2006/06/04 - 2006/06/04
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チャクリー王朝
これが現在の王朝ラタナーコンシンと言われる時代、王宮をはじめ、数々の名所があるタイの首都、バンコク。アユタヤ王朝崩壊後の1767年、トンブリー王朝が都としたのは、現在のバンコク市街チャオプラヤー川をはさんだ対岸の地区で、1782年プミポン国王につながるチャクリー王朝が、現在の市街地に遷都した。400年間以上の王権の後、1767年にアユタヤー王朝は隣国ビルマ軍の侵入により破滅、首都は焼き払われ、国は6つに分割されました。
タークシン将軍は、新首都トンブリーを拠点としてタイ王国を再統合することに成功し、1769年に王となり、これがトンブリー王朝です。しかしその後、タークシン王は精神の病に侵され、1782年にチャックリー将軍がチュラローク王(ラーマ1世、チャクリー王朝の最初の王)としてその後を継いだのです。ラーマ1世はトンブリーからチャオプラヤー川を渡った河口の平原バンコクに新しい首都を建設し、ラーマ1世の後継者達は、1826年に隣国ビルマに英国が勝利した後、次第にヨーロッパ諸国の植民地主義の脅威に晒されるようになります。アジア地域における西欧列強の力をタイが認識したのは1826年の英国との友好通商条約であったと言われ。1833年には、アメリカもタイ王国と外交上の交流を始め、タイは1939年まで(その後、再び1945年〜1949年の期間)招かれた。しかし、タイが西欧勢力との間に堅固な国交を確立したのは、その後のモンクット王(ラーマ4世、1851 - 1868年)と彼の息子チュラーロンコーン王(ラーマ5世、1868 - 1910年)の時代のことであった。この2人の君主の外交手腕がタイ政府の近代化改革を発揮したことで、タイ王国はヨーロッパによる植民地支配から免れた唯一の国となったのである。イギリスとフランスの植民地にはさまれて、両大国の緩衝国となったことも大いに役に立つこととなる。この歴史は、1949年5月11日に公式に宣言された現在の国名 Prathet Thai(ประเทศไทย)(1939年から1945年の間も非公式に使用されていた)に反映されており、prathet(ประเทศ)は「国家」、thai(ไทย)は「自由な」を意味している。
民主主義時代のタイ1932年のクーデターは、タイの政府を絶対君主制から立憲君主制へと移行させ、ラチャーティポック王(ラーマ7世)は最初この改革を認めたが、その後、10歳の甥アーナンタ・マヒドンに王位を譲渡した。退位の際、プラチャーティポック王は、統治者の義務とは万民の利益のため統治することであり、限られた小数のためではない、と言った。
1940年に日本軍が仏印に進駐すると、国境地帯において、タイは旧領回復のために出動し、12月にはフランス軍との戦闘となる、翌年1月に日本の仲介により講和を締結し、仏印の一部を自国領に併合した。これ以後、アジア地域に拠点を欲する日本はタイに接近した。1941年12月8日に、日本軍が英領馬来攻撃のために、タイ南部シンゴラに奇襲上陸すると、日本軍との小規模な戦闘は起きたものの、その後は日本軍の通過を認めた。1941年12月21日には日泰攻守同盟条約を締結し、日本の同盟国となった。1942年1月25日に米英両国に対して宣戦布告し、大東亜戦争(太平洋戦争)に枢軸国として参加したが、1945年に敗北となった。アーナンタ・マヒドン王(ラーマ8世)は翌1946年に多少不可解な状況の死に方をしており、公式見解としては銃の手入れ中の暴発事故だという。彼に続いてプーミポン・アドゥンラヤデートが即位し、タイ王国で最も長く王位に就き、タイ国民に非常に人気のある君主である。冷戦期は、ビルマ、ベトナム、カンボジアおよびラオスのような近隣諸国の共産革命に脅かされ、タイは共産主義の防波堤として米国の支援を受け、東南アジア条約機構(SEATO)の一翼を担った。ベトナム戦争では米国側に立ち、ラオスおよびベトナムへの派兵を行い、北爆のための空軍基地の開設も許可した。また、タイは米軍の補給・休養のための後方基地でもあったため、バンコクをはじめとしてタイは経済的に発展し、リゾート開発も進んだ。東南アジア諸国連合(ASEAN)の積極的な参加国でもある。ラーマ9世期のタイが立憲君主政体であったのは名目上であり、1992年の選挙までの間、短期間の点々とした民主主義以外は、一連の軍政(最も顕著なのはピブーンソンクラームとサリット・タナラットによる)に動かされた。1992年の民主選挙以来のタイは、政府が憲法上の手続きを踏んで機能する民主主義国家となったのです。
ここまでがチャクリー王朝の歩んできた道のり・・・タイの国として知られている部分・・その深い歴史まで遡ると??皆さんがご存知のアユタヤ王朝でアユタヤの遺跡があり・・そして更に遡るとスコータイ王朝・・・そしてスコータイ遺跡があるわけです。
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先史時代
東南アジアでの人類の居住は、50万年以上遡ります、バーンチエンにおけるような最近の考古学の研究によると、紀元前4000年までには、現在のタイの土地に初期の青銅器文明の中心地として栄えた時代があったとされています。しかもこれらの発展が水稲の耕作に伴い、社会的政治的な組織構成が進んだのだろろうと考えられて来ました。
タイから中国も含むアジア全域までこれらの革新が伝わった可能性を唱えた研究もあります、それはマレー人、モン族およびクメール人の文明が繁栄していた証拠でもあるのです。
現在この地に住むタイ人は、中国南部起源の民族と言語的に関係があり、6世紀〜7世紀に、中国南部から東南アジアへと移住した可能性が大きいだろうと言われています。では日本はこの頃どういう時代にいたのでしょうか??
この頃の日本は・・538年頃で仏教伝来したのが645年頃といわれそして、大化の改新奈良時代 710年〜を経て平安時代 (桓武天皇)794年〜 鎌倉時代 (源頼朝) 1192年〜 へと移って行きました。 -
アヨーティヤー王国
代 王 タイ語 在位 タイ仏暦
1パトゥムスリヤウォン王พระเจ้าปทุมสุริยวงค์
2マハーサムットサーコーン王 พระเจ้าสมุทรสาคร
3チャンタララーチャー王พระเจ้าจันทรราช
4ルワン王(プラ・ルワン)พระเจ้าร่วง
5ルー王 พระเจ้าลือ
6コードム王พระยาโคตม
7コートラボーン王 พระยาโคตรบอง
8クレーク王พระยาแกรก
9チャンタチョート王พระเจ้าจันทรโชติ ?-880年
10ナーラーイ王พระนารายณ์ 880−949年
11ルワン王プラチャオ・ルワンพระเจ้าหลวง949-1027年
12サーンナムプン王 พระเจ้าสานน้ำผึ้ง1027−1058年
13タンミカラート王 พระยาธรรมิกราช1056−1107年
こうした歴史を通り過ぎてやっと
正統王朝 である スコータイ王朝へ入り
スコータイ王朝(ราชอาณาจักรสุโขทัย、13世紀 - 1438年)はタイ族最初の王朝と言われ、スコータイ遺跡公園にある壮大な王室寺院・ワツト・マハタートなど当時の往時の華麗な文化を今に伝えています。これらの寺院はスコータイを観光する上で重要な歴史が幕を開けた古都スコータイともいえるものでクメール人の支配を脱れ、タイ族を統一した初めての王朝が建国された時代だったのです。タイ文字の考案など、今のタイ文化の基盤が確立された重要な時代でもあったのです。この頃の日本は 室町時代 (足利尊氏) 1338年〜 ・1397年 金閣寺建立 (足利義満)など戦国の時代でした。 -
アユタヤ王朝
アユタヤ王朝になると日本からは山田長政がタイへ出向いて来ている。彼が活躍した日本人町は、今もアユタヤの観光名所として残っている1350年から35代の王が生まれその歴史は400年以上続いきました、その間アユタヤ王朝の都として栄えて行くのです。17世紀以降河川を利用した国際貿易都市として、インドシナ半島で最も繁栄した街として欧米など外国人もこの地に移り住んでいます。
アユタヤ王朝(1351年 - 1767年)はタイの中部を中心にしたタイ族による王朝。ラーンナー王朝の血筋を引くウートーン王がスコータイ王国から、領土を奪い成立、首都は現在のアユタヤである。時代と共に貿易が栄え中国への米の輸出で力をつけた外、日本や東アジア国家、東南アジア。アラブ、ペルシャ方面、西洋などと貿易を行い、現在までのタイの国を作り挙げています。富を得たことでタイの国内では世界各国の文化の影響を受け独自に華やかな文化が広まります。
チエンセーンから移住してきた(スパンブリー起源説もある)ウートーンが現在のアユタヤ付近チャオプラヤー川西岸に到来し都市国家(ムアン)の建設を行った(1349年)。翌年、ウートーンはこれを東岸に遷都し、クルンシーアユッタヤータワラーワディーと名付け(以下アユタヤと表記)、ウートーン自身はラーマーティボーディー(王中のラーマ)と称した。
ラーマーティボーディー(1世)は国内統一のため、セイロンから仏僧を招いて上座部仏教(小乗仏教)を国家の公式な宗教とするとともに、ヒンドゥーの法典であるダルマシャスートラやタイでの慣習を元にタンマサート(三印法典)を整備した。
このタンマサートと呼ばれる法典は近代的な法典が整備される19世紀までタイの基本法典として広く伝えられています。
14世紀末までアユタヤ王朝は東南アジア最大の勢力として見られて来ますが、完全に東南アジア地域を圧倒するだけの人口に欠け、このため当時弱り切っていたクメール王朝へ勢力を伸ばしつつあったベトナム勢力に対抗するため、ラーマーティボーディーは晩年アンコール(クメール人の都市)を攻撃しアユタヤの支配下に加えますそれが既に1362年のことでした。
アユタヤはアンコールを完全に支配下に置くことが出来ず、スコータイ王国でたびたび起こる反乱やや南下を試みるラーンナー王朝に悩まされます。ラーマーティボーディーはスコータイをその支配下に置き、ラーマーティボーディーの死んだ翌年の1364年、中国の新興国家、明がアユタヤ王朝をスコータイ王朝の跡を継ぐ正式な国家と認定したのです。
15世紀になると今度はマレー半島のマラッカ王国がアユタヤの悩みの種となります。 -
現在のチャクリー王朝ラマ9世ファミリー
ラマ9世ことプミポン国王陛下とシリキット女王陛下との出遭いとラブロマンスは羨ましい限り・・其れはまさに当時のラブストーリーの如くだったのです。
プミポン国王陛下は1927年(タイ仏暦2470年)12月5日、アメリカのマサチューセッツ州ケンブリッジに生まれました。
ラーマ5世の69番目の子息であるソンクラーナカリン親王がお父様に当り、殆んど幼少の頃は外国生活を送られて折り学業はスイスのローザンヌ大学をご卒業されています。学業中にいったん休学して1945年(タイ仏暦2488年)タイへ帰国しますが、翌年の6月9日に兄ラーマ8世アーナンタの死によりそれから12時間後にはタイの国王として即位しています。しかし学業が終了していないことから、すぐにローザンヌ大学へ復帰して、1952年(タイ仏暦2495年)にタイへ帰国して来ました。そして運命の出遭いでフランス滞在中に出会った同じく王族のモム・ラーチャ・ウォン・シリキット・キッティヤーコーン(シリキット)と結婚することになりました。まさに勉学と純愛のドラマのような毎日は極普通の人々には創造はつかないかも知れません・・其れほど素晴らしい大恋愛の末の結婚はラマ9世の人生にとってどれほど素晴らしい人生であったかを証明しているような今の姿でもあります。そして1956年(タイ仏暦2499年)にはタイの仏教の教えにより仏門に入ります。その後4人の子供に恵まれ幸せな人生を送りながらもタイという国を60年間守り通してきたのです。時代は流れ官僚、軍部が着実に政治的力を付けた20世紀の中国内が混乱するかに見えたときも、事態の収拾に見事なまでの政治的手腕を見せまた、そして国王として国民の安全を守るべく努力されています。 -
プミポン国王陛下は地方視察など精力的に不便な部分を改良し改善して歩く事でタイの国をより住み易い国にする努力を怠りませんでした・・其れは確実タイ国民からの信頼を勝ち得たものでした。世の中には国が良くなるためにはどこの国でも起る政治関係のトラブル争い・・強いては戦争にまでなりうることがタイでも何ども繰り返されて着ています。1992年に発生した5月の惨劇事件では軍を背景にする首相と民主化運動グループの指導者を宮殿に呼び付けこの国は誰の物でもないタイ国民全員のものである、君達の者ではないとハッキリと断言した事でその混乱を沈静させられるだけの手腕も持ち人間性の高い人物であるという深い信用は今尚衰えることなくタイ国民の熱い信頼と尊敬を受けているのです。
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若かりし日々の懐かしい熱烈な写真がたくさん残るお二人です。
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ご自分の趣味はどんなに時間がなくてもストレス解消のため精力的に続けられたそうです。
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やさしいお言葉を掛けられる国王陛下のそのやさしさがどれだけタイの国民を救い助けてきたことでしょう。
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お国のしきたりにより出家されたときの写真
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兄を亡くしその分をとお父様の亡き後もお母様を愛し大切にされていた国王陛下
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どんなときでもそのやさしい瞳が母親としてだけではなく国王の母として年老いても精力的に山へ足を運び貧しい人々を助け救いの道を開いてきたお母様でした。
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自らが車椅子を動かしながら病院へ通われえいた陛下
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最後の最後までそばについていたそれが本物の愛情であることを理解させてくれた意味あることのその大切な言葉の意味を教えられた気がします。
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どんな場所でも出かけて行くことでそして科学者としてまた技術者としてありとあらゆる方面からその場所をよくする為にどうしたら良いかを共に考えるそう言う王様だからこそ今のタイがあるのだと感じ入ります。
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ご結婚後は国王陛下と同じ位までシリキット女王陛下も位を揚げていかなければなりません、そのためには必要以上に勉強といろいろな場所へ出かけその仕事をこなしそして初めて受けれる勲章・・だからこそその努力は無駄にはならないと国民にわが身を投じて見せて来た両陛下の歩み・・
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共に出かけられる場所には何処にもお子様方をお連れになり・・そこを見学させるだけではなく・・ともに考えることを教えたそうです。
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タイの皇室第1番目長女のウボンラッタナカンヤー王女
旧名、ウボンラッタナラーチャカンヤー内親王、1951年4月5日生
外国人との結婚により王室を出て・・外国へ渡る・・長男と長女と3人の子供がいるが3年前に離婚してタイに戻る・・しかし
一度皇室を出た人間は再び戻ることが出来ないので王女としての資格は取り消されているが皇室の血を引く者として皇室の仕事や1般市民などの会議や行事に呼ばれるなどして仕事をこなされています。
昨年12月のスマトラ沖地震津波の被害で長男を失い・・悲しみのドン底にありましたが・・
長男の名前で基金を設立して被害に合うなどして孤児になってしまった子供達などの救済に力を入れている。どんなに同じ血を分けた兄弟でも一度皇室を出てしまうと同じ扱いには戻れない苦しみはかなりの重圧として残るものだと、見ていて哀しいものもあります。それは血を引いていても同じ扱いには戻れないという事への踏み切りがかなり必用な気がしました。 -
タイの皇室第2番目長男のマハーワチラロンコン皇太子
正式名称 ソムデットプラチャオ・ルークヤーター・チャオファー・ワチラーロンコーン
(สมเด็จเจ้าลูกยาเธอเจ้าฟ้าวชิราลงกรณ์ ๆ)。
1952年7月28日生
1972年には皇太子としての名称、ソムデットプラボーロマオーラサーティラートチャオファー・マハーワチラーロンコーン・サヤームマクットラーチャクマーンをラーマ9世より付与され、王位継承権を得る。
(สมเด็จพระบรมโอรสาธิราชเจ้าฟ้ามหาวชิราลงกรญ์สยามมกุฎราชกุมาร)
皇太子には合計7人の子供がいるが現在タイの国の中或いは外国で皇室として名前が載せられているのは現時点では3名のみ一番新しい4番目の奥様との間には今年1歳になったばかりの王子がいる。
現在はあまり耳にしないが若き頃には血が騒ぐのか性格が荒いと言うことで割りと国民に恐怖を与えていた皇太子だったが・・最近は王子を目の中に入れても可愛いくらいの可愛がりようが父親としての暖かい目を印象付ける人間としても大きく成長した人として世の中の悪口も薄れているところである。
現在の奥様との間に出来た1歳になったばかりの王子が目に入れても痛くないほどの愛情の注ぎかたはほほえましい姿・・・ -
タイの皇室第3番目 次女の マハーチャクリーシリンドーン王女
シリントーン内親王
สมเด็จพระเจ้าลูกเธอเจ้าฟ้าสิรินธรเทพรัตนสุดา ฯ
タイ国王陛下王妃陛下の3番目の子供として1955年4月2日生1973年にチュラーロンコーン大学文学部へ進学し、王室初の国内大学進学者でもある。1977年大学を卒業後、皇太子に任命されソムデットプラ・テープラッタナラーチャスダーサヤームボーロムラーチャクマーリー(สมเด็จพระเทพรัตนราชสุดาสยามบรมราชกุมารี)の名前を得た。
同年、チュラーロンコーン大学、シラパコーン大学、シーナカリン・ウィロート大学に進み学業を続け陸軍士官学校の教師なども務めている。また、語学力に堪能で古言語としてサンスクリット=パーリ語、古代クメール語などに精通。欧米の言語としては英語、フランス語に通じ、またドイツ語、ラテン語、中国語を学びその実力を見せている。シリントンの王女のことをタイの国民はプラテープと呼び国民の殆んどの人々が彼女を慕っています。1986年シーナカリンウィト大学教育開発部において哲学博士号を取得され、健康・衛生・教育・農業分野の王室開発プロジェクトで広く活躍されています。また、社会奉仕のための団体や基金を数多く立ち上げられていて、国王陛下が管理される開発と環境保護に関するプロジェクトを実行するチャイパッタナー基金や及び、タイ文化の保護と推奨を目的としたラマ2世基金の代表者でもあられます。王女はタイの伝統楽器と舞踏の優れた才能もお持ちでご自身が中心となりタイの芸能と文化を援助する活動も行われおり・・国民からの支持も高くそして好かれていることなどからタイ政府も王女に尊敬の意を表し、人々にタイの芸能と文化の美しさに対する意識を高める為に4月2日をタイ国の遺産を保護する日としたのです。 -
タイの皇室第4番目 3女 チュラーポーン王女 1957年生博士号を取得してドクターとしてタイの国民の為に常に研究を重ねる努力家でタイの伝統音楽なども舞台で演奏したり外国を訪問して大学などで教えたりする才女である。最近からだの具合があまり思わしくなくとても痩せてしまい歩く力もなく・・国民は皆心配している。若き頃はまだ痩せすぎていないくてとても笑顔がチャーミングな王女であったのだが
仕事のし過ぎなのか?体調を崩したまま回復しないのか?とても心配さえている。
2人の子供がいるが・・お子様方が表に出てくることは殆んどない・・・・体調に関係なく外交や海外の大学での講義などを‘精力的にこなし今まで禁止されていた果物などの条約が安全であることなどを説明するなどして、タイからの輸出を可能に出来るように交渉するなど、実力を蓄えそして外交に役立てている。そしてタイの伝統音楽も得意の分野で外国での公演や外国の伝統音楽との競演など素晴らしい才能を披露している。 -
いつの時代でも力をあわせてきた国王両陛下の即位60周年と言う長い歴史は・・タイと言う国にとり素晴らしい歴史としてこれからも残ることだろう・・・そしてそれが更に素晴らしい国として受け継がれていくことを祈るばかりである。
6月9日即位60周年その行事はテレビでのんびり見学することにして・・・(当日は通行止めやらなにやらで大変でしょうし)
また28カ国の皇室の方々がお祝いにお出でになります・ -
チャオプラヤーの川では52隻の手漕ぎ船が出ます。海軍兵総勢2200人の人々の華やかしい行事が見ることが出来ます。6月12日には日本の天皇両陛下も参加されその行事を楽しまれることでしょう。
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52隻の船は60周年記念のみのために新しく作られた船やその昔か使用されてきた船などが漕がれています。
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ラマ9世のロゴが縫い付けられ折られているシルクは即位式などで1回だけの使用のために作られた最高な作品・・民間からの献上品・・恥をかかないように欠かせてはならないと言う思いが伝わります。
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式典のために使用されるいろいろなものが急ピッチで出来上がりだしています。その作品は勿論タイの国民・・あるいはタイの会社などから国王に献上される物ばかりで。
またその様子は4−5日後にはup出来るでしょう・・
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