2006/03/07 - 2006/03/07
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井上@打浦橋@上海さん
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おでんタワーの下の上海歴史陳列館な白い犬なのだ!!
つまりでんなぁ・・・・白い犬は尾っぽも白い・・・・尾も白い・・・・面白い・・・・っつうことなんだわさ。
「浦東から豫園へのお散歩なのさ」の途中で寄ったのが東方明珠タワー下にある塔座上海歴史陳列館です。
タワーにはもう3度登ってますので、もう登る気はありません。しかし、この歴史陳列館がなかなか面白いと言うことをイロイロな方から聞いていましたので、入ってみたという訳です。入場料は35元です。高いなぁ、と思いました。
いやぁ、入って見て、納得!!期待を裏切りませんでした。35元は、納得価格でした。
1930年代、40年代の上海の商売風景が等身大の模型で体感できるのです。また、当時の街並みなども模型で再現されています。オールド上海に興味ある方には絶対お勧めですね。
表紙の写真は競馬で負けて、途方にくれてるおっちゃんです。なけなしの金をはたいて、最後の運に賭けたのが・・・やはりダメだった・・・可哀そうですね。でも、まあ競馬ってのはそんなもんなのです。私も日本では30年競馬やってましたが、たまに大穴当てて勝っても、振り返って、総合的に見ると圧倒的な負けなんですね。だから、このおっちゃんの気持ちは、よ〜く、よ〜く、分かるのです。ボーナス全部を突っ込んで勝負に出た有馬記念・・・・冷たい雨の中、とぼとぼと、オケラ街道を歩いて帰ったことを思い出します。でも帰りの電車賃と道端で一杯やる金だけは残してましたけどね・・・・。
当時、競馬で大儲けしたユダヤ人が上海には結構居たようですが、そういう人は馬券を買ったのではなく、主催者側だったんでしょう。上海の競馬場は、今の人民広場・人民公園にありました。ですが、それは3代目でして、2代目はその東に、初代は更に東にあったそうです。つまり外灘近くにあったのが、西へ西へと移動して行ったということです。
競馬の話はさておきまして、そのオモシロ上海歴史陳列館の様子をお伝えしますので、楽しまれてください。
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おでんタワーの塔座上海歴史陳列館は地下1階といったようなところにあります。
この写真は、その陳列館の入場口手前にある模型です。
なんか、生々しいですね。
こういったものが中にはありますよ、面白いですよ、どうぞお入りくださいという
客寄せパンダというところでしょう。
コレは何の商売なのか・・・・想像つきません、私には・・・
80歳の義父に聞いてもスグには分からない・・・
でも良く見ますと、箸が入った箸立てがありますし、お碗があり、
片手で扱うザルがありますから、麺を売ってるんだろうということになりました。
コインらしき物がばら撒かれてますが、コレはここを訪れた客がふざけて投げ入れた物でしょう。 -
コレは裁縫屋さんだそうです。
左の女性は仕上がりを待ってるんでしょう。 -
入場チケットを買って中に入りました。
入ってすぐのところには当時の街並みの写真が並びます。
コレはそのうちの1枚、競馬場の様子です。
レースホースクラブ(今の美術館)の前あたりですね。
パドックでの曳き馬風景なのか、あるいは優勝馬の凱旋風景なのか・・・
向こうに見えるのは今の体育大廈と金門大酒店なのかと・・・。 -
入場口のあるフロアーの様子です。
このフロアーには当時の交通機関などの模型が置いてあります。
馬車やら、黄包車(人力車)やチンチン電車やらトロリーバスなどです -
コレはチンチン電車ですね。
静安寺路を行き来する路線のようですね。
静安寺路は今の南京西路です。
説明書きには・・・
【早期の路面電車の模様】1908年3月5日、上海で初めての路面電車が正式に開通された。中国人経営の路面でsんはは1913年8月11日に開通され営業を開始した。・・・・・と書かれてました。
経路を調べてみました。
静安寺⇒愚圓路⇒赫路(Hart Road・・今の常徳路)⇒愛文義路(Avenue Road・・今の北京西路)⇒卡路(Carter Road・・石門二路)⇒静安寺路(Bubbling Well Road・・今の南京西路)⇒南京路⇒広東路外灘 全工程6.04km
今の20路トロリーバスの経路に似ています。 -
コレはバスですね。
抛球場は競馬場のことのようです。
競馬場の内側のグランドには9ホールのゴルフ場、クリケット場、野球場もあったそうです。
説明書きには・・・・・
【30年代南京路を走る公共バスの模様】1922年8月13日、上海で初めての公共バスの線路がまず中国人経営で始まった。・・・・と書かれていました。 -
コレはトロリーバスですね。
新開河とは豫園の北東部、黄浦江沿いの地域の名です。「14」という数字も確認できます。
説明書きには・・・・・
【20、30年代のトロリーバスの模様】1914年11月15日、上海で初めてのトロリーバスが正式に開通された。20世紀二、三十年代、電車バスはすでに人々が外出するときの主な交通手段になっていた。・・・・・と書かれていました。
経路を調べてみました。そうしましたら、
http://www.bsdc.cn/hist/dcfzs.htm
には・・・・11月15日英商上海電車公司が第1番目の無軌電車線路14路を開通。鄭家木橋から老閘橋まで、つまり今の福建中路を延安東路から北京東路までと・・・となってました。
となると、新開河とは一致しません。
この記述が間違ってるのか、模型の文字が間違ってるのか・・・・?? -
入場口がありますフロアーから上の階に上がります。
上の階には、昔の上海の人々の生活風景や、店先の模型が展示されています。また、当時の街並みの模型も展示されています。
コレは粉挽き風景ですね。 -
糸を紡いでる風景です。
赤ちゃんが入っています円錐形の木桶はやけに高いですね。
炭とか練炭を中に入れて暖めるものなのかと想像しますが、分かりません。 -
機(はた)を織る風景ですね。
-
脱穀風景ですね。
-
独輪車という手押しの一輪車です。
初期の頃の上海市内では、良く使われていたそうです。 -
乾物屋というところでしょうか。
蝦皮とか咸黄魚という字が確認できます。 -
豆腐屋さんですね。
ココで作って、ココで売る。 -
醤油とかお酢を売る店のようですね。
鎮江香醋とか乳腐とかの札が掛かっています。
鎮江香酢は、最近、日本でも有名ですね。
乳腐はしょっぱいチーズのような豆腐です。
熱々のご飯に最適です。
白酒のつまみにもイケます。 -
布屋さんのようです。
松江大布、青藍梭布、松江加長扣布、精砑細布という札が掛かっています。 -
綿打ち屋というところでしょうか。
小さい綿の塊を布団の大きさの1枚モノに仕上げる作業ですね。
木のハンマーと長い重しでまとめていくんですね。
初めてみましたこういう風景。 -
量り売りの酒屋さんですね。
上海ですからてっきり紹興酒などの黄酒を扱ってるのかと思いましたが白酒の方が多いですね。
山西汾酒とか・・・・
調べましたら天香というのも佛手露というのも白酒のようです。 -
香燭という看板が掛かっています。
お線香や、蝋燭などを扱ってるのでしょう。
左においてあります家の模型は、葬儀のときに一緒に燃やすものなんでしょうか・・。 -
コレは漢方薬屋でしょうね。
楓斗泡茶、諸葛行軍散(万能風邪薬)、参茸薬材、女貞?明子、大兎絲子丸、健歩虎潜丸(関節炎)などの札が掛かっています。 -
当時の家庭の様子を垣間見る、というところですね。
孫を抱くお婆ちゃんと、お粥かお湯を用意するお母さん。 -
洋浜という水路と言うか運河です。
今の延安路です。
そうなんです、延安路は昔は水路だったそうです。
水路が境界になっていまして、洋浜の北側が英米共同租界、南側がフランス租界となります。
その後、この水路は埋め立てられ、イギリス王エドワード7世にちなんでEdward? Avenue(愛多亜路)という道になりました。 -
なんか日用品の雑貨屋という感じですね。
モップや箒や草鞋やバッグなどが並べられています。 -
石庫門住宅の一角というところですね。
牛乳配達があったんでしょう・・・牛乳受けが門扉に取り付けてありますので・・・。
CULTY DAIRY・・・可的牛奶と書かれています。
当時、淮海中路と高安路の角に牧場があったそうです。今、上海図書館が建ってるところです。その後、そこに牧場主の名前Cultyを社名とした牛乳会社が出来ました。Cultyの漢字表記が可的(カディ)ということです。
現在、上海のコンビニチェーン店の中で「可的」というのがありますが、それはCultyの流れを汲むものと、私は見てますが、真相は分かりません。 -
阿片屈というところでしょうか・・・・。でも、相当、高級なところのようです。
ベッドに横たわってる男性2人は阿片の世界に浸りきってるんだと思いますが、手前の女性は、そんな感じしません。どういう役割なんでしょうか。 -
上海の初期の洋画専門学校の様子です。
説明書きには・・・・
【土山湾画館】土山湾画館は近代上海で最初の美術講習所である。1852年徐家匯土山湾孤児院で土山湾工芸局が創設され、その絵画教室は洋画の画家が授業を担当し、炭画・油絵・水彩画などの洋画と彫刻技法を教え、中国第一代の洋画美術人材を養成した。・・・・・と書いてありました。
土山湾は、蒲匯塘路と漕渓北路の角に、まだ地名が残っています。
「湾」と言うのは、どうも、水路と水路が交差するところを言うようです。当時、蒲匯塘路も漕渓北路も水路だったんでしょう。 -
当時、新聞社街と言われていた地域の模型です。
説明書きには・・・・・
【望平街】清末に創刊された『申報』、『新聞報』、『時報』及び民国初に創刊された『時事新報』、『民国時報』など十数の有名な新聞社はいずれも望平街(今の山東中路)に集中していたので、新聞社街と呼ばれた。20世紀20年代以降、上海はすでに全国の新聞雑誌及び情報通信の中心になっていた。・・・と書かれていました。
左側には、「立新洋紙號」「民生印刷所」「神州日報館」「時事新報館」「民国日報館」、右側には「申報館」「現代○○印刷公司」「時報館」といった看板が確認できます。
右奥の七重の塔みたいな建物はなんでしょうか? -
コレが今の望平街つまり山東中路です。
手前の道は漢口路で、向こうに伸びる道が山東中路です。
そして右の建物が、当時(上の写真)の「申報館」です。
今は、新旺茶餐庁という人気の香港スタイルレストランになっています。 -
当時の大世界ですね。
上海歴史ガイドマップによりますと・・・
1917年に黄楚九が仏租界当局の支持のもとに開いた遊楽場。(中略)1932年黄金栄によって買収された後は、売春、麻薬など様々な葉財の巣窟として悪名名高い場所ともなる。(中略)第二次上海事変勃発直後の1937年8月14日には、中国軍機の誤爆により大世界前交差点付近の難民の群れに数百人の死傷者を出す大惨事がおこる。1954年に人民政府に接収、人民遊楽場と改称。文革中は閉鎖され、のちに上海市青年宮として再開。1987年1月、「大世界」の旧名を復活。新装オープン時には押し寄せる人波に大混雑が起き、けばけばしいネオンの輝きがよみがえった。(後略)・・・・・とあります。
今は改装中です。改装前は、1987年の大混雑なんて、思いも及ばないくらい寂しい状況でした。小学校の生徒が見学に来るくらいの健全な娯楽場になってしまってたので、寂れていったんでしょう。
幾多の変遷を辿った、この大世界、改修後はどんな姿になるのか・・・興味深いところです。
私としては昔の怪しげな妖しげなモノに復活して欲しいと思っています。
悪名高かった頃のオーナー・黄金栄はフランス租界を取り仕切ってました警察のトップであり、やくざの大親分でもありました。
解放後数年経った頃の彼の写真があります。老いぼれた黄金栄が大世界の前で、箒を持って、道路清掃している写真です。笑顔のような笑顔でないような、悲しげな表情をカメラのほうに向けていました。 -
どこでしょうか・・??
遊興街と言われた四馬路(福州路の別称)あたりの風景かなと思いましたが、左上の看板に「34 RUE DUCONSULAT」と書かれてますね。上海歴史ガイドマップを見ますと金陵東路が「Rue Consulat」となってますから、そこかもしれません。
店の名は「来安」と言うんでしょう。
土耳其浴室となってますからトルコ風呂なんでしょう。女子按摩院となってますから、妖しげなことも行われていたんでしょう。夏季サービス中、洗浴・扞脚・按摩3セットで壱圓です。
色鮮やかな旗包を着た可愛子ちゃんが呼び込みをしています。
隣が医院ってのも、なにか物語っていますね。 -
ココはどこでしょうか?
新新時服店と大雅楼はヒントですが、分かりません。 -
ココは茶館なんでしょう。
カウンターの、この爺さんはそろ盤の玉を動かしてますが、ココでお金を払い、茶碗をもって席に行くんでしょう。 -
福州路と雲南路の角にあります天蟾(てんせん)舞台です。
今でもそうですが京劇の劇場です。
説明書きには・・・・・
旧上海の最大の戯曲劇場である天蟾舞台は1925年に建てられ、3000余の座席を持ち、専ら京劇を上演した。当時、多くの俳優がこの舞台に出て演技し、「京劇の俳優は天蟾に出なければ名を上げることはできない」と言われた。・・・・と書かれていました。
梅蘭芳の名が目立ちますね。高慶奎という人も有名だったんですね。
「蟾」とはヒキガエルのことらしいです。なんでヒキガエルなんでしょうかね・・・??平面図を見ますと、カエルに見えなくも有りませんが・・・。 -
右に王寶和酒店が確認できます。
そうしますと、この道は四馬路(福州路)なんでしょうか・・・・。
遠くに見える塔の左の建物がメトロポール・ホテルのように見えますから、まず四馬路なんでしょう。 -
当時、静安寺路(今の南京西路)にありました有名なThe Siberian Fur Storeです。
丁黙邨暗殺未遂がありました。丁黙邨は日本の特務機関のテロ組織・ジェスフィールド76号の頭目。
彼をココにおびき寄せた美女が鄭蘋茹という父が中国人で母が日本人のハーフ。彼女は蒋介石側のテロ組織・藍衣社の二重スパイ。丁黙邨はもともとは藍衣社のNo.2だったのが日本側に寝返った男。藍衣社の指令で、彼をココにおびき寄せたんですが、暗殺は失敗。そして彼女は、その後、ジェスフィールド76号に捕まり処刑されました。
その辺のことは、西木正明さんの「夢顔さんのよろしく」にも出てきます。この本は、近衛文麿の息子の近衛文隆さんに関するノンフィクション小説なんですが、近衛さんが付き合っていた女性が鄭蘋茹です。
また胡桃沢耕史の「上海リリー」にも出てきます。「鄭蘋茹」は「鄭蘭茹」と言う名で登場します。 -
当時の外灘風景を再現した模型もあります。
黄浦江沿いに並ぶ建築群は当時も今も変わりません。でも、当時とは大きく様相は変わってますね。まずは、この建築群のバックには、90年代に入ってニョキニョキと雨後の筍のよう高層建築が建ちました。そして、その高層建築群が、この重厚な趣のある建築群を飲み込んでしまったということです。近くで眺める分には、それは感じられませんが、少し離れて眺めますと、特にそれを実感します。
そして、もう1つは、黄浦江沿いの道路です。当時は、今より緑地帯が広大だったようですね。その分、道路は今よりはグッと狭かったんでしょう。そして川に突き出した船着場などもあったんですね。 -
コレは昨年の11月15日に対岸から写したものです。
バックの高層建築群に飲み込まれてしまってますね。 -
この外灘の模型は、朝モード、昼モード、夕方モード、夜モードと雰囲気を変えていきます。
この写真は夕方ですね。それをセピア色加工しました。 -
コレは夜モードです。
-
コレは当時の証券取引場かなんかでしょう。
-
昔、日昇楼と呼ばれた繁華街です。
つまり、今の南京東路と浙江中路・湖北路が交わるあたりです。
上海歴史ガイドマップによりますと、日昇楼は・・・・・
街区名。南京東路、浙江中路、湖北路の交差点一帯を指す。清末から交差点北東角にあった「五雲日昇楼」という茶館にちなむ。民国期には電車路線が交差し、交通の要衝を占め、遊技場やデパートが次々と開店して、市内有数の繁華街となった。・・・・・・とあります。
向こうに伸びる道が南京東路でして、路面電車の軌道が2列見えます。左の高層建築は永安公司・新楼(今の七重天飯店)、その右に連なる建物が永安公司です。道路右側には先施公司(今の上海時装公司)も見えます。永安公司・新楼手前の商店街は今はありません。世紀広場の一部になっています。 -
コレは現在の日昇楼地域です。
永安公司(現在は永安百貨店)手前の商店街はありません。
ホコテンの広い道路と、世紀広場がひろがります。 -
丹桂劇場と言う清末最大の京劇の劇場らしいです。
上海歴史ガイドマップによりますと・・・・・
1867年浙江人の劉維忠が湖北路広東路角に開設したのに始まる。その後何度か移転、1903年最終的に取り壊される。・・・・とあります。
テーブルに着きお茶を飲みながら、女性をはべらせ、京劇を楽しんでますね。京劇と言うのは、こうやっておしゃべりしながら観劇するものなんですね。舞台は高い位置にありますね。 -
ドイツ・クラブです。
説明書きには・・・・・
ドイツ・クラブは上海のドイツ居留民が建てた会館で、1907年に落成した。第一次大戦後、一度は中国銀行の営業所となったことがある。1936年に取り除かれ今は中国銀行のビルになっている。・・・・書かれていました。
和平飯店北隣のところにあったということです。
今は中国銀行の建物が建っています。 -
愛儷園(哈同花園)Hardoon Parkです。
今の上海展覧館がある敷地にあったようです。
上海歴史ガイドマップによりますと・・・・・・
英国籍ユダヤ人の富豪サイラス・ハルドーンとその混血の妻・羅迦陵が住んだ広壮な邸宅。園名は妻の本名リザにちなむ。ハルドーンはバクダッドで生まれ、香港に流浪しサッスーン商会で働き,1874年上海に移る。アヘンと不動産取引で巨万の富をなす。旧来の邸宅を拡張して1904年築造を開始、1909年秋完成。敷地約13ha。広大な中国風庭園の中に多くの建物が点在した。夫婦の死後庭園は荒廃にまかされる。・・・・とあります。
なんかスゴイですね。こんな庭園があったとは・・・・。七重の塔もありますし、池も東屋もたくさんあります。 -
こんな広大な庭園があったとは・・・・。
このハルドーンさんは、想像を絶する金持ちだったんでしょう。
それを一代で築き上げて、消えていってしまった・・・・いや、それは、そう想像するだけです。子供が居たのか、いたとしたら、今はどこに居るのか、親の財産を相続して香港かアメリカか南米かイスラエルに居るのか・・・。いや、やはり、一代で大きく開き、散って行ったような、そんな感じがしてきます。 -
入場口のあるフロアーに降りました。
出口までの通路には、有名な建築物の模型が並びます。
コレは復興中路にあります黒石公寓です。
上海歴史ガイドマップによりますと・・・・・・
アメリカのキリスト教会が1926年に建てた庭園・プール付きのアパートメント・ホテル。英国風の鉄筋コンクリート6階建て。新中国成立後、市軍管会に接収される。・・・・・とあります。 -
コレが現在の黒石公寓です。
庭園は狭くなりプールはありませんが、建物自体は今でも地元・上海人が住む集合住宅になっています。
コレで、おでんタワーの下の上海歴史陳列館の紹介は終わりです。
紹介したのはごく一部です。まだまだ興味深い物がたくさんありますので、どうぞ、一度訪れてみてください。
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この旅行記へのコメント (3)
-
- meron3さん 2007/05/20 16:53:48
- 井上@打浦橋@上海さん , こんにちは。
- いつも楽しく旅行記を拝見しています。
この東方明珠の歴史博物館の記事を読んで、是非行きたくなり、2回目の上海の時に行ってきました。
結果は予想を裏切らないものでした。
それで、2日後にまた行ってしまいました。
帰ってからも、井上@打浦橋@上海さんの旅行記を読みながら、
ああそうだったなと楽しんでいます。
私的には、出口付近にあった、バラック小屋とはだしの子供たちがとても印象に残っています。
-
- mayu-makoさん 2006/03/14 10:17:33
- 上海歴史陳列館
- 旅行記、見せていただきました。
上海歴史陳列館、私も現地の友人の薦めで行きました。
気持ち悪いような、リアルですよね。
一人では周れない気がしました。
さっと見学しても1時間はかかるのでは???
私は沢山、写真も写してきたのですが、UPするパワーがきれまして
旅行記もほったらかしで〜す。
ツアーで見える 観光の方はタワーのみで帰られるみたいですね。
(ここは、穴場?あまり知られてないような)
タワーに上れば料金は込みだったような??気がしました。
このタワー内に以前は無料のマッサージコーナーがあったらしいです。
探したのですが、わからなかったです。
また、見させていただきますね。
- 井上@打浦橋@上海さん からの返信 2006/03/14 12:57:17
- 気持ち悪いと言えば、気持ち悪いかも・・・・
- mayu-makoさん、どうも。
私のところへ訪れていただき有難うございます。
そうか、そうですね、あそこのリアルな風景、特に人物などは
気持ち悪いと言えば、気持ち悪いですね。
でも、私は、鈍感なせいもありますが、そう感じませんでした。
昔の生活風景や、店先の風景は興味深かったです。
今と、殆んど変わっていなかったり、おお、昔はこんな感じだったのかとか・・・。
上海の昔の街並みも面白かったですね。あっ、コレは、あそこだな、とか・・・・。
ということで、私はそういった目でコメントを書いていくつもりです。
また、お閑なときの覗いて見て下さい。
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