お吉の人生っていったい、、、
- 3.5
- 旅行時期:2019/06(約5年前)
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by nichiさん(男性)
下田 クチコミ:12件
入場料は400円。
19歳当時のお吉の写真が綺麗でした。
身寄りのなかったお吉を、当時の宝福寺の第15代竹岡大乗住職が弔ったことから宝福寺にお吉のお墓があります。
水谷八重子などの芸能人により新しく墓石も寄進され現在に至っています。
「唐人お吉」
佐久間良子さん、太地喜和子さん、坂東玉三郎さん
舞台で演じていたんですね。
古いポスターや資料が掲げられていました。
斉藤吉の父親は船大工、お吉が小さい頃に一家揃って下田に移り住んでいます。
村山家という家の養女となり、三味線などを習った後、芸者として生計を立てるようになりました。
芸達者だったきちは、瞬く間に下田一番の人気を誇るようになります。
お吉はまだ14歳です。
又、下田の大津波で家財道具一切を失ったお吉は村山家から実家の斎藤家の戸籍に戻ります。
お吉は声が良く、特に十八番の新内節「明烏」を唄わせれば下田で右に出るものはなく、新内明烏のお吉と謳われるほどの評判と美貌でしたが、それが奉公所の目に
留まることとなり、17歳の時、法外な年俸と引き替えに心ならずもアメリカ総領事タウンゼントハリスのもとへ待妾として奉公にあがることとなります。
下田の役人たちに「国難を救うと思って、身を捧げてくれ」と頼み込まれ、きちは泣く泣く「参ります・・・」と了承しました。
幼馴染で婚約者である鶴松と別れての奉公でした。
奉公を終えたお吉に世の風は冷たく、「唐人お吉」の肩書に。
二十歳でやけ酒をあおるようになります。
そして京都祇園の芸妓となります。
松浦武四郎の配下となり、お吉が開国論を説いたのはこのころです。
横浜で幼なじみの船大工・鶴松と再会し、下田の大工町に転居して所帯を構えますが、お吉の酒癖の悪さが原因で離別し三島の金本楼の芸妓になります。
その後、下田で髪結いになったり、安直楼と言う料亭を開業しますが、酒癖の悪さからうまくいかず、最後は豪雨の中で入水自殺をしてしまいます。
この後、語り部さんによるお吉の物語を約20分お聞きしました。
貴重な体験をすることができました。
宝福寺のもう一つの存在意義はここにあります。
勝海舟と山内容堂の会見の場です。
1,863年1月16日、勝海舟が、宝福寺に滞在中の山内容堂を訪ね、坂本龍馬の土佐藩の脱藩の罪の許しを乞いますが、当時のまま部屋が残されています。
- 施設の満足度
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3.5
- 利用した際の同行者:
- カップル・夫婦(シニア)
クチコミ投稿日:2019/09/23
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