ベルリンが東西に分れていた頃、ブランデンブルク門は東側で、小さく遠くに見えた。それは東西の分離が永遠であるかのように・・・。
- 4.0
- 旅行時期:2011/05(約15年前)
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by jijidarumaさん(男性)
ベルリン クチコミ:11件
「かつての東ドイツ:ルター諸都市・Berlin・Dresdenなどを巡る旅」
期間 : 2011年05月13日(金)~05月27日(金)15日間
5月16日(月);1日中小雨、午後には晴間もあった。15℃、107km
Berlinベルリン観光①:
10:45~17:00 人口343万人。
勝利の女神像が高々と立つSiegessaeule戦勝記念塔を見たら、次はやはり
Brandenburger Torブランデンブルグ門だろう。
戦勝記念塔からBrandenburger Torブランデンブルグ門は近い。
Unter den Lindenウンター・デン・リンデン通りに面した最高級ホテルAdlon Kempinski Berlinの駐車場(Euro6)に入れて(ここもかつては壁の向こうにあった)、Unter den Lindenウンター・デン・リンデン通りに出て、散策を開始し、まずは誰もが行くブランデンブルグ門に行った。(11:00~12:20)
<Brandenburger Torブランデンブルク門>
ブランデンブルグ門を境に東にシャルロッテンブルク宮殿、西にウンター・デン・リンデン通りがある。いずれもベルリンを代表するスポットだ。
ベルリンが東西に分かれていた時はこの門は東ベルリン側にあった。私共が1983年4月家族旅行で訪れた時、はるか遠くに門の裏が見えたものだ。
ブランデンブルク門のモデルはアテネの神殿アクロポリスで、1788~91年にプロイセン王国の凱旋門として造られた。高さは26m、幅は65.5m、奥行きは11mの、砂岩でできた古典主義様式の門である。
門の上の勝利の女神と4頭立ての馬車カドリカは1806年、プロイセンを破ったナポレオン皇帝により、パリに持って行かれたが、ナポレオンの敗北・退位で1814年、再びベルリンに戻った。大国間の勝敗の歴史が背景にある。
今は東西ドイツ統一のシンボルである。
このベルリンで最も有名な建築物であろう。様々な国の観光客が門をバックに写真を撮る。私も門をバックに一枚。
東西に分離していたベルリンの時期は、この門は壁の向こう側にあり、小さく遠くに見えた。それは東西の分離が永遠であるかのように・・・。
これから訪ねるライプツィヒやマイニンゲンの町で、1989年のベルリンの壁崩壊、東西両ドイツの統一の端緒となった“平和的改革“のデモの発端となった所を知りました。
現実的にそうした祈りがあり、機運が盛り上がったデモが行われたとしても、あれほど簡単に、血を見る事も少ないままに壁が崩壊したことは、私にとっても不思議なものです。
この門から豪華な?!ショッピング街、Unter den Lindenウンター・デン・リンデン通りが、フリードリヒ大王の騎馬像、シュロス橋まで続いている。
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- 施設の満足度
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4.0
- 利用した際の同行者:
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間:
- 1-2時間
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 2.0
- 展示内容:
- 4.0
クチコミ投稿日:2021/08/29
いいね!:5票
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