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ツアーが終わり、一人で歩き始めると、早速、あちこちから、みやげ屋の客引きやナンパの声がひっきりなしにかかってくるようになりました。客引きの声に、なにか面白いものがあるかもしれない、と、ふらふらついていって後悔したり、ナンパをうっとおしく思ったりなどの苦い経験は、去年(1997年)、チュニジアを女一人で旅行したときにさんざん味わいましたので、相手にしないようにしました。しかし、やはり私も日本人です。しつこいと思っても完全に無愛想にはできなくて、かと言って無視したら悪態をつかれたり、やはりうっとおしいと感じました。<br /><br />昼食をとりながら、一人歩きのルートを考えましたが、イスラム教徒地区は、さっきの客引きとナンパでうんざりしてしまったので、あまり通りたい気がしませんでした。となると、おのずとルートは限られてきます。もっとも、アラブ圏のメディナを思わせる狭く入り組んだ道だらけの旧市街自体、地図を片手にしても、迷わずに歩き回れる自信はありませんでした。<br /><br />それでも、フレスコ画が美しいという、アルメニア地区の聖ジェームズ(ヤコブ)大聖堂には行きました。最初の使徒であり最初の殉教者であるヤコブと、エルサレム最初の司祭ヤコブ、という2人のヤコブが祭られている教会です。<br /><br />ここでは、アルメニア派の僧侶の姿が、とても印象的でした。黒のとんがり帽子つきのマントを着た、すごくいかめしい威厳のあるかっこうをしていました。例えは悪いのですが、KKKを連想してしまって、ちょっとこわい気がしました。<br /><br />アルメニア人は、キリスト教を国教として公式に採用した最初の民族です。紀元後301年頃のことだそうです。アルメニア教会も、コプト教同様、カトリック教会では異端とされたキリスト単性論(キリストを人間とする説)を、6世紀以降、採用しているそうです。<br /><br />その後は、ツアーで触れられていた「ダビデの塔の歴史博物館」に興味を持ち、博物館をゆっくり回りました。ダビデの塔は、アルメニア人地区のすぐそばにあります。<br /><br />その後、旧市街を囲む7つの門の一つ、「新門」から城壁の外へ出て、8つの門の中では一番華麗と言われる「ダマスカス門」まで壁づたいに歩きました。東イスラエル地区も、もう一つの「ゴルゴダの丘」と呼ばれる「園の墓」を求めて、少しだけ歩きました。もう一つの「ゴルゴダの丘」とは、イエスが十字架にかけられた場所として聖墳墓教会とは別に、丘の形がゴルゴダ(=しゃれこうべ)に似ているために提唱されている場所です。もっとも、最近の説では、その丘は第一神殿時代(紀元前7世紀)のものだということなので、イエスが十字架にかけられたところとはほど遠いのですが、考古学的根拠はなくても想像をかきたてられやすい似た雰囲気のところを見たい、と思ってしまうのは仕方がないでしょう。<br /><br />その後は、再び新門の方へ戻り、帰りがてら、新市街のメインストリートであるヤッフォ通り伝いにシオン広場まで、歩行者天国も含むにぎやかな新市街を散策しました。でも、実は、ホテルへの戻り方をよく調べていなかったので、だんだんあせってきて、あまり散策を楽しむことはできませんでした。<br /><br />シオン広場には、いくつもの路線バスの停留所があります。帰りはどのバスに乗ればよいか迷いました。そこへ、外れてしまった腕時計を婦警さんが拾ってくれたので、これ幸いと、その婦警さんに教わりました。彼女は他の警官にも確認してくれて、私が無事にバスが乗るまで、2人して見送ってくれました。

1998年秋のイスラエル旅行11日間(5日目その2:エルサレム旧市街と東エルサレム一人歩き&当時までの中東史のお勉強)

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1998/09/13 - 1998/09/13

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まみ

まみさん

ツアーが終わり、一人で歩き始めると、早速、あちこちから、みやげ屋の客引きやナンパの声がひっきりなしにかかってくるようになりました。客引きの声に、なにか面白いものがあるかもしれない、と、ふらふらついていって後悔したり、ナンパをうっとおしく思ったりなどの苦い経験は、去年(1997年)、チュニジアを女一人で旅行したときにさんざん味わいましたので、相手にしないようにしました。しかし、やはり私も日本人です。しつこいと思っても完全に無愛想にはできなくて、かと言って無視したら悪態をつかれたり、やはりうっとおしいと感じました。

昼食をとりながら、一人歩きのルートを考えましたが、イスラム教徒地区は、さっきの客引きとナンパでうんざりしてしまったので、あまり通りたい気がしませんでした。となると、おのずとルートは限られてきます。もっとも、アラブ圏のメディナを思わせる狭く入り組んだ道だらけの旧市街自体、地図を片手にしても、迷わずに歩き回れる自信はありませんでした。

それでも、フレスコ画が美しいという、アルメニア地区の聖ジェームズ(ヤコブ)大聖堂には行きました。最初の使徒であり最初の殉教者であるヤコブと、エルサレム最初の司祭ヤコブ、という2人のヤコブが祭られている教会です。

ここでは、アルメニア派の僧侶の姿が、とても印象的でした。黒のとんがり帽子つきのマントを着た、すごくいかめしい威厳のあるかっこうをしていました。例えは悪いのですが、KKKを連想してしまって、ちょっとこわい気がしました。

アルメニア人は、キリスト教を国教として公式に採用した最初の民族です。紀元後301年頃のことだそうです。アルメニア教会も、コプト教同様、カトリック教会では異端とされたキリスト単性論(キリストを人間とする説)を、6世紀以降、採用しているそうです。

その後は、ツアーで触れられていた「ダビデの塔の歴史博物館」に興味を持ち、博物館をゆっくり回りました。ダビデの塔は、アルメニア人地区のすぐそばにあります。

その後、旧市街を囲む7つの門の一つ、「新門」から城壁の外へ出て、8つの門の中では一番華麗と言われる「ダマスカス門」まで壁づたいに歩きました。東イスラエル地区も、もう一つの「ゴルゴダの丘」と呼ばれる「園の墓」を求めて、少しだけ歩きました。もう一つの「ゴルゴダの丘」とは、イエスが十字架にかけられた場所として聖墳墓教会とは別に、丘の形がゴルゴダ(=しゃれこうべ)に似ているために提唱されている場所です。もっとも、最近の説では、その丘は第一神殿時代(紀元前7世紀)のものだということなので、イエスが十字架にかけられたところとはほど遠いのですが、考古学的根拠はなくても想像をかきたてられやすい似た雰囲気のところを見たい、と思ってしまうのは仕方がないでしょう。

その後は、再び新門の方へ戻り、帰りがてら、新市街のメインストリートであるヤッフォ通り伝いにシオン広場まで、歩行者天国も含むにぎやかな新市街を散策しました。でも、実は、ホテルへの戻り方をよく調べていなかったので、だんだんあせってきて、あまり散策を楽しむことはできませんでした。

シオン広場には、いくつもの路線バスの停留所があります。帰りはどのバスに乗ればよいか迷いました。そこへ、外れてしまった腕時計を婦警さんが拾ってくれたので、これ幸いと、その婦警さんに教わりました。彼女は他の警官にも確認してくれて、私が無事にバスが乗るまで、2人して見送ってくれました。

  • ダビデの塔の歴史博物館を見学する前に、まずは敷地内を散策し、眺望ポイントで写真を撮りました。旧市街の城壁の上は遊歩道となっていて、旧市街の眺望を楽しむことができるのですが、女性一人では行かない方がよい、とされている場所なので、行くのはあきらめました。代わりに、ダビデの塔の眺望ポイントで満足することにしました。<br /><br />ダビデの塔は、シタデル(要塞)とも呼ばれています。聖書に出て来るユダヤの第2代王であり、エルサレムを最初に首都に定めた王ダビデの名前で呼ばれていますが、現在の形になったのは、オスマン帝国スレイマン一世時代です。それに、もともとはヘロデ大王が建てた4つの塔の一つなので、ダビデ王とは何の関係もないそうです。<br /><br />伝説によると、ダビデが忠実な部下ウリヤの妻バテシバに懸想するきっかけとなった、彼女の沐浴シーンの覗き見をしたのが、この塔ということになっています。余談ですが、その後、ダビデは、バテシバを自分のものにするために、ウリヤを戦地に送り、そこで殺させています。聖書の人物はこのように、ダビデほどの英雄であり、神に愛された人物でも、完璧な人間ではなく、罪を犯しているのです。昔はそのために、聖書を素直に読めませんでした。英雄といえば、やはりそんな罪を犯して欲しくないものです。でも、大学時代に聖書文学の講義をとり、聖書を物語と捉えることを教わって以来、聖書の人物の、とても人間くさく、弱くところに、かえって共感を覚えるやすくなりました。<br /><br />バテシバの沐浴シーンも、西洋絵画の主題としてよく描かれています。バテシバの沐浴シーンという免罪符があれば、女性のヌードを堂々と描けたという事情もあるでしょう。ダビデとバテシバの間にできたのが、ソロモン王です。

    ダビデの塔の歴史博物館を見学する前に、まずは敷地内を散策し、眺望ポイントで写真を撮りました。旧市街の城壁の上は遊歩道となっていて、旧市街の眺望を楽しむことができるのですが、女性一人では行かない方がよい、とされている場所なので、行くのはあきらめました。代わりに、ダビデの塔の眺望ポイントで満足することにしました。

    ダビデの塔は、シタデル(要塞)とも呼ばれています。聖書に出て来るユダヤの第2代王であり、エルサレムを最初に首都に定めた王ダビデの名前で呼ばれていますが、現在の形になったのは、オスマン帝国スレイマン一世時代です。それに、もともとはヘロデ大王が建てた4つの塔の一つなので、ダビデ王とは何の関係もないそうです。

    伝説によると、ダビデが忠実な部下ウリヤの妻バテシバに懸想するきっかけとなった、彼女の沐浴シーンの覗き見をしたのが、この塔ということになっています。余談ですが、その後、ダビデは、バテシバを自分のものにするために、ウリヤを戦地に送り、そこで殺させています。聖書の人物はこのように、ダビデほどの英雄であり、神に愛された人物でも、完璧な人間ではなく、罪を犯しているのです。昔はそのために、聖書を素直に読めませんでした。英雄といえば、やはりそんな罪を犯して欲しくないものです。でも、大学時代に聖書文学の講義をとり、聖書を物語と捉えることを教わって以来、聖書の人物の、とても人間くさく、弱くところに、かえって共感を覚えるやすくなりました。

    バテシバの沐浴シーンも、西洋絵画の主題としてよく描かれています。バテシバの沐浴シーンという免罪符があれば、女性のヌードを堂々と描けたという事情もあるでしょう。ダビデとバテシバの間にできたのが、ソロモン王です。

  • ダビデの塔の眺望ポイントで、ダビデの塔を中心に、イェミン・モシェ(Yemin Moshe地区)やマミーラ(Mamila)地区方面の写真を撮りました。<br /><br />写真の真ん中が「ダビデの塔」で、塔の左側がイェミン・モシェ地区、右側がマミーラ地区です。右端には、富豪たちの別荘マンションがあります。<br /><br />イェミン・モシェは、19世紀、フランスでユダヤ人将校がぬれぎぬをかけられた「ドレフュス事件」をきっかけとして、ユダヤ人の独立国家の創設をめざすようになった「シオニズム運動」の台頭期に、ユダヤ人が城壁外で最初に住み始めた地区です。そこには、エルサレムのランドマークとなっているという風車があります。その風車は、後日のツアーバスで通りがかったときに、車窓から見ることができました。<br /><br />ダビデの塔の歴史博物館では、旧市街をあまり歩き回らないつもりでいた分、ゆっくり見学できました。1時間半くらいいました。展示の説明をほとんど読んだためです。おかけで、エルサレム、もといユダヤの歴史をしっかり復習することができました。エルサレムを知るための歴史フィルムも見ました。アニメで、すごく可愛らしく、エルサレムの歴史が端的に説明されていて、とても良かったです。

    ダビデの塔の眺望ポイントで、ダビデの塔を中心に、イェミン・モシェ(Yemin Moshe地区)やマミーラ(Mamila)地区方面の写真を撮りました。

    写真の真ん中が「ダビデの塔」で、塔の左側がイェミン・モシェ地区、右側がマミーラ地区です。右端には、富豪たちの別荘マンションがあります。

    イェミン・モシェは、19世紀、フランスでユダヤ人将校がぬれぎぬをかけられた「ドレフュス事件」をきっかけとして、ユダヤ人の独立国家の創設をめざすようになった「シオニズム運動」の台頭期に、ユダヤ人が城壁外で最初に住み始めた地区です。そこには、エルサレムのランドマークとなっているという風車があります。その風車は、後日のツアーバスで通りがかったときに、車窓から見ることができました。

    ダビデの塔の歴史博物館では、旧市街をあまり歩き回らないつもりでいた分、ゆっくり見学できました。1時間半くらいいました。展示の説明をほとんど読んだためです。おかけで、エルサレム、もといユダヤの歴史をしっかり復習することができました。エルサレムを知るための歴史フィルムも見ました。アニメで、すごく可愛らしく、エルサレムの歴史が端的に説明されていて、とても良かったです。

  • これも、ダビデの塔の歴史博物館に入る前に、眺望ポイントで撮った写真です。今度は、黄金に輝く屋根と青いタイルの壁を持つ「岩のドーム」を中心に、旧市街のユダヤ人地区を撮りました。ユダヤ人地区は、1948年の独立戦争のときにヨルダンに支配され、そのときにユダヤ人はみな、追い出されてしまいました。1967年の6日戦争で再び取り戻されると、イスラエル政府によって再開発されました。なので、町は比較的新しいのですが、伝統的な建築スタイルは守られたそうです。<br /><br />右手の奥に写る塔のあたりは、オリーブ山です。また、岩のドームの隣に見える塔は、エル・アクサ寺院の光塔です。<br /><br />写真の手前の方の、それぞれ白いまんじゅうのような頭を持つ2つの建物は、おそらく、フルバ・シナゴーグとランバン・シナゴーグです。シナゴーグとは、ユダヤ教徒の集会所で、律法を読み、知識を交換する学びの場でもあります。それぞれ、最初にシナゴーグを建てたラビ(ユダヤ教の学者であり、宗教指導者)の名前で呼ばれています。

    これも、ダビデの塔の歴史博物館に入る前に、眺望ポイントで撮った写真です。今度は、黄金に輝く屋根と青いタイルの壁を持つ「岩のドーム」を中心に、旧市街のユダヤ人地区を撮りました。ユダヤ人地区は、1948年の独立戦争のときにヨルダンに支配され、そのときにユダヤ人はみな、追い出されてしまいました。1967年の6日戦争で再び取り戻されると、イスラエル政府によって再開発されました。なので、町は比較的新しいのですが、伝統的な建築スタイルは守られたそうです。

    右手の奥に写る塔のあたりは、オリーブ山です。また、岩のドームの隣に見える塔は、エル・アクサ寺院の光塔です。

    写真の手前の方の、それぞれ白いまんじゅうのような頭を持つ2つの建物は、おそらく、フルバ・シナゴーグとランバン・シナゴーグです。シナゴーグとは、ユダヤ教徒の集会所で、律法を読み、知識を交換する学びの場でもあります。それぞれ、最初にシナゴーグを建てたラビ(ユダヤ教の学者であり、宗教指導者)の名前で呼ばれています。

  • 旧市街を囲む城壁に残る8つの門のうち、一番華麗と言われているダマスカス門です。かつてシリアの首都ダマスカスへの道がこの門を起点としていたため、こう呼ばれるようになりました。<br /><br />という説明は、どのガイドブックでも載っていますが、本当に華麗だなぁ、と思ったのは、実物を見てから初めて納得できました。<br /><br />ダマスカス門の向こうはイスラム教徒地区です。実はこの門のあたりは、露店が並び、ちょっとしたマーケットとなっていました。あまりにも雑然としていてムードがないと思ってしまったため、下の部分はファインダーに入れないように撮ってしまいました。

    旧市街を囲む城壁に残る8つの門のうち、一番華麗と言われているダマスカス門です。かつてシリアの首都ダマスカスへの道がこの門を起点としていたため、こう呼ばれるようになりました。

    という説明は、どのガイドブックでも載っていますが、本当に華麗だなぁ、と思ったのは、実物を見てから初めて納得できました。

    ダマスカス門の向こうはイスラム教徒地区です。実はこの門のあたりは、露店が並び、ちょっとしたマーケットとなっていました。あまりにも雑然としていてムードがないと思ってしまったため、下の部分はファインダーに入れないように撮ってしまいました。

  • エルサレム旧市街の城壁の一部です。聖墳墓教会が、イエスが十字架にかけられた場所としてはあまりにイメージが違っていたので、もう一つの「ゴルゴダの丘」と言われる「園の墓」を求めて、東エルサレム地区をうろつきました。「園の墓」の方が、イエスが十字架にかけられた場所としての根拠はますます薄いということは知っていましたが、「園の墓」の方がそれらしい雰囲気があるというのです。<br /><br />ところが、やっと見つけた「園の墓」は、日曜日なので閉館でした。がっかりです。しかし、あきらめきれなかったので、後日、行きました。<br /><br />写真は、「園の墓」が閉館でがっかりし、失意のうちに、そろそろホテルへ戻ろうか、と歩いている途中で撮りました。18時頃です。

    エルサレム旧市街の城壁の一部です。聖墳墓教会が、イエスが十字架にかけられた場所としてはあまりにイメージが違っていたので、もう一つの「ゴルゴダの丘」と言われる「園の墓」を求めて、東エルサレム地区をうろつきました。「園の墓」の方が、イエスが十字架にかけられた場所としての根拠はますます薄いということは知っていましたが、「園の墓」の方がそれらしい雰囲気があるというのです。

    ところが、やっと見つけた「園の墓」は、日曜日なので閉館でした。がっかりです。しかし、あきらめきれなかったので、後日、行きました。

    写真は、「園の墓」が閉館でがっかりし、失意のうちに、そろそろホテルへ戻ろうか、と歩いている途中で撮りました。18時頃です。

  • 城塞外の東エルサレム地区から、岩のドームを中心に撮りました。園の墓へ向かう道は少し坂になっていたので、見下ろす視点で撮れました。東エルサレム地区も、いまはアラブ人地区なので、やはりナンパの声が、城壁内ほどではありませんでしたが、ひっきりなしにかかってうるさかったです。<br /><br />ナンパといえば、イタリアを女一人で旅行したときも、一人でぼんやりしているときによく声をかけられてうっとおしい思いをしましたが、アラブ圏では、その比ではありませんでした。一説には、だれもが認める美女は、どうせ彼氏がいるだろうし、隙がないので、声がかかることがないとのこと。これはイタリアの話かもしれませんが、アラブ圏は女性が外を出歩くことが少ないので、好奇心から余計に、同じアラブの女性よりガードの低い外国人女性に声がかかるようです。つまり、ナンパされたからといって、現地の人には好みのタイプに見えているとうぬぼれることはできないわけです。声をかける方は、数打ちゃあたる、と思っているのです。そうと知って、ますますうっとおしくなりましたっけ。<br /><br />ここからは、私が旅行に行く前に下調べした中東史のまとめとなります。<br /><br />ユダヤ人地区と城外の東エルサレムは、1948年の第一次中東戦争から1967年の6日戦争までヨルダンに占領され、エルサレムは2つに分断されていました。この日の午前に参加したエルサレム旧市街半日観光ツアーでは、ガイドのおじさんが、エルサレムの城壁内に入る前に、バスの中から、その当時にヨルダンとの国境となった道路を示してくれました。残念ながら、まだエルサレムの地理が頭に入っていない私には、そもそもどこをどう走っているのかさっぱりわかりませんでした。ツアーの後の一人歩きで、東エルサレム地区も少し歩きましたが、その頃にはだいぶ疲れていたのと、その道路名を聞きそびれたので詳しい場所はわからず、かつてのヨルダンとの国境線を確認することはできませんでした。<br /><br />その時にガイドのおじさんは、続いて、「この場で、私はなんら、ユダヤ人の立場を弁明したりするつもりはないが、単なる事実としてみなさまに知っておきたく……」と前置きして、幾たびかの戦争をくぐり抜けた建国後のエルサレムの歴史をかいつまんで話してくれました。しかし、この時、急に早口の英語になったので……しかも、昨日まで2日間一緒だった個人ガイドのルベンさんの場合とは違って、聞き取り損ねたからといって、私の顔色を見て説明を繰り返してくれるわけではありませんから……旅行前にそのあたりの歴史の復習をしていなかったら、せっかくの説明が、ただのBGMになっていたに違いありません。<br /><br />エルサレムが2つに分断された1948年の第一次中東戦争は、イスラエルにとっては独立戦争でした。前年の国連総会で可決されたパレスチナ分割案を全面拒否した周辺アラブ諸国が、イスラエルの建国宣言に反対して一斉にイスラエルを攻撃したことで、戦いの火ぶたが切って落されました。当時、誰もがユダヤ人に勝機はないだろうと思っていました。が、結果は大番狂わせでした。戦いは、死にもの狂いで戦ったユダヤ人側の勝利に終わり、イスラエルは、国連総会のパレスチナ分割案でユダヤ人に割り当てられていた以上の領土を獲得して独立を果しました。<br /><br />もっとも、この戦いにより、アラブ連合軍の中核だったエジプトとヨルダンは、現在パレスチナ自治区のガザ地区をエジプトが、そして現在パレスチナ自治区のヨルダン川西岸地区と前述の旧市街ユダヤ人地区と東エルサレムをヨルダンが、それぞれ占領しました。そのエジプトとヨルダンが、現在(1998年)、周辺アラブ諸国の中で、イスラエルと正常国交を樹立しているたった2カ国(エジプトは1979年から、ヨルダンは1994年から)なのですから、歴史とは、実に面白いです。<br /><br />すでに幾度か触れましたが、エルサレムの統合を果たした1967年の「6日戦争」とは、中東紛争史では第三次中東戦争にあたります。ちなみに第二次中東戦争は、エジプトのスエズ運河国有化をきっかけとした1956年のスエズ戦争です。<br /><br />ところで、私は歴史のお勉強は大好きですが、それは日本の時代区分でいえば明治維新前くらいに限られていました。近・現代の政治史は無機的でややこしくて、面白くない、との偏見を持っていました。<br /><br />しかし、今回、イスラエル旅行をするにあたり、イスラエル建国以来の中東紛争の歴史にのうち、1991年に開催されたマドリード中東和平会議前まで、新書3冊読みましたが(なぜマドリード中東和平会議前までかというと、それ以降の中東史をイスラエルを中心に書いたコンパクトな本が、当時(1998年)は見つからなかっただけです。)、本がよかったせいか、昔と違って少しは政治的な歴史の流れに興味を持てるようになったためか、息つかせぬ展開に、下手な小説よりずっと面白いと思いました。<br /><br />もっとも、その中東紛争史も、当事者であるアラブ諸国、そして当時の二大大国である米・ソの思惑や、歴史上の意味、政治的な流れよりは、私は自分が面白いと思った側面で記憶しています。<br /><br />例えば、この第三次中東戦争は、別名「6日戦争」と呼ばれていますが、それは、イスラエル軍が6日間で決着をつけ、その圧倒的強さを世界に見せつけ、弱国イスラエルのイメージを完全に払拭したからだ、とか。それができたのは、イスラエル空軍が電撃作戦で大活躍し、超低空飛行でレーダーをくぐってアラブ連合軍の先鋒であるエジプトの基地を破壊したからだ、とか。ちなみに、イスラエルがエルサレムからヨルダン勢力を追い払ったのは、3日目のことです。<br /><br />ついでに、独立戦争以来のイスラエルの連勝記録をストップさせた次の第四次中東戦争(1973年)(別名ヨム・キップール戦争)(ヨム・キップールについては後の旅行記で説明します。)では、エジプト軍歩兵団が対戦車ミサイルでイスラエルの戦車部隊を破った、とか。これは、戦史上、ドイツ・ナチスの戦車部隊の活躍以来、歩兵軍が戦車部隊を破った初めての戦いだった、とか。この時、前回大活躍だったイスラエル空軍は、地対空ミサイルによってあっけなく殲滅させられた、とか。<br /><br />もう一つついでに、次の戦争、1982年のシリアとの戦い───イスラエルがレバノンに潜むPLO(パレスチナ解放機構)武装組織ファタハに打撃を与えるためにレバノンに攻撃を仕掛け、レバノンの保護国を自負するシリアが応戦して始まった戦いでは、前回のイスラエル側の敗因の一つだった地対空ミサイルの基地を突き止めるために、イスラエルは囮の無人飛行機を飛ばしてミサイルのレーダーの周波数を探り、イスラエル側に一人の死者も出さずにシリアのミサイル基地を撃破した、とか。そして───。<br /><br />自分が今、生きている時代の出来事だけに、こういう戦争ゲーム感覚の興味の持ち方には問題があるとは思いますが、現代史の面白さを知ることができたことは、私にとってはとても意義がありました。

    城塞外の東エルサレム地区から、岩のドームを中心に撮りました。園の墓へ向かう道は少し坂になっていたので、見下ろす視点で撮れました。東エルサレム地区も、いまはアラブ人地区なので、やはりナンパの声が、城壁内ほどではありませんでしたが、ひっきりなしにかかってうるさかったです。

    ナンパといえば、イタリアを女一人で旅行したときも、一人でぼんやりしているときによく声をかけられてうっとおしい思いをしましたが、アラブ圏では、その比ではありませんでした。一説には、だれもが認める美女は、どうせ彼氏がいるだろうし、隙がないので、声がかかることがないとのこと。これはイタリアの話かもしれませんが、アラブ圏は女性が外を出歩くことが少ないので、好奇心から余計に、同じアラブの女性よりガードの低い外国人女性に声がかかるようです。つまり、ナンパされたからといって、現地の人には好みのタイプに見えているとうぬぼれることはできないわけです。声をかける方は、数打ちゃあたる、と思っているのです。そうと知って、ますますうっとおしくなりましたっけ。

    ここからは、私が旅行に行く前に下調べした中東史のまとめとなります。

    ユダヤ人地区と城外の東エルサレムは、1948年の第一次中東戦争から1967年の6日戦争までヨルダンに占領され、エルサレムは2つに分断されていました。この日の午前に参加したエルサレム旧市街半日観光ツアーでは、ガイドのおじさんが、エルサレムの城壁内に入る前に、バスの中から、その当時にヨルダンとの国境となった道路を示してくれました。残念ながら、まだエルサレムの地理が頭に入っていない私には、そもそもどこをどう走っているのかさっぱりわかりませんでした。ツアーの後の一人歩きで、東エルサレム地区も少し歩きましたが、その頃にはだいぶ疲れていたのと、その道路名を聞きそびれたので詳しい場所はわからず、かつてのヨルダンとの国境線を確認することはできませんでした。

    その時にガイドのおじさんは、続いて、「この場で、私はなんら、ユダヤ人の立場を弁明したりするつもりはないが、単なる事実としてみなさまに知っておきたく……」と前置きして、幾たびかの戦争をくぐり抜けた建国後のエルサレムの歴史をかいつまんで話してくれました。しかし、この時、急に早口の英語になったので……しかも、昨日まで2日間一緒だった個人ガイドのルベンさんの場合とは違って、聞き取り損ねたからといって、私の顔色を見て説明を繰り返してくれるわけではありませんから……旅行前にそのあたりの歴史の復習をしていなかったら、せっかくの説明が、ただのBGMになっていたに違いありません。

    エルサレムが2つに分断された1948年の第一次中東戦争は、イスラエルにとっては独立戦争でした。前年の国連総会で可決されたパレスチナ分割案を全面拒否した周辺アラブ諸国が、イスラエルの建国宣言に反対して一斉にイスラエルを攻撃したことで、戦いの火ぶたが切って落されました。当時、誰もがユダヤ人に勝機はないだろうと思っていました。が、結果は大番狂わせでした。戦いは、死にもの狂いで戦ったユダヤ人側の勝利に終わり、イスラエルは、国連総会のパレスチナ分割案でユダヤ人に割り当てられていた以上の領土を獲得して独立を果しました。

    もっとも、この戦いにより、アラブ連合軍の中核だったエジプトとヨルダンは、現在パレスチナ自治区のガザ地区をエジプトが、そして現在パレスチナ自治区のヨルダン川西岸地区と前述の旧市街ユダヤ人地区と東エルサレムをヨルダンが、それぞれ占領しました。そのエジプトとヨルダンが、現在(1998年)、周辺アラブ諸国の中で、イスラエルと正常国交を樹立しているたった2カ国(エジプトは1979年から、ヨルダンは1994年から)なのですから、歴史とは、実に面白いです。

    すでに幾度か触れましたが、エルサレムの統合を果たした1967年の「6日戦争」とは、中東紛争史では第三次中東戦争にあたります。ちなみに第二次中東戦争は、エジプトのスエズ運河国有化をきっかけとした1956年のスエズ戦争です。

    ところで、私は歴史のお勉強は大好きですが、それは日本の時代区分でいえば明治維新前くらいに限られていました。近・現代の政治史は無機的でややこしくて、面白くない、との偏見を持っていました。

    しかし、今回、イスラエル旅行をするにあたり、イスラエル建国以来の中東紛争の歴史にのうち、1991年に開催されたマドリード中東和平会議前まで、新書3冊読みましたが(なぜマドリード中東和平会議前までかというと、それ以降の中東史をイスラエルを中心に書いたコンパクトな本が、当時(1998年)は見つからなかっただけです。)、本がよかったせいか、昔と違って少しは政治的な歴史の流れに興味を持てるようになったためか、息つかせぬ展開に、下手な小説よりずっと面白いと思いました。

    もっとも、その中東紛争史も、当事者であるアラブ諸国、そして当時の二大大国である米・ソの思惑や、歴史上の意味、政治的な流れよりは、私は自分が面白いと思った側面で記憶しています。

    例えば、この第三次中東戦争は、別名「6日戦争」と呼ばれていますが、それは、イスラエル軍が6日間で決着をつけ、その圧倒的強さを世界に見せつけ、弱国イスラエルのイメージを完全に払拭したからだ、とか。それができたのは、イスラエル空軍が電撃作戦で大活躍し、超低空飛行でレーダーをくぐってアラブ連合軍の先鋒であるエジプトの基地を破壊したからだ、とか。ちなみに、イスラエルがエルサレムからヨルダン勢力を追い払ったのは、3日目のことです。

    ついでに、独立戦争以来のイスラエルの連勝記録をストップさせた次の第四次中東戦争(1973年)(別名ヨム・キップール戦争)(ヨム・キップールについては後の旅行記で説明します。)では、エジプト軍歩兵団が対戦車ミサイルでイスラエルの戦車部隊を破った、とか。これは、戦史上、ドイツ・ナチスの戦車部隊の活躍以来、歩兵軍が戦車部隊を破った初めての戦いだった、とか。この時、前回大活躍だったイスラエル空軍は、地対空ミサイルによってあっけなく殲滅させられた、とか。

    もう一つついでに、次の戦争、1982年のシリアとの戦い───イスラエルがレバノンに潜むPLO(パレスチナ解放機構)武装組織ファタハに打撃を与えるためにレバノンに攻撃を仕掛け、レバノンの保護国を自負するシリアが応戦して始まった戦いでは、前回のイスラエル側の敗因の一つだった地対空ミサイルの基地を突き止めるために、イスラエルは囮の無人飛行機を飛ばしてミサイルのレーダーの周波数を探り、イスラエル側に一人の死者も出さずにシリアのミサイル基地を撃破した、とか。そして───。

    自分が今、生きている時代の出来事だけに、こういう戦争ゲーム感覚の興味の持ち方には問題があるとは思いますが、現代史の面白さを知ることができたことは、私にとってはとても意義がありました。

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