2006/07 - 2006/07
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KAUBEさん
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『初旅』
列車は少し長いトンネルに入り、
車内に煤けた臭いが立ち込めた。
蒸気機関車から流れ込むそのひどい煙のせいで、
ぼくはようやく目を覚ました。
客車に朝の光が差していた。
ぼくはとりあえず外気を入れようと立ち上がり、
両手で重い窓を持ち上げようとした。
窓枠に手をかけたままぼくは息を飲み、
窓外の風景に棒立ちになった。
列車は山の斜面を横切って走り、
その大きな斜面のはるか下には、
逆光に光る川の流れを取り囲むように、
広々とした大地が朝の光に黄色く光っていた。
列車は軽い轍の音を響かせながら、
その大地に向かって駆け下りていくところだった。
それはぼくの想像をはるかに超える、
おおらかで、あけっぴろげな眺めだった。
朝の光が流れ込む黄色い大地は善光寺平。
そしてその平を潤す流れは千曲川だった。
世の中には、こんな凄い世界があったのかと、
今思えば大げさだけれども、
ぼくはそのとき心底そう思った。
それはぼくの初旅の強烈な印象であり、
それ以来通い続けることになる信州との出会いでもあった。
そして、戦争という暗黒の時代の中で、
旅はおろか、人生のあらゆる楽しみを奪われ、
ひたすら耐えるしかなかったあの長い年月が、
ようやく終わろうとする瞬間だったのだと思う。
昭和二十七(1952)年、
ぼくは十八になったばかりだった。
大学に入ったその年の夏、
急に長野県丸子町に単身赴任していった父を訪ねる、
という絶好の口実ができた。
まだ所用以外で旅行をする人などほとんどいない時代だった。
名古屋発長野行きの唯一の長距離夜行列車はもちろん各駅停車で、
急行なんて全国的にもまだほとんど走っていない時代。
電化ももちろんされておらず、
トンネルの多い中央西線の蒸気機関車の旅は、
入り込んでくる機関車の排煙との戦いの一夜だった。
それでも、
それがきっかけだった。
ぼくが旅にのめり込んでいったのは。
そして、
ぼくの旅が信州に通うことから始まったのは、
そんないきさつからだった。
朝鮮戦争という隣国の不幸でひと儲けした日本で、
人々が旅だレジャーだとささやかな楽しみに浮かれ始めるのは、
ようやくその頃以降のことである。
『それは天王山から始まった』
小学生の頃、地図が好きだった。
世界地図や日本地図を自分の記憶に頼って描くのが好きだった。
京都の郊外に住んでいた。
近くに天王山という小高い山があった。
歴史に名高い、
といってもそんなことにはこの少年はそれほど関心がなく、
それよりも、
すぐ下で木津川、宇治川、桂川が合流する、
その広々としたを眺めが好きでよくその山に登った。
合流してからは淀川となって大阪の町へと流れる。
そんな風景を一人いつまでも見つめていた。
「わあ、地図の通りになってるやん…」
あれは、ぼくの旅の原点だったのだろうか。
旅、といっても、
毎日のように米軍機の空襲がある戦争中のことで、
米軍の攻撃目標からはずされていた京都ではあったが、
電車に十分ばかり乗るのもときには危険、
という事情の中での小旅行だったけれども、
あれはぼくにとってはまさに旅だったのだと思う。
そして前記のように、
大学に入った年、単身赴任の父を訪ねて信州に初めて旅らしい旅をした。
そして三十歳になった年からの三年余りのヨーロッパ放浪を経て、
文章を書くのが好きだったぼくは、
いろいろ回り道はしたけれども、
トラベルライターになった。
…
旅行時期
・姨捨の車窓:1952年7月
・天王山:1943〜4年ごろ
執筆:2002年11月
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