリー人なので、ハンガリー人の視点からの歴史に触れることができます。<br /><br />2冊ありますが、右の「ハンガリー小史」は2004年の初ブダペストのときに買ったものです。<br />値段は1,200フォーリントでした(2004年7月現在、1フォーリント=約0.5円)。<br /><br />左側の「ハンガリー歴史アルバム」は、今回買いました。<br />2年前に買った本とは掲載写真も違いますし(一部は当然一致します)、同じ歴史解説であっても書きぶりや焦点の当て方、随所に伺える筆者の歴史観が違うでしょうから、これも欲しくなったのです。<br />この本は2年前には博物館のギフトショップの棚にはありませんでした。<br />私のことだから、2年前にもあったら両方とも買っておいたと思うんです@<br />(むしろ、「ハンガリー小史」の方の日本語版が切れていたくらいです。)<br />これも値段は1,200フォーリントでした(2006年10月現在、1フォーリント=約0.6円)。<br /><br />表紙の絵は、「ハンガリー小史」の方は、1686年のオスマン・トルコからのブダ王宮の奪還を描いた歴史画です。<br />「ハンガリー歴史アルバム」の方は、コルヴィン文庫で学者と語らうマーチャーシュ王を描いたものです。<br />マーチャーシュ王は、対オスマントルコ戦争で活躍した英雄フニャディ・ヤーノシュの息子です。<br />国家中央集権を打ち立て、文化面では中欧に中世ルネサンス時代を築いたという、ハンガリーで人気の王様です。彩色写本を集めたコルヴィン文庫はアルプス以北では並ぶものがないとまで言われているそうですが、残念ながら現在は散逸していて残っているのは一部です。<br /><br />左側の表紙の「コルヴィン文庫で学者と語らうマーチャーシュ王」は、国立博物館の吹抜けホールの天井のすぐ下の壁の帯状の装飾、すなわち「フリーズ」を飾る壁画の1つでした。<br />ギフトショップでこの本を見かけたときに、あのフリーズの絵だ!と気づき、それだけで欲しくなってしまったくらいです。<br />右側の表紙の「ブダ王宮奪還」もそうだったかもしれませんが、こちらは、ちょっと記憶は定かではないです。<br /><br />国立博物館は常設展は無料でしたが、写真代を払えば写真を撮ることができます。<br />しかし、展示の写真を撮るにしても、気に入ったものだけを撮るというのも歴史博物館なのになんだか片手落ちですし、かといって歴史理解のために万遍なく写真を撮っていたらきりがないので、いっそ写真はあきらめることにしました。<br />これらの本に掲載された写真もありますしね。<br /><br />代わりに、全部で20室ある常設展の展示室のタイトルを全部メモしてきました。<br />細かく区分された時代は、博物館が、いやハンガリー人がそれだけ重視している時代といえます。<br />これが、日本人向けの歴史解説、たとえば「地球の歩き方」などで記述が丁寧なところとは必ずしも一致しません。<br />つまり、ハンガリー史の中でも日本人が関心を抱きやすい時代と当事者であるハンガリー人が重視する時代がずれるのです。<br />考えてみたらごく当たり前なことなのですが、2年前にそのことに気付き、とても面白いと思いました。<br />同時に、国立博物館で丁寧に展示されている時代ほど意味がわからないものが多くて、悔しい思いもしました。<br />今回は、また同じような悔しい思いをしたくないため、下調べでハンガリー史は重視しました。<br />そのため、今回は前回に比べて、「ああ、これは、あれね」といった親近感のようなものを持てる部分が増えた気がします。<br /><br />Room No. 1: The Age of the House of Arpad King<br />(アルパード王朝時代、11〜13世紀)<br />※マジャール人がカルパチア盆地にハンガリー王国を建設してから、アンドラーシュ3世でアルパード王朝が断絶するまで。<br />この展示室には、ゴシック彫像の傑作と言われるラースロー聖王の金の銅像がありました。オリジナルを2日後のジェール大聖堂では見ることができなかったので、ここでレプリカとはいえ、国立博物館できちんと見ることができて良かったです。<br />とはいえ、この展示室では1番目立っていました。<br /><br />Room No. 2: The Age of Anjou King<br />(アンジュー王朝時代、14世紀)<br />※アルパード王朝断絶後、選挙王制になってから最初の王がアンジュー家出身のカーロイ・ローベルト(在位1301〜1342)でした。彼はナポリ王、ポーランド王、チェコ王でもありました。<br />ところがイタリア出身の、いわば外国人の王である彼を認めない大貴族が多かったため、彼はブダ城に入れず、ヴィシェグラードに王宮を建てて王都としたそうです。<br />彼は、ポーランドにドイツ騎士団を招いた王でもあります。その後、ポーランドは、大きくなりすぎたドイツ騎士団勢力の排斥に苦労します。<br />カーロイ・ローベルトの息子のラヨシュ大王(在位1342〜1382)も、ポーランド王も兼ねました。ポーランドをヨーロッパの中でも大国とし繁栄させた王です。<br /><br />ドイツ騎士団については、2005年のポーランド旅行のときに縁がありました。<br />関連の写真<br />トルンにあるドイツ騎士団城跡<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/10414648/<br />関連の旅行記<br />「2005年夏のプラハ・ポーランド旅行20日間 その12 トルン」<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10032323/<br />ドイツ騎士団の城塞跡マルボルク城へ行ったときの旅行記<br />「2005年夏のプラハ・ポーランド旅行20日間 その14 マルボルク城とオリーバ」<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10032507/<br /><br />Room No. 3: The Age of Sigismund of Luxembourg and Janos Hunyadi <br />(ルクセンブルグ家のジギスムントとフニャディ・ヤーノシュの時代、15世紀前半)<br />※オスマントルコの脅威にさらされた時代。ジギスムントは、宗教改革の先駆者ヤン・フスを処刑させたチェコ王ジクムントです。ハンガリー王も兼ねました。<br />フニャディ・ヤーノシュは中世ハンガリーの最盛期を打ち立てたマーシャーシュ王の父。対オスマントルコの戦いで活躍した英雄です。<br />1456年のベオグラードの戦いでは、ハンガリー側が民衆を含めて3万だったのに、10万のトルコ軍を破って奇跡の勝利を導いたといわれています。<br />ちなみに、ドラキュラのモデルのヴラド・ツェペッシュの父ヴラド・ドラクルと同時代人でした。<br /><br />またブダペストの市民公園にあるヴァイダフニャド城は、フニャディ・ヤーノシュの現ルーマニアのトランシルヴァニアにある居城をモデルとしたものだそうです。<br />トランシルヴァニアは、第一次世界大戦後のトリアノン条約でルーマニア領となるまで、ハンガリー領でした。<br /><br />関連の旅行記<br />「2006年ハンガリーとルーマニア旅行第2目(2)ブダペスト:英雄広場とヴァイダフニャド城」<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10103272/<br /><br />ちなみにハンガリー人の人名は英語だと名まえ・姓の順に書かれてしまいますが、和文では本来の姓・名まえの順の表記に改めています。<br /><br />Room No. 4: Villages and Towns in the Second Half of the 15th Century to Early 16th Century<br />(15世紀後半から16世紀初頭の村や町)<br />※中世ハンガリーが発展した時期の村や町の変化ぶりや経済的豊かさを示す展示。<br /><br />Room No. 5: The Age of Matthias Hunyadi<br />(フニャディ・マーチャーシュの時代、15世紀後半)<br />※中世ハンガリー最盛期のルネサンス王。マーチャーシュ・コルヴィアヌスとも呼ばれます。ブダ王宮のマーチャーシュ教会は、彼が増築させ、それが今の姿の原形となったため、彼の名前で呼ばれるようになりました。<br /><br />マーチャーシュ・コルヴィヌス王については、少し調べて仕入れたばかりのウンチクを書いた旅行記があります。<br />関連の写真<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/11491765/<br />関連の旅行記<br />「2006年ハンガリーとルーマニア旅行第3日目(4)ブダペスト:王宮の丘散策」<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10104710/<br /><br />Room No. 6: The Splitting of Hungary into Three Parts; The Ottoman Occupation<br />(ハンガリー三国分裂とオスマントルコ占領、16世紀後半〜17世紀)<br />※1514年、ハンガリー史上空前の農民反乱(ドージャ・ジェルジの乱)。<br />1526年のモハーチの戦いの敗北により、ハンガリーは、オスマン帝国支配地、ハプスブルグ家支配地、そしてオスマントルコ保護領のトランシルヴァニア侯国の三国に分裂します。<br /><br />Room No. 7: Transylvania and Royal Hungary<br />(トランシルヴァニアとハンガリー王国、16世紀後半〜17世紀)<br />※トランシルヴァニア侯国とハンガリー王国の市民生活や文化水準の高さを示す展示。<br />三国分裂時代は、日本で触れられるハンガリー史の解説ではあっさりとしか触れていないものが多いですが、だからといって決して空白の時代ではありませんでした。<br />ハンガリーがオスマントルコ支配時代にハンガリーらしい文化を保てたのはトランシルヴァニア候国の存在があればこそ、だそうですし、「ハンガリー小史」でも「ハンガリー歴史アルバム」でもトランシルヴァニア候国の歴史は詳しかったです。<br /><br />Room No. 8: The Expulsion of the Turks 1686〜1699; Aristocratic and Town Relics from the 17th Century<br />(1688年から1699年のトルコ追放、17世紀以降の貴族と町の遺物)<br />※160年という長いトルコ支配の間に、ハンガリーの人口は激減し、経済は衰退しました。そのためハンガリーは移民政策をとります。<br />この政策によって、ハンガリーは急速に多民族国家となります。<br />ちなみに中欧の特徴として、中流貴族の存在が大きいことが挙げられますが、ハンガリーも例外ではありませんでした。<br /><br />Room No. 9: The Rakozi War of Independence and the Wars against the Turks<br />(ラーコーツィの独立戦争と対トルコ戦争、18世紀初頭)<br />※スペイン継承戦争(1701〜1713年)に乗じて、ハプスブルグ支配に反対する貴族と農民が独立戦争を起こした時代(1703〜1711年)。ラーコーツィ・フェレンツ2世はその反乱を指導した貴族です。<br />負けてしまったけれど、ラーコーツィはハンガリーの英雄とされています。<br />ハプスブルグ側の報復はすざまじいものがあったそうです。そしてこの後、ハンガリーは100年以上、ハプスブルグ支配が決定的となります。また、ハプスブルグ家はこのときのハンガリーの抵抗に懲りて、さらなる反乱予防策としてハンガリー国内の城塞の破壊を命令ました。<br />そのため中世からの貴重な城塞が次々と破壊されてしまい、ハンガリー国内にはほとんど残らなくなります。<br /><br />2年前の2004年の国立博物館・初見学で、一番わけが分からなくなったのがこの時代です。「貴族」と「農民」の「対ハプスブルグ独立戦争」というキーワードから、これより前のドージャ・ジェルジの農民反乱(1514年)やこの後のコシュート・ラヨシュの1848年革命と混乱してしまったのです。<br /><br />Room No. 10: Hungary in the 18th Century<br />(18世紀のハンガリー)<br />※150年のトルコ支配からゆっくり回復し、バロック文化が真っ盛りの頃。<br />マリア・テレジア(在位1740年〜1780年)や共同統治した息子のヨーゼフ2世(在位1765年〜1790年)の時代です。<br />バロック音楽もまた栄えました。ウィーンやプラハではモーツアルトも活躍した時代です。<br />国立博物館ではチェンバロのバロック音楽がBGMとして流れ、楽器の展示もありました。<br /><br />Room No. 11: “We Must Extricate Ourselves from the Morass of Decaying Feudalism” by Count Istvan Szecheny<br />(「我々は腐敗した封建主義の泥沼から解放されねばならない」セーチェーニ・イシュトヴァーン伯)<br />※セーチェーニ・イシュトヴァーン伯(1791〜1860):ハンガリーの改革時代から独立戦争時代(1848〜1849)を生きた自由主義の政治家。<br />彼による鎖橋の建設は有名ですが、他にもハンガリー科学アカデミーの創設、ドナウ川の蒸気船航路の開設、ハンガリーへの競馬の導入など、数々の偉業を、しかも私財を投じて成し遂げました。<br />しかし、晩年は、コシュート・ラヨシュらの急進的革命(独立戦争)とその後の進展に嘆き、精神を病んで自殺する、という報われないものでした。<br />この展示室の重要人物もう1人:カジンツィ・フェレンツ(Kazinczy Ferenc)(1759〜1831)。19世紀初頭の改革時代の言語改革運動の推進者。ラテン語かドイツ語を使用言語としていたエリート層は、この時代にハンガリー語を使うようになりました。<br /><br />Room No. 12: Revolution and War of Independence in 1848-49<br />(1848〜49年の独立革命・戦争)<br /><br />※この時代の重要人物その1:ペテーフィ・シャーンドル(Petofi Sandor)(1823〜1849)の肖像もありました。マジャール人の自由を訴える詩により革命の火付け役となった国民的詩人です。<br /><br />※この時代の重要人物その2:革命の指導者コシュート・ラヨシュ(Kossuth Lajos)(1802〜1894)。<br />セーチェーニ伯らの上からの改革では生ぬるいとした人ですが、セーチェーニ伯個人のことは尊敬し、その偉業は高く評価していました。独立革命に負けた後、彼だけハプスブルグの報復を逃れ、トルコへ亡命します。晩年は、北イタリアのトリノで政治活動を行い、ハンガリーには戻りませんでした。<br />他の革命関係者はというと、ハンガリー軍を指揮した13人の将軍は処刑、穏健派だったバッチャーニ・ラヨシュ伯は、革命政府の首相になったばかりに処刑、そしてペテーフィは革命軍の戦いで、26才の若さで戦死しました。<br /><br />Room No. 13: Culture and National Consciousness<br />(文化と国民意識、18世紀末〜19世紀初頭)<br />※啓蒙主義、合理主義の時代であり、自由・平等・友愛の概念が普及しました。科学アカデミー、国立劇場、国立博物館がペスト側に建築された時代。<br /><br />Room No. 14: Endurance, Compromise and Economic Boom<br />(忍耐、妥協、そして経済繁栄)<br />※1867年のオーストリア・ハンガリー二重帝国成立と、その後のハンガリー、特にブダペストの経済繁栄を示す展示。その繁栄の頂点を象徴するのが、1896年のハンガリー建国1000年祭です。<br />二重帝国の成立は、オーストリア側(ドイツ語)では「アウスグライヒ(=妥協)」と呼ばれますが、ハンガリー語では、「キエジェゼーシュ」です。<br />それまでハンガリーは、ハプスブルグの圧政に抵抗する立場にありました。ところがアウスグライヒによって、いわば独自の国家を持つことにより、今後はその国家を維持するため、国内の少数民族(ルーマニア人、スロヴァキア人、セルビア人など)を抑え込む側になるのです。<br /><br />Room No. 15: Education, Science and Culture in the End of the 19th Century<br />(19世紀末の教育・科学・文化)<br />※鋳鉄製品、 鉄砲、偉人の記念碑(laurel wreaths for the immortals)コレクションもありました。<br />また、この時代は、歴史画全盛期でもありました。主題は、1848〜49年の独立戦争や1867年の二重帝国成立が好まれました。<br /><br />Room No. 16: From the Happy Times of Peace until the Collapse of the Monarchy 1900-1910<br />(1900年〜1910年、平和謳歌時代から帝国の崩壊まで)<br />※二重帝国成立の後のハンガリーの繁栄時代から第一次世界大戦勃発までの展示。<br /><br />Room No. 17: Hungary after Trianon from the Gubernatorial Election until the Last Year of Peace 1920-1938<br />(1920年から1938年、トリアノン条約後、普通選挙による総選挙実施後から最後の平和の年までのハンガリー)<br />※1920年のトリアノン条約によってハンガリーは国土の3分の2を失いました。<br />また、この両大戦間期間は、ホルティ・クミローシュ(1868〜1957)の独裁体制時代(1920〜1945年)にあたります。<br />彼は、共産主義を嫌う勢力を背景にクーン・ベーラ政権を倒した後、国王不在のままハンガリー国王摂政の地位に就きます。1920年よりハンガリーは再び王国となりましたが、ハンガリーはハプスブルグ家のカール1世の復位は拒否しました。<br /><br />トリアノン条約については、少し調べて仕入れたばかりのウンチクを書いた旅行記があります。<br />関連の写真<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/11484955/<br />関連の旅行記<br />「2006年ハンガリーとルーマニア旅行第3日目(1)ブダペスト:ハンガリー国会議事堂」<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10104262/<br /><br />Room No. 18<br />※Grof Klebelsberg Kunoの言葉が引用されていましたが、ハンガリー語のみ英語のタイトルはありませんでした。英語がなかったので分からず。<br />展示は20世紀初頭の文化を示すものでした。ラジオや電話の普及など、市民生活の一環を示す展示。<br /><br />Room No. 19: From Revisionist Successes until the Country is Occupied by German and Soviet Troops 1938-1945<br />(1938年〜1945年、失地回復運動(修正主義)から独ソ軍占領まで)<br />※トリアノン条約で失った国土の一部を1938年の第一次ウィーン裁定で回復することができます。<br />ですが、さらなる失地回復のため、ハンガリーは次第にナチス・ドイツの枢軸国側に傾いていきます。<br /><br />Room No. 20: The Evolution and Collapse of the Communist System 1945-1990<br />(1945年〜1990年、社会主義の斬新的変化と崩壊)<br />※スターリンの銅像があり、社会主義宣伝ポスターがたくさん展示されていました。<br />首相ナジ・イムレは写真がありました。ラジオに向かっているところでした。<br />ナジ・イムレは1956年のハンガリー動乱でソ連軍の攻撃を受けたとき、ラジオを使って全世界に救援を求めました。<br />「本日未明、ソ連軍は首都への攻撃を開始した。……わが軍は交戦中である。この事実を国民と世界の世論に告げる」<br /><br />ナジ・イムレについては、少し調べて仕入れたばかりのウンチクを書いた旅行記があります。<br />関連の写真<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/11485065/<br />関連の旅行記<br />「2006年ハンガリーとルーマニア旅行第3日目(1)ブダペスト:ハンガリー国会議事堂」<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10104262/<br /><br />最後の展示室:Hungarian Scientists Who Thought up the 20th Century<br />(20世紀の発明を生み出したハンガリー人科学者たち)<br />※亡命先に帰化したハンガリー人を含めると、ハンガリー人のノーベル賞受賞者は意外に多いです。<br />意外に、というのは、受賞時にハンガリーにいた人が少なかったせいです。<br />最後の展示室は、彼らの紹介と業績を示す展示でした。<br />とはいえ、この展示はさっぱり分からなかった上に、私はあまり興味を覚えませんでした。わずかに興味を覚えたのは、ホログラフィーを発明し、ノーベル賞を受賞したデニス・ガボール(1900〜1979)くらいでした。<br /><br />新設の展示室:Relics of the 1956 Hungarian Revolution<br />(1956年ハンガリー革命の足跡)<br />※企画展だったかもしれませんが、常設展同様、無料で入れました。写真と文書が中心でした。10月23日のハンガリー動乱追悼日が間近だったゆえの展示かもしれません。<br /><br />18室目までは入口の説明プレートを読みながら進むことができました。<br />展示品を見ているだけで、時代の雰囲気が伝わってくるのが嬉しいです。<br />17世紀くらいなると、当時の衣装を復元したものも展示されていてとても興味深かったです。<br />しかし、展示品の中で最も目が引き付けられるのは、なんといっても宝飾品や、応用工芸美術ともいうべき品々です。<br />私は昔は絵画鑑賞の方が好きでしたが、いまはむしろ応用工芸の方に惹かれます。<br />というわけで、早くも第8室目あたりから、国立博物館の次は応用工芸美術館を再訪したい気持ちがむらむらわき上がってきました。<br /><br />下調べでハンガリー史の中で比較的念入りに調べたのは、第12室の1948年革命と、新設の展示室の1956年のハンガリー動乱です。<br />もっとも、この2つは、世界史的なインパクトのせいか、日本語の書籍やネットで調べてもハンガリー史の中では情報が多かった事件でした。ハンガリー人も非ハンガリー人も共に重視している歴史でしょう。<br />といっても、第19室目から第20室目までの展示は、私にとっては2年前と比べても、特になじみになった気はしませんでした。詳しい人に、簡単に説明して欲しいなぁ、ってかんじ@<br />基本的に私は、このあたりの現代史は苦手で、避けてきたところがあります。<br /><br />国立博物館の見学は、14時10分〜16時10分となりました。<br />今回は常設点だけでほぼ正味2時間です。<br />岐阜図書プなど回った時間は含まれていません。<br /><br />さて、次はどこへ行きましょうか。<br />候補は2つありました。応用工芸美術館を再訪して、展示の見学だけでなく建物の写真を撮りまくること。<br />それか、2004年に行き損ねた、英雄広場の西洋美術館。<br />どちらも本日を逃すと、今回の旅行では行き損ねることになりそうです。<br />今宵のオペラの開演は19時です。開場は18時半。<br />オペラ鑑賞の前の腹ごなしは、この際、もうマクドナルドでもいいとすると、17時すぎくらいまでは観光できそうです。でも移動時間を含めると、見学に当てられる時間は1時間を切ってしまうでしょう。<br />(オペラ座開演まであとはどこも見学せず、優雅にディナーをとる、という選択肢もありましたが、却下。団子より花を取りました@)<br /><br />しかし、ラファエロ、レンブラント、ルーベンス、ベラスケス、ゴヤ、ブリューゲルといった超巨匠の作品のある西洋美術館。1時間足らずでは、かえって消化不良を起こすでしょう。中途半端にかじると、見損ねた悔しさが余計に強まりそうです。<br />というわけで、残念ですが今回も西洋美術館はあきらめ、代わりに応用工芸美術館を再訪することにしました。<br />応用工芸美術館なら、たとえ展示は大急ぎにしか見られないとしても、建物の写真を撮れれば、それなりに満足感を得られるはずです。<br />それに、国立博物館の展示を見ている間に、応用工芸美術が見たいという気持ちがどんどん高まりましたから。

    国立博物館のギフトショップで買ったハンガリー史の冊子

    カラー写真満載で40〜50ページ程度で日本語とあらば、ハンガリー史をざっと復習するのにはうってつけです。
    国立博物館に展示されている物品や絵の写真が載っているので、博物館のカタログ代わりにもなります。
    なによりも執筆はハンガリー人なので、ハンガリー人の視点からの歴史に触れることができます。

    2冊ありますが、右の「ハンガリー小史」は2004年の初ブダペストのときに買ったものです。
    値段は1,200フォーリントでした(2004年7月現在、1フォーリント=約0.5円)。

    左側の「ハンガリー歴史アルバム」は、今回買いました。
    2年前に買った本とは掲載写真も違いますし(一部は当然一致します)、同じ歴史解説であっても書きぶりや焦点の当て方、随所に伺える筆者の歴史観が違うでしょうから、これも欲しくなったのです。
    この本は2年前には博物館のギフトショップの棚にはありませんでした。
    私のことだから、2年前にもあったら両方とも買っておいたと思うんです@
    (むしろ、「ハンガリー小史」の方の日本語版が切れていたくらいです。)
    これも値段は1,200フォーリントでした(2006年10月現在、1フォーリント=約0.6円)。

    表紙の絵は、「ハンガリー小史」の方は、1686年のオスマン・トルコからのブダ王宮の奪還を描いた歴史画です。
    「ハンガリー歴史アルバム」の方は、コルヴィン文庫で学者と語らうマーチャーシュ王を描いたものです。
    マーチャーシュ王は、対オスマントルコ戦争で活躍した英雄フニャディ・ヤーノシュの息子です。
    国家中央集権を打ち立て、文化面では中欧に中世ルネサンス時代を築いたという、ハンガリーで人気の王様です。彩色写本を集めたコルヴィン文庫はアルプス以北では並ぶものがないとまで言われているそうですが、残念ながら現在は散逸していて残っているのは一部です。

    左側の表紙の「コルヴィン文庫で学者と語らうマーチャーシュ王」は、国立博物館の吹抜けホールの天井のすぐ下の壁の帯状の装飾、すなわち「フリーズ」を飾る壁画の1つでした。
    ギフトショップでこの本を見かけたときに、あのフリーズの絵だ!と気づき、それだけで欲しくなってしまったくらいです。
    右側の表紙の「ブダ王宮奪還」もそうだったかもしれませんが、こちらは、ちょっと記憶は定かではないです。

    国立博物館は常設展は無料でしたが、写真代を払えば写真を撮ることができます。
    しかし、展示の写真を撮るにしても、気に入ったものだけを撮るというのも歴史博物館なのになんだか片手落ちですし、かといって歴史理解のために万遍なく写真を撮っていたらきりがないので、いっそ写真はあきらめることにしました。
    これらの本に掲載された写真もありますしね。

    代わりに、全部で20室ある常設展の展示室のタイトルを全部メモしてきました。
    細かく区分された時代は、博物館が、いやハンガリー人がそれだけ重視している時代といえます。
    これが、日本人向けの歴史解説、たとえば「地球の歩き方」などで記述が丁寧なところとは必ずしも一致しません。
    つまり、ハンガリー史の中でも日本人が関心を抱きやすい時代と当事者であるハンガリー人が重視する時代がずれるのです。
    考えてみたらごく当たり前なことなのですが、2年前にそのことに気付き、とても面白いと思いました。
    同時に、国立博物館で丁寧に展示されている時代ほど意味がわからないものが多くて、悔しい思いもしました。
    今回は、また同じような悔しい思いをしたくないため、下調べでハンガリー史は重視しました。
    そのため、今回は前回に比べて、「ああ、これは、あれね」といった親近感のようなものを持てる部分が増えた気がします。

    Room No. 1: The Age of the House of Arpad King
    (アルパード王朝時代、11〜13世紀)
    ※マジャール人がカルパチア盆地にハンガリー王国を建設してから、アンドラーシュ3世でアルパード王朝が断絶するまで。
    この展示室には、ゴシック彫像の傑作と言われるラースロー聖王の金の銅像がありました。オリジナルを2日後のジェール大聖堂では見ることができなかったので、ここでレプリカとはいえ、国立博物館できちんと見ることができて良かったです。
    とはいえ、この展示室では1番目立っていました。

    Room No. 2: The Age of Anjou King
    (アンジュー王朝時代、14世紀)
    ※アルパード王朝断絶後、選挙王制になってから最初の王がアンジュー家出身のカーロイ・ローベルト(在位1301〜1342)でした。彼はナポリ王、ポーランド王、チェコ王でもありました。
    ところがイタリア出身の、いわば外国人の王である彼を認めない大貴族が多かったため、彼はブダ城に入れず、ヴィシェグラードに王宮を建てて王都としたそうです。
    彼は、ポーランドにドイツ騎士団を招いた王でもあります。その後、ポーランドは、大きくなりすぎたドイツ騎士団勢力の排斥に苦労します。
    カーロイ・ローベルトの息子のラヨシュ大王(在位1342〜1382)も、ポーランド王も兼ねました。ポーランドをヨーロッパの中でも大国とし繁栄させた王です。

    ドイツ騎士団については、2005年のポーランド旅行のときに縁がありました。
    関連の写真
    トルンにあるドイツ騎士団城跡
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/10414648/
    関連の旅行記
    「2005年夏のプラハ・ポーランド旅行20日間 その12 トルン」
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10032323/
    ドイツ騎士団の城塞跡マルボルク城へ行ったときの旅行記
    「2005年夏のプラハ・ポーランド旅行20日間 その14 マルボルク城とオリーバ」
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10032507/

    Room No. 3: The Age of Sigismund of Luxembourg and Janos Hunyadi
    (ルクセンブルグ家のジギスムントとフニャディ・ヤーノシュの時代、15世紀前半)
    ※オスマントルコの脅威にさらされた時代。ジギスムントは、宗教改革の先駆者ヤン・フスを処刑させたチェコ王ジクムントです。ハンガリー王も兼ねました。
    フニャディ・ヤーノシュは中世ハンガリーの最盛期を打ち立てたマーシャーシュ王の父。対オスマントルコの戦いで活躍した英雄です。
    1456年のベオグラードの戦いでは、ハンガリー側が民衆を含めて3万だったのに、10万のトルコ軍を破って奇跡の勝利を導いたといわれています。
    ちなみに、ドラキュラのモデルのヴラド・ツェペッシュの父ヴラド・ドラクルと同時代人でした。

    またブダペストの市民公園にあるヴァイダフニャド城は、フニャディ・ヤーノシュの現ルーマニアのトランシルヴァニアにある居城をモデルとしたものだそうです。
    トランシルヴァニアは、第一次世界大戦後のトリアノン条約でルーマニア領となるまで、ハンガリー領でした。

    関連の旅行記
    「2006年ハンガリーとルーマニア旅行第2目(2)ブダペスト:英雄広場とヴァイダフニャド城」
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10103272/

    ちなみにハンガリー人の人名は英語だと名まえ・姓の順に書かれてしまいますが、和文では本来の姓・名まえの順の表記に改めています。

    Room No. 4: Villages and Towns in the Second Half of the 15th Century to Early 16th Century
    (15世紀後半から16世紀初頭の村や町)
    ※中世ハンガリーが発展した時期の村や町の変化ぶりや経済的豊かさを示す展示。

    Room No. 5: The Age of Matthias Hunyadi
    (フニャディ・マーチャーシュの時代、15世紀後半)
    ※中世ハンガリー最盛期のルネサンス王。マーチャーシュ・コルヴィアヌスとも呼ばれます。ブダ王宮のマーチャーシュ教会は、彼が増築させ、それが今の姿の原形となったため、彼の名前で呼ばれるようになりました。

    マーチャーシュ・コルヴィヌス王については、少し調べて仕入れたばかりのウンチクを書いた旅行記があります。
    関連の写真
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/11491765/
    関連の旅行記
    「2006年ハンガリーとルーマニア旅行第3日目(4)ブダペスト:王宮の丘散策」
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10104710/

    Room No. 6: The Splitting of Hungary into Three Parts; The Ottoman Occupation
    (ハンガリー三国分裂とオスマントルコ占領、16世紀後半〜17世紀)
    ※1514年、ハンガリー史上空前の農民反乱(ドージャ・ジェルジの乱)。
    1526年のモハーチの戦いの敗北により、ハンガリーは、オスマン帝国支配地、ハプスブルグ家支配地、そしてオスマントルコ保護領のトランシルヴァニア侯国の三国に分裂します。

    Room No. 7: Transylvania and Royal Hungary
    (トランシルヴァニアとハンガリー王国、16世紀後半〜17世紀)
    ※トランシルヴァニア侯国とハンガリー王国の市民生活や文化水準の高さを示す展示。
    三国分裂時代は、日本で触れられるハンガリー史の解説ではあっさりとしか触れていないものが多いですが、だからといって決して空白の時代ではありませんでした。
    ハンガリーがオスマントルコ支配時代にハンガリーらしい文化を保てたのはトランシルヴァニア候国の存在があればこそ、だそうですし、「ハンガリー小史」でも「ハンガリー歴史アルバム」でもトランシルヴァニア候国の歴史は詳しかったです。

    Room No. 8: The Expulsion of the Turks 1686〜1699; Aristocratic and Town Relics from the 17th Century
    (1688年から1699年のトルコ追放、17世紀以降の貴族と町の遺物)
    ※160年という長いトルコ支配の間に、ハンガリーの人口は激減し、経済は衰退しました。そのためハンガリーは移民政策をとります。
    この政策によって、ハンガリーは急速に多民族国家となります。
    ちなみに中欧の特徴として、中流貴族の存在が大きいことが挙げられますが、ハンガリーも例外ではありませんでした。

    Room No. 9: The Rakozi War of Independence and the Wars against the Turks
    (ラーコーツィの独立戦争と対トルコ戦争、18世紀初頭)
    ※スペイン継承戦争(1701〜1713年)に乗じて、ハプスブルグ支配に反対する貴族と農民が独立戦争を起こした時代(1703〜1711年)。ラーコーツィ・フェレンツ2世はその反乱を指導した貴族です。
    負けてしまったけれど、ラーコーツィはハンガリーの英雄とされています。
    ハプスブルグ側の報復はすざまじいものがあったそうです。そしてこの後、ハンガリーは100年以上、ハプスブルグ支配が決定的となります。また、ハプスブルグ家はこのときのハンガリーの抵抗に懲りて、さらなる反乱予防策としてハンガリー国内の城塞の破壊を命令ました。
    そのため中世からの貴重な城塞が次々と破壊されてしまい、ハンガリー国内にはほとんど残らなくなります。

    2年前の2004年の国立博物館・初見学で、一番わけが分からなくなったのがこの時代です。「貴族」と「農民」の「対ハプスブルグ独立戦争」というキーワードから、これより前のドージャ・ジェルジの農民反乱(1514年)やこの後のコシュート・ラヨシュの1848年革命と混乱してしまったのです。

    Room No. 10: Hungary in the 18th Century
    (18世紀のハンガリー)
    ※150年のトルコ支配からゆっくり回復し、バロック文化が真っ盛りの頃。
    マリア・テレジア(在位1740年〜1780年)や共同統治した息子のヨーゼフ2世(在位1765年〜1790年)の時代です。
    バロック音楽もまた栄えました。ウィーンやプラハではモーツアルトも活躍した時代です。
    国立博物館ではチェンバロのバロック音楽がBGMとして流れ、楽器の展示もありました。

    Room No. 11: “We Must Extricate Ourselves from the Morass of Decaying Feudalism” by Count Istvan Szecheny
    (「我々は腐敗した封建主義の泥沼から解放されねばならない」セーチェーニ・イシュトヴァーン伯)
    ※セーチェーニ・イシュトヴァーン伯(1791〜1860):ハンガリーの改革時代から独立戦争時代(1848〜1849)を生きた自由主義の政治家。
    彼による鎖橋の建設は有名ですが、他にもハンガリー科学アカデミーの創設、ドナウ川の蒸気船航路の開設、ハンガリーへの競馬の導入など、数々の偉業を、しかも私財を投じて成し遂げました。
    しかし、晩年は、コシュート・ラヨシュらの急進的革命(独立戦争)とその後の進展に嘆き、精神を病んで自殺する、という報われないものでした。
    この展示室の重要人物もう1人:カジンツィ・フェレンツ(Kazinczy Ferenc)(1759〜1831)。19世紀初頭の改革時代の言語改革運動の推進者。ラテン語かドイツ語を使用言語としていたエリート層は、この時代にハンガリー語を使うようになりました。

    Room No. 12: Revolution and War of Independence in 1848-49
    (1848〜49年の独立革命・戦争)

    ※この時代の重要人物その1:ペテーフィ・シャーンドル(Petofi Sandor)(1823〜1849)の肖像もありました。マジャール人の自由を訴える詩により革命の火付け役となった国民的詩人です。

    ※この時代の重要人物その2:革命の指導者コシュート・ラヨシュ(Kossuth Lajos)(1802〜1894)。
    セーチェーニ伯らの上からの改革では生ぬるいとした人ですが、セーチェーニ伯個人のことは尊敬し、その偉業は高く評価していました。独立革命に負けた後、彼だけハプスブルグの報復を逃れ、トルコへ亡命します。晩年は、北イタリアのトリノで政治活動を行い、ハンガリーには戻りませんでした。
    他の革命関係者はというと、ハンガリー軍を指揮した13人の将軍は処刑、穏健派だったバッチャーニ・ラヨシュ伯は、革命政府の首相になったばかりに処刑、そしてペテーフィは革命軍の戦いで、26才の若さで戦死しました。

    Room No. 13: Culture and National Consciousness
    (文化と国民意識、18世紀末〜19世紀初頭)
    ※啓蒙主義、合理主義の時代であり、自由・平等・友愛の概念が普及しました。科学アカデミー、国立劇場、国立博物館がペスト側に建築された時代。

    Room No. 14: Endurance, Compromise and Economic Boom
    (忍耐、妥協、そして経済繁栄)
    ※1867年のオーストリア・ハンガリー二重帝国成立と、その後のハンガリー、特にブダペストの経済繁栄を示す展示。その繁栄の頂点を象徴するのが、1896年のハンガリー建国1000年祭です。
    二重帝国の成立は、オーストリア側(ドイツ語)では「アウスグライヒ(=妥協)」と呼ばれますが、ハンガリー語では、「キエジェゼーシュ」です。
    それまでハンガリーは、ハプスブルグの圧政に抵抗する立場にありました。ところがアウスグライヒによって、いわば独自の国家を持つことにより、今後はその国家を維持するため、国内の少数民族(ルーマニア人、スロヴァキア人、セルビア人など)を抑え込む側になるのです。

    Room No. 15: Education, Science and Culture in the End of the 19th Century
    (19世紀末の教育・科学・文化)
    ※鋳鉄製品、 鉄砲、偉人の記念碑(laurel wreaths for the immortals)コレクションもありました。
    また、この時代は、歴史画全盛期でもありました。主題は、1848〜49年の独立戦争や1867年の二重帝国成立が好まれました。

    Room No. 16: From the Happy Times of Peace until the Collapse of the Monarchy 1900-1910
    (1900年〜1910年、平和謳歌時代から帝国の崩壊まで)
    ※二重帝国成立の後のハンガリーの繁栄時代から第一次世界大戦勃発までの展示。

    Room No. 17: Hungary after Trianon from the Gubernatorial Election until the Last Year of Peace 1920-1938
    (1920年から1938年、トリアノン条約後、普通選挙による総選挙実施後から最後の平和の年までのハンガリー)
    ※1920年のトリアノン条約によってハンガリーは国土の3分の2を失いました。
    また、この両大戦間期間は、ホルティ・クミローシュ(1868〜1957)の独裁体制時代(1920〜1945年)にあたります。
    彼は、共産主義を嫌う勢力を背景にクーン・ベーラ政権を倒した後、国王不在のままハンガリー国王摂政の地位に就きます。1920年よりハンガリーは再び王国となりましたが、ハンガリーはハプスブルグ家のカール1世の復位は拒否しました。

    トリアノン条約については、少し調べて仕入れたばかりのウンチクを書いた旅行記があります。
    関連の写真
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/11484955/
    関連の旅行記
    「2006年ハンガリーとルーマニア旅行第3日目(1)ブダペスト:ハンガリー国会議事堂」
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10104262/

    Room No. 18
    ※Grof Klebelsberg Kunoの言葉が引用されていましたが、ハンガリー語のみ英語のタイトルはありませんでした。英語がなかったので分からず。
    展示は20世紀初頭の文化を示すものでした。ラジオや電話の普及など、市民生活の一環を示す展示。

    Room No. 19: From Revisionist Successes until the Country is Occupied by German and Soviet Troops 1938-1945
    (1938年〜1945年、失地回復運動(修正主義)から独ソ軍占領まで)
    ※トリアノン条約で失った国土の一部を1938年の第一次ウィーン裁定で回復することができます。
    ですが、さらなる失地回復のため、ハンガリーは次第にナチス・ドイツの枢軸国側に傾いていきます。

    Room No. 20: The Evolution and Collapse of the Communist System 1945-1990
    (1945年〜1990年、社会主義の斬新的変化と崩壊)
    ※スターリンの銅像があり、社会主義宣伝ポスターがたくさん展示されていました。
    首相ナジ・イムレは写真がありました。ラジオに向かっているところでした。
    ナジ・イムレは1956年のハンガリー動乱でソ連軍の攻撃を受けたとき、ラジオを使って全世界に救援を求めました。
    「本日未明、ソ連軍は首都への攻撃を開始した。……わが軍は交戦中である。この事実を国民と世界の世論に告げる」

    ナジ・イムレについては、少し調べて仕入れたばかりのウンチクを書いた旅行記があります。
    関連の写真
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/11485065/
    関連の旅行記
    「2006年ハンガリーとルーマニア旅行第3日目(1)ブダペスト:ハンガリー国会議事堂」
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10104262/

    最後の展示室:Hungarian Scientists Who Thought up the 20th Century
    (20世紀の発明を生み出したハンガリー人科学者たち)
    ※亡命先に帰化したハンガリー人を含めると、ハンガリー人のノーベル賞受賞者は意外に多いです。
    意外に、というのは、受賞時にハンガリーにいた人が少なかったせいです。
    最後の展示室は、彼らの紹介と業績を示す展示でした。
    とはいえ、この展示はさっぱり分からなかった上に、私はあまり興味を覚えませんでした。わずかに興味を覚えたのは、ホログラフィーを発明し、ノーベル賞を受賞したデニス・ガボール(1900〜1979)くらいでした。

    新設の展示室:Relics of the 1956 Hungarian Revolution
    (1956年ハンガリー革命の足跡)
    ※企画展だったかもしれませんが、常設展同様、無料で入れました。写真と文書が中心でした。10月23日のハンガリー動乱追悼日が間近だったゆえの展示かもしれません。

    18室目までは入口の説明プレートを読みながら進むことができました。
    展示品を見ているだけで、時代の雰囲気が伝わってくるのが嬉しいです。
    17世紀くらいなると、当時の衣装を復元したものも展示されていてとても興味深かったです。
    しかし、展示品の中で最も目が引き付けられるのは、なんといっても宝飾品や、応用工芸美術ともいうべき品々です。
    私は昔は絵画鑑賞の方が好きでしたが、いまはむしろ応用工芸の方に惹かれます。
    というわけで、早くも第8室目あたりから、国立博物館の次は応用工芸美術館を再訪したい気持ちがむらむらわき上がってきました。

    下調べでハンガリー史の中で比較的念入りに調べたのは、第12室の1948年革命と、新設の展示室の1956年のハンガリー動乱です。
    もっとも、この2つは、世界史的なインパクトのせいか、日本語の書籍やネットで調べてもハンガリー史の中では情報が多かった事件でした。ハンガリー人も非ハンガリー人も共に重視している歴史でしょう。
    といっても、第19室目から第20室目までの展示は、私にとっては2年前と比べても、特になじみになった気はしませんでした。詳しい人に、簡単に説明して欲しいなぁ、ってかんじ@
    基本的に私は、このあたりの現代史は苦手で、避けてきたところがあります。

    国立博物館の見学は、14時10分〜16時10分となりました。
    今回は常設点だけでほぼ正味2時間です。
    岐阜図書プなど回った時間は含まれていません。

    さて、次はどこへ行きましょうか。
    候補は2つありました。応用工芸美術館を再訪して、展示の見学だけでなく建物の写真を撮りまくること。
    それか、2004年に行き損ねた、英雄広場の西洋美術館。
    どちらも本日を逃すと、今回の旅行では行き損ねることになりそうです。
    今宵のオペラの開演は19時です。開場は18時半。
    オペラ鑑賞の前の腹ごなしは、この際、もうマクドナルドでもいいとすると、17時すぎくらいまでは観光できそうです。でも移動時間を含めると、見学に当てられる時間は1時間を切ってしまうでしょう。
    (オペラ座開演まであとはどこも見学せず、優雅にディナーをとる、という選択肢もありましたが、却下。団子より花を取りました@)

    しかし、ラファエロ、レンブラント、ルーベンス、ベラスケス、ゴヤ、ブリューゲルといった超巨匠の作品のある西洋美術館。1時間足らずでは、かえって消化不良を起こすでしょう。中途半端にかじると、見損ねた悔しさが余計に強まりそうです。
    というわけで、残念ですが今回も西洋美術館はあきらめ、代わりに応用工芸美術館を再訪することにしました。
    応用工芸美術館なら、たとえ展示は大急ぎにしか見られないとしても、建物の写真を撮れれば、それなりに満足感を得られるはずです。
    それに、国立博物館の展示を見ている間に、応用工芸美術が見たいという気持ちがどんどん高まりましたから。

  • 終戦直後のブダペストの写真(「ハンガリー小史」から)とトラバント(ミニカー)<br /><br />ブダペストは、第二次世界大戦末期に独ソ軍の決戦の場となりました。両軍はドナウ川をはさんで対戦し、空からはイギリス軍が爆撃しました。そのため、都市の70% が破壊されてしまいました。<br />この写真はその破壊のほんの一角です。鎖橋は崩壊し、ドナウ川に沈んでしまった様子が伺えます。<br />ブダペストでも人気の観光スポットでもあり、私のお気に入りの鎖橋だけに、この写真は特にショックでインパクトがありました。<br /><br />トラバントのミニカーは、この1週間後の10月23日、ハンガリー動乱追悼日に、彫刻公園のギフトショップで買ったものです。<br />彫刻公園は、社会主義時代の彫刻をブダペスト市内から撤去する際、どうせならそれを集めて公園にしちゃえ!としたところです。<br />トラバントも展示されていたので、それに刺激されて、つい買ってしまいました。<br /><br />関連の旅行記「2006年ハンガリーとルーマニア旅行第16日目(1):ブダペストの彫刻公園」<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10126637/<br /><br />トラバントは、私が旅行して見ていた限りでは、ハンガリーではもうほとんど走っていなかったと思います(ただし、意図的に観察していたわけではありません)。<br />でも、一度、路上駐車をしているトラバントを見かけました。<br />それまでトラバントの名前くらいは聞いていましたが、まともに見たことがなかったので、なんとオールドファッションな車だ!と感嘆して写真を撮りました。<br />近づいてみて、トラバントと書いてあったので分かったのです@<br />これがきっかけで、私の中でちっちゃなトラバント・ブームが起こってしまいました(笑)。<br /><br />トラバントのミニカーは、2,650フォーリントでした。<br />(2006年10月現在、1フォーリント=約0.6円)<br /><br />ちなみに私の今回の旅程は、当初ハンガリーだけ回るつもりだったのを、フライトの予約の直前にルーマニアも入れることにしましたが、そもそもルーマニアに関心を抱くようになったのは、ハンガリー史からなのです。<br /><br />まず、現ルーマニアのトランシルヴァニア地方は、第一次世界大戦後のトリアノン条約までハンガリー領だったため、ハンガリー近代史にときどきルーマニアの地名が出てきます。<br />そして現ハンガリーは、ハプスブルグ家によって、そして2つの大戦とその後に駐在したソ連軍によって、歴史的街並みや城などがかなり荒らされてしまったこともあり、ハンガリー人にとって京都のような古き時代の原風景は、ハンガリーにもはやほとんどなく、むしろルーマニアのトランシルヴァニア地方に残っている、ということをどこかで読みました。<br />さらに、ハンガリー近代史をさらっていくうちに、対オスマントルコやハプスブルグに対して独立運動を仕掛けてきたハンガリーと、対ルーマニアやセルビア人、クロアチア人、スロヴァキア人を抑圧する二面性にとても興味を覚えました。<br />それまでさんざんハプスブルグから独立をもぎとろうと戦ってきた成果である国家を守るためとはいえ。<br />二重帝国成立後、ハプスプルグ家をあいかわらずライバル視しつつ、勝利を謳歌していた一方で、あまりにハンガリー人中心で自国内の少数民族であったルーマニア人やセルビア人、クロアチア人、スロヴァキア人を無視してきたため、その反感を募らせてしまいます。<br />特に、1848年革命のとき。一時だけ成立した革命政府の姿勢。<br />そしてその後、紆余曲折を経てオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立し、ハンガリーにとって実質的の勝利を祝うかのようにハンガリー建国1000年祭に酔いしれていたとき。<br />こういう二面性は、もちろん別にハンガリーに限らないのですが、視点と立場を変えると歴史の意味がガラッと変わる例としてとても興味深く思い、今度はルーマニアをもっと知りたいと思うようになったのです。

    終戦直後のブダペストの写真(「ハンガリー小史」から)とトラバント(ミニカー)

    ブダペストは、第二次世界大戦末期に独ソ軍の決戦の場となりました。両軍はドナウ川をはさんで対戦し、空からはイギリス軍が爆撃しました。そのため、都市の70% が破壊されてしまいました。
    この写真はその破壊のほんの一角です。鎖橋は崩壊し、ドナウ川に沈んでしまった様子が伺えます。
    ブダペストでも人気の観光スポットでもあり、私のお気に入りの鎖橋だけに、この写真は特にショックでインパクトがありました。

    トラバントのミニカーは、この1週間後の10月23日、ハンガリー動乱追悼日に、彫刻公園のギフトショップで買ったものです。
    彫刻公園は、社会主義時代の彫刻をブダペスト市内から撤去する際、どうせならそれを集めて公園にしちゃえ!としたところです。
    トラバントも展示されていたので、それに刺激されて、つい買ってしまいました。

    関連の旅行記「2006年ハンガリーとルーマニア旅行第16日目(1):ブダペストの彫刻公園」
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10126637/

    トラバントは、私が旅行して見ていた限りでは、ハンガリーではもうほとんど走っていなかったと思います(ただし、意図的に観察していたわけではありません)。
    でも、一度、路上駐車をしているトラバントを見かけました。
    それまでトラバントの名前くらいは聞いていましたが、まともに見たことがなかったので、なんとオールドファッションな車だ!と感嘆して写真を撮りました。
    近づいてみて、トラバントと書いてあったので分かったのです@
    これがきっかけで、私の中でちっちゃなトラバント・ブームが起こってしまいました(笑)。

    トラバントのミニカーは、2,650フォーリントでした。
    (2006年10月現在、1フォーリント=約0.6円)

    ちなみに私の今回の旅程は、当初ハンガリーだけ回るつもりだったのを、フライトの予約の直前にルーマニアも入れることにしましたが、そもそもルーマニアに関心を抱くようになったのは、ハンガリー史からなのです。

    まず、現ルーマニアのトランシルヴァニア地方は、第一次世界大戦後のトリアノン条約までハンガリー領だったため、ハンガリー近代史にときどきルーマニアの地名が出てきます。
    そして現ハンガリーは、ハプスブルグ家によって、そして2つの大戦とその後に駐在したソ連軍によって、歴史的街並みや城などがかなり荒らされてしまったこともあり、ハンガリー人にとって京都のような古き時代の原風景は、ハンガリーにもはやほとんどなく、むしろルーマニアのトランシルヴァニア地方に残っている、ということをどこかで読みました。
    さらに、ハンガリー近代史をさらっていくうちに、対オスマントルコやハプスブルグに対して独立運動を仕掛けてきたハンガリーと、対ルーマニアやセルビア人、クロアチア人、スロヴァキア人を抑圧する二面性にとても興味を覚えました。
    それまでさんざんハプスブルグから独立をもぎとろうと戦ってきた成果である国家を守るためとはいえ。
    二重帝国成立後、ハプスプルグ家をあいかわらずライバル視しつつ、勝利を謳歌していた一方で、あまりにハンガリー人中心で自国内の少数民族であったルーマニア人やセルビア人、クロアチア人、スロヴァキア人を無視してきたため、その反感を募らせてしまいます。
    特に、1848年革命のとき。一時だけ成立した革命政府の姿勢。
    そしてその後、紆余曲折を経てオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立し、ハンガリーにとって実質的の勝利を祝うかのようにハンガリー建国1000年祭に酔いしれていたとき。
    こういう二面性は、もちろん別にハンガリーに限らないのですが、視点と立場を変えると歴史の意味がガラッと変わる例としてとても興味深く思い、今度はルーマニアをもっと知りたいと思うようになったのです。

  • 国立博物館のギフトショップで買ったおみやげ<br /><br />歴史博物館やおもちゃ博物館に行くと、こういう小さな騎士や兵隊さんの人形で戦闘のジオラマ模型が展示されていたりするものです。<br />それを思い出したので、欲しくなってしまいました。<br />これはそう高くなかったですしね。6個入りで、1,400フォーリントでした。<br />(2006年10月現在、1フォーリント=約0.6円)<br /><br />これは騎士シリーズでした。6つあったうちの3つ並べました。<br />もっとかっこつけた写真を撮りたかったのですが、そうすると細部がよく分からなくなってしまいます。写真の構図としては面白みがないですが、素直に横に並べました。<br /><br />右側の丸い兜を被り、丸い盾を持つ騎士は、1450年代のイタリアの騎士です。<br />そう言われてみると、お腹のあたりに見えるラインは、確かに中世の、あの重そうな鎧です。<br /><br />真ん中の、まるでイギリスのエリザベス一世の肖像画にあるようなふさふさな襟が見えている騎士は、1550年代のローマ教皇直属の騎士。<br />バチカン市国で見られる、あのミケランジェロがデザインしたというカラフルな衣装の騎士の方々ですね。<br /><br />左側のお椀のようなヘルメットをしている騎士は、1300年代のイスラム兵です。<br />服装や盾の文様が、なんとなくアラブチックかもしれません。

    国立博物館のギフトショップで買ったおみやげ

    歴史博物館やおもちゃ博物館に行くと、こういう小さな騎士や兵隊さんの人形で戦闘のジオラマ模型が展示されていたりするものです。
    それを思い出したので、欲しくなってしまいました。
    これはそう高くなかったですしね。6個入りで、1,400フォーリントでした。
    (2006年10月現在、1フォーリント=約0.6円)

    これは騎士シリーズでした。6つあったうちの3つ並べました。
    もっとかっこつけた写真を撮りたかったのですが、そうすると細部がよく分からなくなってしまいます。写真の構図としては面白みがないですが、素直に横に並べました。

    右側の丸い兜を被り、丸い盾を持つ騎士は、1450年代のイタリアの騎士です。
    そう言われてみると、お腹のあたりに見えるラインは、確かに中世の、あの重そうな鎧です。

    真ん中の、まるでイギリスのエリザベス一世の肖像画にあるようなふさふさな襟が見えている騎士は、1550年代のローマ教皇直属の騎士。
    バチカン市国で見られる、あのミケランジェロがデザインしたというカラフルな衣装の騎士の方々ですね。

    左側のお椀のようなヘルメットをしている騎士は、1300年代のイスラム兵です。
    服装や盾の文様が、なんとなくアラブチックかもしれません。

  • 国立博物館のギフトショップで買ったおみやげ<br /><br />騎士のモデル・シリーズのうちの残りの3つ。<br /><br />右側の、やや姿勢の悪い兵士は、紀元前400年代のギリシャ兵です。<br />なるほど、ヘルメットと盾あたりに、なんとなく古代ギリシャ兵らしさを感じます。<br /><br />真ん中の、しっかり兜を被った、長い剣と盾の騎士は、1400年代のドイツの騎士です。<br />左側の、すっきり背の高い兵士は、1400年代のフランスの騎士です。<br /><br />真ん中と左側の2つはさきほどの写真の同年代のイタリアの騎士の方と一緒に並べれば良かったです。<br />それにしても、どれがドイツでフランスでイタリアか、言われてみればなんとなくそんな気がするという程度なので、当ててみろと言われても、私には当てることはできないと思います。<br /><br />ちなみに、もう1つ種類、別のシリーズがありました。<br />なんと、日本の騎士、すなわちSAMURAIでした!<br />武士の人形をこんなチェスか何かの駒のようにしてしまう感覚!<br />おみやげとしては、そっちの方が断然、面白かったですねぇ。どうせなら両方買えばよかったです。残念。

    国立博物館のギフトショップで買ったおみやげ

    騎士のモデル・シリーズのうちの残りの3つ。

    右側の、やや姿勢の悪い兵士は、紀元前400年代のギリシャ兵です。
    なるほど、ヘルメットと盾あたりに、なんとなく古代ギリシャ兵らしさを感じます。

    真ん中の、しっかり兜を被った、長い剣と盾の騎士は、1400年代のドイツの騎士です。
    左側の、すっきり背の高い兵士は、1400年代のフランスの騎士です。

    真ん中と左側の2つはさきほどの写真の同年代のイタリアの騎士の方と一緒に並べれば良かったです。
    それにしても、どれがドイツでフランスでイタリアか、言われてみればなんとなくそんな気がするという程度なので、当ててみろと言われても、私には当てることはできないと思います。

    ちなみに、もう1つ種類、別のシリーズがありました。
    なんと、日本の騎士、すなわちSAMURAIでした!
    武士の人形をこんなチェスか何かの駒のようにしてしまう感覚!
    おみやげとしては、そっちの方が断然、面白かったですねぇ。どうせなら両方買えばよかったです。残念。

  • 国立博物館のギフトショップで買ったおみやげ<br /><br />エキゾチックな文様のキーホルダーと、古代マジャール語の文字が書かれたカード<br />カードの裏はカレンダーになって、キーホルダーと一緒に入っていしました。<br /><br />キーホルダーのモチーフは、古代ローマやマジャール族の武具(盾)でした。<br />全部で12種類ありました。それぞれ12の月と関連づけされていたようです。<br />1つ800フォーリントでした。<br />(2006年10月現在、1フォーリント=約0.6円)<br /><br />私にはとてもエキゾチックな文様に見えて12個とも欲しかったくらいですが、涙を呑んで(?)、2個だけ選びました。<br /><br />ちなみに、このおみやげは、メイド・イン・イングランドでした(笑)。

    国立博物館のギフトショップで買ったおみやげ

    エキゾチックな文様のキーホルダーと、古代マジャール語の文字が書かれたカード
    カードの裏はカレンダーになって、キーホルダーと一緒に入っていしました。

    キーホルダーのモチーフは、古代ローマやマジャール族の武具(盾)でした。
    全部で12種類ありました。それぞれ12の月と関連づけされていたようです。
    1つ800フォーリントでした。
    (2006年10月現在、1フォーリント=約0.6円)

    私にはとてもエキゾチックな文様に見えて12個とも欲しかったくらいですが、涙を呑んで(?)、2個だけ選びました。

    ちなみに、このおみやげは、メイド・イン・イングランドでした(笑)。

  • 国立博物館のギフトショップで買ったおみやげ<br />エキゾチックな文様のキーホルダー<br />騎士シリーズのミニモデルと一緒に並べてみました。<br /><br />このキーホルダーは、カルパチア盆地にやってきたばかりの頃のマジャール族の盾の文様がモチーフだと思います。<br />その写真は、国立博物館で買った歴史冊子「ハンガリー歴史アルバム」に同じような盾の写真が載っていました。<br /><br />同じく盾の文様として、マジャール人の土着宗教に根ざした伝説の鳥トゥルルが描かれたものも、歴史冊子に写真が掲載されていました。<br /><br />トゥルルとは、伝説ではマジャール王国建国の軍を勝利に導いたとされており、「建国の父アルパードを生んだ鳥」とも言い伝えられているそうです。<br />異教徒の偶像なのでキリスト教化と同時にトゥルル崇拝は禁じられてしまいましたが、1456年にオスマントルコが侵入したときに戦ったハンガリー人の旗印は、禁じられていたはずのトゥルルでした。<br />キリスト教化したとはいえ、庶民の心のオアシスは、まだまだ昔からの土着の宗教の方が根強かったということでしょう。キリスト教化は庶民にとっては上から強いられたところがあったでしょうし、キリスト教は崇高な哲学まで高められたところがあるので、シンプルな神頼みやおまもり感覚で頼るには、まだまだ敷居が高かったのではないかしら。<br />トゥルルは、現在でもブダペストの王宮の門(鉄柵の上など)や橋の飾りとしてあちこちで見られるそうです。<br /><br />今回はそのトゥルル探しも頭の隅に置いておいたはずなのですが……残念ながら、これといって見かけた記憶はありません。あっても気が付かなかった可能性はあります。<br />ギフトショップで売られていたキーホルダーの中にも、実はトゥルルの盾のものがあった気がします。<br />ギフトショップでキーホルダーを買うときに思い出していれば、そっちを買ったかもしれません。実際にはきれいに忘れてしまったので、文様の意味など全く関係なく、見た目で気に入ったのを選びました。

    国立博物館のギフトショップで買ったおみやげ
    エキゾチックな文様のキーホルダー
    騎士シリーズのミニモデルと一緒に並べてみました。

    このキーホルダーは、カルパチア盆地にやってきたばかりの頃のマジャール族の盾の文様がモチーフだと思います。
    その写真は、国立博物館で買った歴史冊子「ハンガリー歴史アルバム」に同じような盾の写真が載っていました。

    同じく盾の文様として、マジャール人の土着宗教に根ざした伝説の鳥トゥルルが描かれたものも、歴史冊子に写真が掲載されていました。

    トゥルルとは、伝説ではマジャール王国建国の軍を勝利に導いたとされており、「建国の父アルパードを生んだ鳥」とも言い伝えられているそうです。
    異教徒の偶像なのでキリスト教化と同時にトゥルル崇拝は禁じられてしまいましたが、1456年にオスマントルコが侵入したときに戦ったハンガリー人の旗印は、禁じられていたはずのトゥルルでした。
    キリスト教化したとはいえ、庶民の心のオアシスは、まだまだ昔からの土着の宗教の方が根強かったということでしょう。キリスト教化は庶民にとっては上から強いられたところがあったでしょうし、キリスト教は崇高な哲学まで高められたところがあるので、シンプルな神頼みやおまもり感覚で頼るには、まだまだ敷居が高かったのではないかしら。
    トゥルルは、現在でもブダペストの王宮の門(鉄柵の上など)や橋の飾りとしてあちこちで見られるそうです。

    今回はそのトゥルル探しも頭の隅に置いておいたはずなのですが……残念ながら、これといって見かけた記憶はありません。あっても気が付かなかった可能性はあります。
    ギフトショップで売られていたキーホルダーの中にも、実はトゥルルの盾のものがあった気がします。
    ギフトショップでキーホルダーを買うときに思い出していれば、そっちを買ったかもしれません。実際にはきれいに忘れてしまったので、文様の意味など全く関係なく、見た目で気に入ったのを選びました。

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