マルコ・ポーロさんへのコメント一覧全2件
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ウィーンに行ってみたい。
マルコ・ポーロさん、はじめまして。
以前からウィーンは気になる街だったのですがマルコ・ポーロさんの旅行記を拝見してチョコレートを食べに行きたくなりました、チョコレートに食いつきました、以前トリノにチョコレートを食べに行き美味しいチョコレートを戴きました、その味をしめていますので是非行ってみたい都市なんですよ。
churros ひらたRE: ウィーンに行ってみたい。
> マルコ・ポーロさん、はじめまして。
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> 以前からウィーンは気になる街だったのですがマルコ・ポーロさんの旅行記を拝見してチョコレートを食べに行きたくなりました、チョコレートに食いつきました、以前トリノにチョコレートを食べに行き美味しいチョコレートを戴きました、その味をしめていますので是非行ってみたい都市なんですよ。
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> churros ひらた
Churros ひらた様
はじめまして。コメントありがとうございます。!
イタリアに在住経験ありですが、実はトリノは行っておりません。
トリノで是非御菓子屋、カフェめぐりをしたいとは思っておりますがなかなか行く機会に恵まれず…。写真はアップしておりませんが、昨年の夏はイタリア、ジュネーブ、フランスアルザス地方を巡り散々甘い物を食べまくりました。ウィーンも、もちろん良かったのですが、アルザス地方はかなりお勧めです。2010年01月21日13時25分 返信する -
1971年フィンランド
今日はpogipapaです。
マルコ・ポーロさん懐かしいフィンランドの写真を拝見させて頂き誠に有り難う御座います。私は35年前にヘルシンキに一泊した想い出があります、美しい町並みや建造物が今も変わらず残るつて居てとても安心しました。
フィンランドの人々は日本人にとても友好的でした。後で解かつた事ですが日露戦争の後にロシアから独立出来た事が理由だと思います、そして日本の文化や芸術、戦後の経済発展が上げられると私は思つています。マルコ・ポーロさんはイタリア留学していたのですね、在学中いろいろな出来事や人々との出会いが沢山あつた事と思います、私はスエーデンでの忘れられない数々の想い出があります。当時私は20歳でしたので見るもの全てが新鮮でした,暇な時は一眼レフのカメラを肩に、8ミリカメラを手に持ち毎日町並みを撮影していました。朝8時からスエーデン語学校に通い午後は町中のカフェでアルバイトをして暮らす毎日でした。アルバイト先でイタリア人青年ミゲールと友達になりました、私は彼の前でイタリア語で、、、ケボレケ、スタジミア、スターセーラ、ケミリコ、ポルタントコデ、パサートー、、、、、、オン、ポーコ、ヂーテエー。と突然歌い彼は驚いていました。この歌は37年前にイタリア映画のラストシーンに流れていました。2人の青年と1人の女性の悲しいラブストリーでした。マルコ・ポーロさん海外留学、素晴らしい経験しましたね、これから先も旅行記を拝見させてください。ではまた此処で失礼致します。RE: 1971年フィンランド
Pogipapaさま
メッセージ頂きましてありがとうございました。メッセージを頂いた翌日から、イタリアに昨年に引き続き里帰り&ウィーン旅をしておりました。
お話にあった日露戦争の件は、私も友人から聞きおよび日本から遠く離れた国にこのような影響があったことに感慨を覚えました。逆に私はフィンランドの正式な国名が須臣(スオミ)ということを知っていたことに、友人が驚いていました。それがきっかけで、仲良くなりました。何事もスローなイタリアで北欧のきっちと物事が運ぶ(日本に近い)生活との違いに同じヨーロッパ人ながら、イライラする友人をなだめるのが、私の役目でイタリア留学中はどこへ行くのも一緒でした。今はpogipapa様の時と違いメールなどで、お互いに簡単に連絡が取れますが、当時は大変だったと思います。
イタリア留学は友人だけではなく、自分のこれからの人生にかかわることを決めるきっかけにもなりました。
また、写真を載せるつもりでいますので、ごらんになってください。
ありがとうございました。2007年04月07日01時46分 返信する