2005/07/17 - 2005/07/18
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mozartianさん
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カナダ・アラスカ旅行 番外編(2)
日系カナダ人受難の歴史
南北アメリカ大陸では、第二次大戦関係国の中で、アジア人である日系人だけが不当にも抑留・隔離された歴史があリます。
アメリカのマンザナール収容所などが有名ですが、アメリカの要請で行われたアメリカ本土以外のその事実はあまり知られず、大陸諸国の汚点となっています。
カナダも例外ではなく、米国での大規模日系人収容の陰で、2万2千人に及ぶ日系カナダ人の強制連行のことは余り知られていません。
私は今回のカナダ旅行で、2つの地方の町で“この事実”が、その土地の恥ずべき話として語り継がれていることを発見したのです。
それにしても、プリンスルパート(正確にはポートエドワード)とダンカン、2つの地方の街で日本人の受難の歴史が一旅行者の私の目に留ったのは何かの偶然でしょうか。
その概要を記しておきますが、(2)は“その18”の再録です。
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日系カナダ人の悲劇(1)
宿泊したB&B(写真)の共用リビングルームで、ダンカンの歴史「Small City in a Big Valley:The Story of Duncan」(Tom Henry 著)をふと手にしました。 -
写真は町史の125ページ
そして、その中の第8章「World War ?」(p125〜138)が目に入りました。ここでも、 ポート・エドワードの漁業村と同じ日本人受難の歴史が14ページにわたって記述されていたのです。ゆっくり読んでいるいとまはなかったのでMr. Rensing に頼んでコピーしてもらいました。少し長くなりますが、その概要は下記の通りで、立派な文芸作品に仕上がっておりました。
日本が真珠湾を攻撃すると、カナダも直ぐに宣戦布告した。州の消防長官補佐のW.Oswald は“日本の飛行士の地図にはダンカンにX印が付けられている。ダンカンは中央から離れて、平野や森が広がっているので攻撃を受けやすい。飛行機は西海岸を飛び立ち、爆弾が雨のように落とされ、空にはパラシュートの花が咲き、パラシュート部隊は道路の北側と町の南を占領する。侵入勢力に僅かな損失を与えるだけで、ダンカンは占領された太平洋の島々のように封鎖されてしまう。また空爆によって町は破壊されてしまうだろう、ダンカンは“斧を突きつけられた鶏”のようなものだ。”と言って危機意識を煽り立てた。武装した防衛組織も作られ、戦時意識が盛り上がっていき、必然的に日本人社会にその矛先がが向けられることになった。
ダンカンには1900年代の初めから日本人が住み着くようになり、80〜90人が製材所の労働者、雑貨屋、農業などで暮らしを立て、中国人街ほどではないが小さなコミュニティーができていた。この戦争のビルマ戦線で戦死した二人のカナダ人のうちの一人であるダンカン出身の兵士の物語、カナダ人と結婚して子供のいるダンカンに越してきた日本人女性の物語も挟み込まれて、この地方の風土や人種問題が語られる。
結果的に、この戦争により最も深く傷ついたのは日本人社会であった。ダンカンの政界と事業界エリートの度重なる要請によって、日本人はカナダの市民権を持った2万2千人の他の日系カナダ人とともに沿岸地方から追放され、財産は没収され、売り払われたのであった。この追放と抑留の事実は、戦争というものは、事実であろうと、想像であろうとにかかわらず、理性ではなく感情に走らせるものであることを示すと共に、その感情は60年近く後になった今でも殆ど理解できないものである。
日本人に対する偏見がダンカンの社会に根付いた原因や思想的な背景まで掘り下げたあと次のように結ばれている。
ダンカンの日本人社会が元に戻ることはなかった。土地や家屋は戦争の終わるずっと以前に叩き売られ、家財は略奪された。ジャップランドと呼ばれ畑だったところは、子供達によってマンガ本の題名を取って“ガラブーシュタ”と名付けられたのであった。 -
写真は町史の129ページ
この歴史的な事実がカナダの小さな町で出版されている“町の歴史”の中で、かなりのページを割いて、自分の町の告発とも言うべき書き方で、記録に残されていることに目を覚まされる思いを受けました。カナダの知識人が一般に持つ贖罪意識なのか、この執筆者だけの見識なのかは分かりません。また町そのものが発行に関与しているかどうかも分かりません。しかし、このような内容の、この分厚い町の歴史が出版されて市民に読まれていることが素晴らしいと思います。ある意味では国と町の恥であり、歴史の汚点であって、一般的には公にはしたくない内容であろうに。ダンカンの小さなダウンタウンを歩いて目につくのは書店の多さです。市民の意識の高さがこのような本の存在に結びついているのかなとも思います。6年前にチャーミングに映ったダンカンの街が、今回の旅で私にとって外見だけでなしに、ますますチャーミングな街となりました。 -
日系カナダ人の悲劇(2)
カナダ歴史遺産「北太平洋漁業歴史村」
歴史村の展示と記述には日本人に関するものが多くあります。これは、この地方の漁業産業にとって日系カナダ人の貢献が大きかったこともあるのでしょうが、1942年に、それまでカナダ社会に溶け込んで平和に暮らしていた日本人社会だけを戦争の当事国の一つだということだけで、不当にも葬り去ったことに対して現在のカナダ人社会が贖罪意識のようなものを感じているからかも知れません。実は、この後訪れたヴァンクーヴァー島のダンカンでも偶然にも同じ問題に出会ったのは、当時米国の要請でアメリカ大陸で広く行われたこの暴虐行為が、カナダの有識者層の心の影となっているのではないでしょうか。
2枚目の展示写真には、日系人を襲った悲劇が短い文章で、深い悲しみを込めて語られています。 -
日系漁業者のかかわりを示す展示
写真(日本人漁業者達の気骨)
日系カナダ人の漁師と船大工の技術力と高能率は有名で、南部では早くから大きな漁業集団を成していた。彼等は漁業に従事するために家族と共にStevestonにやってきてこの地方に住み着き、自分達の学校を作り、リッチモンドで最初の病院も建てた。 -
展示(写真)の説明
カナダ政府は1942年に、二次世界大戦の陰りのもとに、沿岸の全日系カナダ人を内部山岳地帯のキャンプに追放することを決定した。
1942年3月21日Port Essington の日本人全員はロープで引かれる無蓋のボロ舟に乗せられて川を渡り、他のスキーナ川缶詰工場から連れてこられた日系カナダ人と一緒にバンクーバー行きの特別列車に乗せられた。 Port Essington の人口はこの日をもって半減したのであった。
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