水師営会見所
史跡・遺跡
3.30
施設情報
クチコミ(18件)
1~18件(全18件中)
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民家を借りての会見所は復元され観光地に
- 3.5
- 旅行時期:2019/03(約7年前)
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ひっそり佇む建物です
- 4.5
- 旅行時期:2018/02(約8年前)
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付属のレストランの東北地方の田舎料理が美味でした
- 4.0
- 旅行時期:2016/03(約10年前)
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再建されたもの
- 3.0
- 旅行時期:2016/02(約10年前)
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当時の建物を再現
- 4.0
- 旅行時期:2014/12(約11年前)
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レプリカでは・・・
- 3.0
- 旅行時期:2014/09(約11年前)
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え?終了?
- 1.5
- 旅行時期:2013/06(約13年前)
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旅順の戦跡を訪ねて 水師営 編
- 1.5
- 旅行時期:2013/06(約13年前)
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私にとっては、「大連・旅順 旅行 その1」で書きましたように、今回の主目的である「日露戦役の戦跡を訪ねる」為、6月2日予定... 続きを読む通りホテルを10:00(時間は日本時間で統一して書いています、現地時間は1時間引いて下さい)旅順に向け出発しました。
昨日お世話になったU氏の関係者で「大連民族学院大学」の2回生の4名の方と、チャーターした車の運転手とわれわれ4名計9名です、車は昨日空港まで迎えに来ていただいた、「中国港中旅集団公司」の宋さと交渉の末、1000元で12人乗りのマイクロバスを手配していただきました、学生の4名の皆さんは、中国の少数民族の方々で、我々の通訳を兼ねて、「旅順は初めてなので、日露戦争の戦跡を一緒に訪ねたい」との事で、ご一緒していただく事になりました、道中渋滞もなく11:17最初の「水師営」に到着しました。
水師営は本来「水師営会見所」といいます、ここは明治37年5月末の第3軍の大連上陸以来、激闘200日余り旅順要塞に立てこもっていたロシア軍が、明治38年1月1日(正月)ついに日本軍に対し降伏、ここ水師営で1月2日双方の交渉委員により旅順開城交渉が始まり「開城規約文章調印」にいたりました。
明治38年1月5日、日本軍第三軍司令官乃木希典将軍とロシア軍旅順司令官アナトーリイ・ミハーイロヴィチ・ステッセル将軍が会見を行った処です。旅順攻囲以来日本軍死傷者約6万名、内戦死者は1万5千名の戦闘は終結し1月13日第三軍は「乃木大将」を先頭に入城しました。
戦役終了後「小学唱歌 水師営の会見」はこの時の様子を歌詞にしたためたものです。
學唱歌 「水師營の会見」
作詞:佐佐木信綱 作曲:岡野貞一
一、
旅順開城約成りて
敵の将軍ステッセル
乃木大将と会見の
所はいづこ水師營
二、
庭に一本棗(ひともとなつめ)の木
弾丸(だんがん)あとも著(いちじる)く
くづれ残れる民屋(みんおく)に
今ぞ相見る二将軍
三、
乃木大将は厳(おごそ)かに
御(み)めぐみ深き大君(おおきみ)の
大みことのり伝うれば
彼かしこみて謝しまつる
四、
昨日の敵は今日の友
語る言葉もうちとけて
我はたたへつ彼(か)の防備
彼はたたへつ我(わ)が武勇
五、
かたち正して言い出でぬ
「この方面の戦闘に
二子を失い給いつる
閣下の心如何(いか)にぞ」と
六、
「二人のわが子それぞれに
死所を得たるを喜べり
これぞ武門の面目」と
大将答え力あり
七、
両将昼食(ひるげ)ともにして
なおも尽きせぬ物語
「我に愛する良馬あり
今日の記念に献ずべし」
八、
「厚意謝するに余りあり
軍のおきてにしたがひて
他日我が手に受領せば
ながくいたはり養はん」
九、
「さらば」と握手懇(ねんご)ろに
別れて行くや右左
砲音(つつおと)絶えし砲台に
ひらめき立てり日の御旗
当時、この付近は両軍の砲弾のために、家屋という家屋は影も形もなくなっており、会見所に当てられた民家だけが残っていた。日本軍がここを占領すると、直ちに第1師団の野戦病院として使用し、屋根に大きな赤十字旗をひるがえていたという。
現在の水師営は歌詞にある「庭に一本棗(ひともとなつめ)の木」や「くづれ残れる民屋(みんおく)」は「文化大革命」時、紅衛兵の手ですべて破壊され復元したものとの事でした。向かって右側の部屋に日露戦役のパネルが展示されて、ガイド嬢が6枚ほど説明をしていましたが、一部首をかしげる説明もありました、日本の領土でないので致し方なし。左側の部屋にはテーブルと長椅子がありました、乃木将軍の漢詩の拓本を多分写させない為「撮影禁止」でした。
民屋を出て駐車場横のお土産売り場へ、何もかも値札は高い、携帯のストラップは3個で100元(当時のレートで1,700円)、値引き交渉をして結局10個を100元でゲット、ばらまき用の土産が出来ました。
閉じる投稿日:2013/06/19
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日露戦争終結の交渉場所にしては・・・農家の納屋みたい
- 3.0
- 旅行時期:2013/02(約13年前)
- 0
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日本人専用観光施設?
- 2.5
- 旅行時期:2012/07(約14年前)
- 0
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日本の歴史がそこにありました。
- 4.0
- 旅行時期:2012/07(約14年前)
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乃木将軍とロシアのステッセル将軍が会見した水師営。街中にいきなり現れ、それもとても小さい「馬小屋」のような建物だったのでび... 続きを読むっくりしました。ここで会見が行われたと思うとかんがい深いものがありました。有名な棗の木もありましたが、その当時のものではないとのことでした。中には多くの写真もあり、あの時代にタイムスリップするようでした。特に会見後(有名な写真ですが・・・)ロシアと日本の調印をした人たちが酒を飲んで一緒に肩を組んで写っている姿を見て、この時代にはまだ「武士道」の存在を見て取れるように感じました。ただ興をそいでしまったのが、初めはここで実際に使われていた茶碗や湯飲みを見せてくれていたのですが、(本当かどうか疑わしくなってしまったのですが・・・)次第に話がすりかわり、物を売買する商売の話になってしまったのが残念でした。 閉じる
投稿日:2013/04/03
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建物は古い農家で会見したテーブルは壊れたからと捨ててしまった。これで40元も取るのはぼったくりだ。
- 3.0
- 旅行時期:2012/07(約14年前)
- 1
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旅順の必須観光
- 5.0
- 旅行時期:2011/12(約14年前)
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日露戦争の貴重な写真がたくさん見れる場所
- 4.5
- 旅行時期:2011/09(約14年前)
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乃木将軍とロシアのステッセル将軍による、ロシアの降伏調印が行われた場所。
建物の中には日露戦争関連の貴重な写真の複製がた... 続きを読むくさん展示されている。
調印後に日露双方の11人で移した写真は有名であるが、中には酒に酔って、少々乱れた座り姿の者がいる。酒を振舞ったのは乃木将軍。ロシア側の健闘をたたえ、酒を酌み交わすなど、この会見は和やかなムードで執り行われたという。また、降伏した側のロシアが撮影の際に銃を携えることを許したのも、乃木将軍の計らいだった、というエピソードもある。
この建物はもともと劉(リュウ)という農民の家で、1999年に復元されたもの。
外に出ると、ステッセル将軍が乗ってきた白馬を繋いだナツメの木が、細々と残されている。また、「水師営会見所」の石碑が2面に分けた形で保存されている。
建物の中では、満州時代に日本軍が使用していたと言うグラスや時計などが展示販売されている。会見所の案内係が突然強引な売り子に変貌するので、ご注意を。 閉じる投稿日:2013/03/13
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昼食を済ませたレストランと隣り合わせ
- 3.0
- 旅行時期:2011/04(約15年前)
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本当にここだったのかは不明だとか
- 2.5
- 旅行時期:2010/06(約16年前)
- 1
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記念の地
- 2.5
- 旅行時期:2009/08(約16年前)
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乃木将軍とロシアのステッセル中将が会見した場所
- 3.0
- 旅行時期:2009/04(約17年前)
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1件目~18件目を表示(全18件中)
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