2006/05/17 - 2006/05/18
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buchijoyceさん
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はじめに
隠岐へ行ってきた。素敵なところだった。あいにく天気が悪かったので、海の色が分からなかったが、海の色を見にまた行きたい。
隠岐へ行こうと誘ったのは妹である。それまでは、私の意識に隠岐という文字はなかった。対馬には行きたいとは思っていたが、隠岐にはまったく魅力を感じていなかった。だいたい太平洋側の人間にとって、山陰というのはイメージが暗い。夏の佐渡にも行ったし、真夏の山陰を山口から鳥取、京都と旅したことはあるのだが、それでもなんとなく暗いイメージがしみこんでいる。はじめて見た日本海。剱岳に登るため、夜行寝台で上野を発って、直江津を通ったとき初めて日本海を見た。その日本海は、どんよりと濁った緑色をしていた。日本海って、なんて暗いんだろう、というのが第一印象だった。それが印象として残ってしまったようだ。さらに隠岐は流刑の地であったことも、流された都人たちの悲しい和歌からも、なんとなくイメージを暗くしていたのだろう。
妹に誘われて、隠岐のことを調べた。岩ガキがある。食いしん坊の私にとって、岩ガキは魅力だ。で、二つ返事で行くことにした。そこからである。「島の旅」というガイドブックを買った。読み物として「街道の日本史37 鳥取・米子・隠岐」を買って読んだ。実におもしろかった。というのも山陰の歴史には詳しくない。だから書いてあるもの、全てが新鮮で、興味深いのである。隠岐はずいぶん豊かで歴史のある島だったのだ。
この中に出てくるラフカディオ・ハーンの「伯耆から隠岐へ」は松江の小泉八雲記念館で買って、帰りの電車の中で読んだ。彼の描写力にはうならせられるものがあった。写真で映像を切り取ってしまうから、いつしか文章で描くことを忘れてしまっている自分を反省した。
隠岐は大小180もの島々から成っている隠岐諸島である。人の住む島は4つ、大きい島が島後(どうご)、島内の町村が合併して隠岐の島町になった。人口は17,063人(H18)。あとの3つの島を島前(どうぜん)と呼ぶ。中ノ島は海士町、人口2,494人、西ノ島は西ノ島町、人口3,524人、知夫里島は知夫村、人口738人、1島1自治体になっている。
離島の旅というのは、特に最初は、行き当たりばったり、というわけにはいかないようだ。私は行き当たりばったりの旅が好きなんだが。ガイドブックを見ると、さらに追い討ちをかけるように、予約して行った方がいいと載っている。飛行機も、高速船も、ホテルも、観光タクシーも早めに予約した。予約したことでよかったのは観光タクシーの平野さんとのメールのやり取りであった。平野さんの客をもてなそうという誠実な気持ちがメールに現れていた。観光を考えるなら、ウチの町も客をもてなそうという気持ちが大事とつくづく感じた次第。私の興味も伝えておいたので、前もって調べておいてくれた。おかげで隠岐空港で初めてあったのだが、旧友にあったような気楽さで、すぐ打ち解けて、たのしかった。
予定を5月中旬にしたのは、隠岐の年間平均降雨量や日照率を比較し、シーズンをはずしてこの時期を選んだのだったが、今年は異常気象、天気予報は旅の間はずっと、ぐずついた空模様だと期待薄の予報をしていた。予約をしていなければ、日程の変更も出来たのだが、そういう意味では決まった日程は辛い。次は平野さんにお願いして、お天気を見定めてひょいと行きたいと思っている。
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参考:街道の日本史
「街道の日本史37 鳥取・米子と隠岐」
但馬・因幡・伯耆
錦織 勤 池内 敏 吉川弘文館
隠岐に行こうと思っている。そこで資料を集めている。パンフは隠岐の観光協会から送ってもらった。「島の旅」というガイドブックも買った。もう少し、読み物的なものがほしいと、ブックサービスを探すと「鳥取・米子と隠岐」というのがあったのでそれを取り寄せた。読み始めると郷土史のように詳しい。大体、山陰についてはよく知らないから、地図を見ながらの読書となった。しかし、知らないがゆえにへぇ〜と思うことばかりで、すっかりのめりこんでしまった。鳥取の県史と言ったらいいだろうか。
隠岐は島根県である。それをどうしてここに入れたのか、たぶん鳥取県の境港から船が出ているからだろうと、よそ者は勝手に思っている。隠岐というのは火山で出来た島で、4つの人の住む島と180の小さな島からなる。一番大きな島、島後(どうご)とあとの3島をいっしょにして島前(どうぜん)と呼ぶ。島の歴史も古くからある。
「街道・・・」は、豊岡から鳥取までを歩き始める。行政区として今は兵庫・鳥取ということになる。「街道・・」は隠岐も加わるから、兵庫・鳥取・島根の3県にまたがることになる。豊岡往来、因幡道と続く。ほぼ国道9号線にそっているようだ。先ずは、その街道沿いにある町や村の成り立ち、支配層の履歴、神社仏閣、名所旧跡など、さまざまな詳しい説明がある。
地理的に興味を持ったのは、山陰と山陽との関わりだ。関東の人間には中国山脈が屋根のように中央を走っているから、山陰と山陽との往来は少なかったろうと思っていたら、古来から山陰に入るには峠を越えて山陽から入っていたのだった。たまたま隠岐からの帰りに米子から倉敷に抜けようかと時刻表を調べたら、すこぶる電車の便がいいことに気がついた。意外だった。本を読んでなるほどと納得した。昔からの往来の所以なのだろう。
山陰からの人や物は、この山脈を越えて山陽に出て、畿内へ向かっていく。山陽側は河川交通が発達していた。河川はならだかで水量豊かであった。非常に古い時代から河川水運が上流まで通じていたから、山越えをしてもこちらの方が便利だったようである。高瀬舟である。
とかくよそ者は山陰という言葉でひとくくりにしてしまいがちだが、関東と言っても地方には個別の文化があり、ひとくくりは出来ないように、山陰もまた地域それぞれに独特の歴史、文化を展開してきたのだ。 国道9号線は車で走ったことはあるのだが、いかんせん時が経ったので、断片的にしか覚えていない。この本を読んだので、再度本を頼りにゆっくり訪ねてみたいと思っている。
それとはじめて気がついたのだが、山を「せん」と読むようである。大山(だいせん)蒜山(ひるぜん)という地名は知っている。行ったこともある。しかし地図を眺めていると、やたらと「せん」というルビに気がつく。氷ノ山(ひょうのせん)、扇の山(おうぎのせん)など。
鳥取を過ぎ、砂丘を越えて、米子に向かう道は伯耆道。白兎海岸の近くに湖山池というのがある。子どもの頃、この池の伝説を読んだことがある。長者の広いたんぼに田植えをしていたが、日没前に終わりそうもなかった。そこで長者は太陽に向かって、扇をふって太陽を沈まないようにさせ、田植えを終わらせることができた。翌朝目を覚ますと、長者の田んぼは池になっていた、というような話であった。
この街道には興味をそそる遺跡がずいぶんある。初めて知ったのだが、妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)などは訪ねて見たい遺跡の一つである。弥生時代のムラの遺跡である。 まだ解明途中のようだが、興味をそそることこの上なしの遺跡である。
明治になって島根県に併合された鳥取を視察に来た山県有朋は鳥取藩士たちの窮乏に心を痛め、その結果、藩士たちの福島県や北海道への開拓移住が行われた。もちろん海外への移住も行われた。以前、徳島藩の洲本の藩士たちが北海道へ移住した苦労の歴史を読んだことがある。鳥取といえば有名な青ナシ「二十世紀ナシ」は松戸のナシを改良したものだったのだ。
隠岐をちょっとまとめておこう。
隠岐は縄文時代から本州と往来があった。それは隠岐産の黒曜石が山陰各地の遺跡から発掘されていることからわかる。律令時代には隠岐国が置かれ、中世、鎌倉期には守護として佐々木氏が、南北朝期には40年ほど、山名氏の領地であったが、その後また佐々木氏の支配になった。鎌倉期には守護として関東人が任じられ東西の交流になっていたようだ。関が原の戦い後、松江藩、その後から幕末までは天領(幕府の直轄地)であったが、実質的には預かり地として松江藩が支配していた。江戸時代の隠岐は、北前船の寄港地として栄えた。
隠岐騒動が起きたのは1868年、以前から松江藩に対して嘆願書を出していたが認められず、あげく郡代が庄屋あての文書を勝手に開封してしまったことに端を発し、島後の島民が松江藩に対して抗議し、郡代を追放、自治政府をつくった。ただしこの自治政府は81日間で、松江藩兵300人の攻勢にあって敗れ去った。自治政府側の死者は10人、逃亡者100人を越えた。これにより隠岐は鳥取藩に管轄がえとなった。一方、島前は一貫して松江藩に同調する動きをみせた。それは島前の代官に不満はなく、島前の島民は騒動を起こす必要性はなかったからだという。
隠岐は1871年、鳥取に移管されたが、1876年、鳥取県を併合した島根県に入る。1881年、鳥取県は再び県として置かれたが、隠岐は島根県にとどめられた。といってもことはすんなりいった訳ではない。
美保関には中世を通して関所が置かれていた。山陰の重要な港は美保関、小浜浦、長浜浦であった。隠岐船は美保関港に入るたびに関役を払っていた。どうも隠岐の船だけに納入義務があったようである。ということは美保関にとって隠岐船は重要であったといえる。たしかに膨大な関役が上納されている。隠岐の物産の豊かさが伺える。江戸時代には唐貿易の輸出品として俵物(干なまこ、干あわび、ふかひれ)の主産地になった。増産が求められ、よそからの海士の導入が図られたが、かえって乱獲による資源減少で、1806年には中止になった。「牧畑」という独特の農牧の仕方は注目されてきた。
山陰線が鳥取まで開通したのは1908年、開通式で原敬鉄道院総裁の挨拶で、「裏日本交通実現の端緒」と発言。ここから「裏日本」という対比語が使われるようになった。
1892年8月、ラフカディオ・ハーンが隠岐に渡っている。「伯耆から隠岐へ」という著書があり、その内容の抜粋が紹介されているがおもしろい。 境港と隠岐が汽船で結ばれたのは1885年2月のこと。隠岐4郡町村連絡会が汽船の購入を提案し、反対が強く実現は危ぶまれたが、焼火(たくひ)神社の神主の尽力で実現された。
この船でハーンは隠岐に渡ったのである。船に乗るときハーンは洋服から和服に着替えた。ハーンには「西郷(島後の港町)は驚きであった。」家屋は明るく、「青い屋根瓦」は色鮮やかであった。 「フライド・ポテトつきのビフテキかローストチキン」を注文してもよいと言われたが断った。そんなことをしなくても「食事はびっくりするほどいいし、珍しいくらい変化に富んで」いた。 ハーンはすこぶる隠岐が気に入った。ただひとつ、はじめて島を訪れた外国人みたさに島人がひっきりなしに訪れる以外は。 「後ろ髪ひかれるような思いで」島を後にしている。 島では「どこまでも伸びていく文明の圧力からのがれているという喜び」や「人間生活の万事が人工づくめな領域をこえて、本当の自己を知る喜び」が感じられ、「わたくしは隠岐が好きになった」と記している。
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◇旅の始まり
5月17日(水)
真鶴は高曇りで光も漏れていた。西に向かうにしたがって、空模様が怪しくなり、どこからか雨が降り始めた。予報どおりだ、仕方がない、とあきらめる。指定席は買えなかったので自由席で行った。名古屋までは「こだま」だったので空席があったが、名古屋で「ひかり」に乗り換えると空席はなく新大阪まで立っていた。新大阪構内でバス乗り場を教えてもらい、降りていくとちょうど空港行きのバスが発車寸前。あわてて乗り込む。雨が激しく窓ガラスを打つ。やがて大阪(伊丹)空港。先ずはチェックインを済ませ、昼食を食べに行く。時間はたっぷりある。
今回は国内旅行だから、もちろん手荷物、バッグひとつだが、これにはノートパソコン(1kg)が入っている。これはPapasanが持つ。私はいつものように大きなカメラバック。フィルムは鉛の袋に入れず、カメラバッグにそのまま入れた。だからこれがチェックで引っかかることはなかったが、かわりにパソコンが引っかかった。「このパソコン、いつもお供して行くけど、ひっかかったのは初めてよ〜」一応中を開けさせたけど、何を調べたんだろう。
待合室にいると、妹のA子さんが来た。今回の旅の全員、といっても3人がそろう。妹との旅行は八重山に次いで二回目。飛行機に乗り込む。プロペラ機だ。空いている。Papasanはさっそく空いている席に移動。そこで各自窓側に座ることになる。隠岐までは一時間のフライト。雲で外は真っ白。で、うとうとしてしまった。ふと目を覚ますとすぐ下に島が見える。緑に覆われた、でも海岸崖が目立つ。いくつも島がある。その間の海には赤潮がすじを引いている。漂流物も見える。飛行場は島後の西郷にある。
飛行機は西郷空港に到着。雨は止んでいる。出口で「平野さ〜ん」と呼ぶと「は〜い」といって平野さんが現れた。自分のことをいかりや長さん風と言っていたが、いえいえ、長さんよりよっぽどハンサムだし、親しみやすい。荷物をトランクにいれ、私はカメラバッグを抱えたまま車に乗り込む。Papasanは助手席、私とA子さんは後ろに。カメラバッグは真ん中に座った。「こんなお天気だからお任せ」というと「史跡は逃げませんがお天気は変わりますから、景色を優先させましょう。遠くから行きましょう」と車が走り出した。赤い大きな橋を渡り、広い道路を走っていく。行きかう車はほとんどない。「離島振興で無駄な道路を作ってますね」と冷やかすと、「そうです。後で通りますが立派なトンネルもありますよ」と平野さんも苦笑した。
白鳥展望台、白い岩肌の岩石が亀のようにはいつくばっている。背中に松を背負って。白い砂が海の青さをエメラルドグリーンに引き立てている。きれい。
ローソク島も上から見た。島後での私の関心事はこのローソク島に夕日がかかるのを見ることだった。ちょうど、岩の天辺の細い部分に夕日がかかって、あたかもローソクに火をともしたようになるのだという。しかしあいにくと今日は曇り。これは海上からでないと見られないのだが、今日は夕日は見られそうもないので割愛。しかし、シャクだ、もう一度来なくっちゃ。
ウグイスがさかんに鳴いている。中世から隠岐国一宮だった水若酢神社(みずわかすじんじゃ)。本殿は18世紀末の建築で国の文化財に指定されている。いつものように「ね、ここの神さまはどなたでしたっけ」といいながら、お天気をお祈りする。
隣は隠岐郷土館。明治の建築でずっと役所に使われていたハイカラな洋館を移築したもの。つるつるの床なのに靴をはいたままでOK。申し訳ないようなきれいさだ。チケットを買っていて遅れてきたPapasanは靴を脱いでスリッパに履き替えて来た。「スリッパに履き替えるのは下駄の人だけって書いてあるよ」「あんまりきれいなので土足では申し訳ないと思って」ほんとにそうだ。
民俗資料はさほど変わったものは見つけられなかったけど、隠岐の動植物の写真はたのしかった。貝殻もきれいに飾られている。隠岐固有の動植物の書物があったらほしかったけど。目に留まったのは資料館の前に置かれたこの石。なんだろう?
駐車場から石段を登ること100m余り、坂の途中に板で作った縁台のような展望台がある。そこから振り返るとトカゲ岩が見える。トカゲというかイグアナというか、オオトカゲが崖をよじ登っているように見える。26mもあるトカゲの尻尾の部分が岩にくっついている奇岩ではある。自然の造詣にただただ感心している。平野さんは日本三奇岩のひとつで、と岩石の説明もしてくれたが忘れてしまった。
びっくりしたのは乳房杉(ちちすぎ)、樹齢800年だというが、下垂乳房根(鐘乳根)がまるで年を経たイチョウの古木ように垂れ下がっている。こんな杉はじめてみた。なんとも迫力がある。まして天候が悪いから杉は、なお幽玄に見える。
「隠岐は最近2つのことで話題になりました」と平野さん。
「竹島問題ね。私も境港を気にして見ていたわよ」
「竹島には昔は五箇村の漁師さんが行っていました。しかし戦後は近づくこともなかっので、こういうことになってしまったようです。もうひとつは産科医がいなくなってしまったことです。そのため妊婦は松江の産科へ前もって行かなければならなくなって」「うん、ニュースをみましたよ。なら助産婦さんを確保すればいいんですよ」「いや産婆はいるんです」「ならそれで十分じゃないの。お産は病気ではないし、異常分娩は数が少ないんですよ。異常な人は前もって分かるからそれこそ前もって、病院へ行っていればいいんだし、私達だってみんなお産婆さんに取り上げてもらったんですよ。妊産婦が意識改革しないとね。」
平野さんは私よりは若く、ちょうど弟ぐらい。だから子どものときの食べものや遊びに共通点がある。話が合う。
展望台へ行く途中、標識が立っていた。ここから竹島まで166kmとある。竹島は島根県の行政区に入っている。
石楠花(しゃくなげ)園にも寄った。ここのオーナーの元村長さんだったかが、自分で1万本もの隠岐石楠花を育てて、この石楠花園をつくったのだそうだ。斜面いっぱいに石楠花が咲きそろってあでやか。隠岐石楠花は日本でも最も低地に自生している石楠花で、葉が小さくて丸みを帯びていて、花の色はピンクか白でか花弁の先が7つにわかれているのが特徴だそう。蜜を吸いにクマバチがたくさん花にもぐりこんでいる。
佐々木家へ寄った。もう開館時間を過ぎてしまっていたので、中は見ることは出来なかったが、隠岐独特だという屋根と、隠岐作りという玄関が3つあるのは見て取れた。玄関のひとつは役人など位の高いお客さんが入る玄関、二つ目が一般の人の入口、3つ目がそれ以外、と身分で決められていたそうだ。
帰りに酒屋さんに寄ってもらい、私は隠岐誉の純米大吟醸と純米吟醸を買った。晩酌のためにである。隠岐ビューポートホテルについた。明朝は8時半にと約束して、チェックイン。私たちの部屋は4階、レベルアップしたとかで、部屋は広い。ツウィン・ベッド、たっぷりした応接セット、会議が出来そう、さらに畳を敷いた和のコーナーもある。ここだって会議が出来そうだ。カーテンを引くと、目の前は波止場、胴体に大きな鬼太郎の絵がついた大きなフェリーが止まっている。そうか、そうか、境港は鬼太郎(きたろう)の町だった。
買ってきた酒を冷蔵庫に入れ、パソコンをつないで、デジカメの写真を取り込み、メモリーをゼロにして、とそんなことをしていると夕食の時間になってしまった。Papasanはビールを飲んだからいいけれど、私はちょっとお茶でのどしめし。2時からずっと移動していて、お茶を飲むこともなかったから。
レストランから海が見える。灯りのない岬の先端に、灯台の火が赤くともっている。
「あれがローソク島ね、明日、平野さんに会ったら、ローソク島、見たって言わなきゃ」と笑っている。
すると、サービスの女性が、「いつもはあの灯台のあたりにいさり火が並ぶんですよ」と教えてくれた。お酒を聞くと隠岐誉の上撰しかないという。「そこで買ってきたんだけど味見をしたいから飲んでもいい」と隠岐誉の瓶を見せると、「どうぞ、どうぞ、美味しかったらたくさん買っていってください」と冷酒用のグラスをもってきてくれた。まだ冷えてはいなかったが、隠岐誉の純米大吟醸、すっきりしていて美味しい。これはいい。1本あけた。また買おう。お料理は、ヒオウギ以外忘れてしまった。お土産になさいますかと言って、ヒオウギを洗ってラップしてくれた。3個のヒオウギは赤、黄、紫と色ちがい。とってもきれい。「貝は水がかかっているときれいな色を保っているんですよ、だから鉢の周りに並べるといいですよ。稚貝はみんな同じように茶色っぽい色をしているんですが、大きくなるにしたがって、さまざまな色になってくるんです」「へぇ〜、驚いた。ということは、貝の意志で色を決めるのね。」ヒオウギは帆立貝の仲間のイタヤ貝科である。だから味も美味しい。
朝早かったこともあって、マッサージを頼んで、早々に寝てしまった。夜中に目は覚ましたが、とうとう朝まで起きることはなかった。
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この旅行記へのコメント (4)
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- anyaさん 2007/01/31 03:49:40
- 遠くなって しまった自分にびっくり
- 懐かしく 見せて頂きました。
実は、思い出す場所の ほとんどがありました、ありがとうございます。
多くの場所を観て感じた 慣性なのか?なぜだろうと不思議に感じます
隠岐西郷の出身です。
暫く帰っていません 両親が亡くなり 遠くなってしまいました。
でも 懐かしく思い出します。
表現しにくいのですが 私の想い出になぜかぴったり
ありがとうございました。
- buchijoyceさん からの返信 2007/01/31 10:49:00
- RE: 遠くなって しまった自分にびっくり
- 西郷のご出身ですか。隠岐はいいところですね、心残りなので、また行くつもりです。親が亡くなると、ふるさとは遠くなるものですが、思い出してまた帰ってあげてくださいね。
島後でお世話になった平野さんが生きたズワイガニを送ってくれました。茹で方つきで。美味しかったです。な〜んかすっかり隠岐が身近になりました。
八尾川。本文にはちゃんと八尾(やび)と書いてあるのですが、写真の説明には矢尾となっていました。すみません。さっそく訂正しておきました。
-
- コクリコさん 2006/06/28 07:34:16
- 隠岐!
- 初めまして。コクリコと申します。
隠岐諸島、あまりに懐かしくて書き込んでしまいました。
若かりし20年以上前、隠岐4島全て泊まり、とても素晴らしい体験をしました。続けて3回行きましたがその後は全く行っていません。
変わってしまったらどうしようとハラハラ拝見しました。
町は当たり前ですが変わっているようですが、海は変わっていないみたい!
お写真を拝見し安心しました。
当時は水若酢神社(島後)、たくひ神社(西ノ島)、隠岐神社(中ノ島)、知夫神社(知夫里島)に泊まりました。
行きたいけれど、あまりに遠いです。
懐かしい写真と旅行記ありがとうございました。
- buchijoyceさん からの返信 2006/06/28 13:50:30
- RE: 隠岐!
- はじめましてコクリコさん
昨日初めて投稿したので右も左もわかりません。
写真のいれ方も。で、途中で切ってしまったのです。
まだまだ続きますので、読んでいただければうれしいです。
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