今まで知らなかった人物について学び楽しめました!
- 3.0
- 旅行時期:2021/08(約4年前)
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by hiroさん(男性)
目白 クチコミ:17件
『大井玄洞(おおいげんどう)翁の胸像』は、「目白通り(都道8号)」の「江戸川橋」交差点から「江戸川公園前」交差点までの南北区間を東西に流れる荒川水系の一級河川「神田川」に架かる「江戸川橋」の袂(北西側)を起点に「神田川」に沿って左岸側(北側)部分を「神田川」上流方向(西側)に向かっておよそ500メートルにわたり整備されている文京区立「江戸川公園」内の「目白通り」側一画となる東京メトロ・有楽町線「江戸川橋駅」1a出入口から徒歩1分程度(およそ100メートル)の場所に設置されています。
ちなみに『大井玄洞』は、徳川幕府・第13代将軍「徳川家定」の時代となる江戸時代末期の1855年(安政元年)に加賀藩の儒学者であり医師の子として生まれ、加賀藩の藩校である「明倫堂」で儒学などの学問や「道済館」で英語を学んでいます。
明治維新後の1869年(明治2年)から1873年(明治6年)まで「大学南校(現:東京大学)」に入学しドイツ語を学び、「大学南校」を卒業後は「大学区医学校(現:東京大学医学部)」でドイツ語の通訳をはじめドイツ語の薬学などに関する専門書の翻訳活動をおこない、1880年(明治13年)から1885年(明治18年)まで一旦ふるさとに戻り「金沢医学校製薬学科(現:金沢大学薬学類)」で薬局長ならびに内務省主管の金沢医術開業試験委員を兼務したのちの1886年(明治19年)に9か月程度となるドイツ短期留学をしています。
帰国直後から1900年(明治33年)まで陸軍薬剤官として陸軍病院薬剤課長心得、陸軍軍医学校教官を務め、師団軍医部として「日清戦争」に出征、凱旋後に陸軍薬局方編纂委員、予備役などを務めています。
陸軍を退役したのちは、東京市小石川区(現:文京区)に居住し衛生材料(ガーゼ・脱脂綿など)関連の商いをするかたわら当時の小石川区会議員を務め、さらに1907年(明治40年)から1928年(昭和3年)までは当時の東京府会議員を務めたのちの1930年(昭和5年)に逝去し75年の生涯に幕を閉じています。
『大井玄洞翁の胸像』の建立まで経緯については、『大井玄洞』が陸軍を退役してから小石川区に在住して議員を務めていた時代にたびたび洪水をおこしていた「神田川」において特に1910年(明治43年)に発生した大水害を機に治水工事の重要性を感じていた『大井玄洞』の尽力により、1913年(大正2年)に「神田川」護岸改修工事が着手され、6年後の1919年(大正8年)に護岸改修工事の完了とあわせて「江戸川公園」が整備されています。
この「神田川」治水事業に尽力した『大井玄洞』の功績を称えて永くその徳を伝える目的で1928年(昭和3年)に胸像が「江戸川公園」内に建立されています。
今回は、「江戸川橋」周辺エリアを訪れた際に「江戸川公園」内を通り『大井玄洞翁の胸像』の存在に目が止まりましたが、今まで『大井玄洞』に関する知識が全くありませんでした。
『大井玄洞翁の胸像』の存在に気が付き胸像自体は地味なものでこれといって見応えがあるわけではありませんでしたが、今まで知識のなかった『大井玄洞』という人物について学ぶきっかけになり色々と調べることで楽しむことができました。
- 施設の満足度
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3.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 東京メトロ有楽町線・江戸川橋駅1a出入口から徒歩1分程度です。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 公園内を素通りする人はいますが、立ち止まって胸像を見る人はいませんでした。
- バリアフリー:
- 4.0
- 公園内の平坦な場所にあります。
- 見ごたえ:
- 3.0
- 胸像自体は、地味なものでこれといって見応えがあるわけではありません。
クチコミ投稿日:2021/09/30
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