薩英戦争の名残をとどめる石垣と台場が残る 佐多岬に行くついでによるとよい
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- 旅行時期:2018/03(約8年前)
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by SUOMITAさん(男性)
大隅半島(鹿屋・垂水・志布志・肝属) クチコミ:6件
文久2年(1862年)8月21日島津久光の一行は薩摩(鹿児島)に帰る途中、武蔵生麦村(現横浜市)で行列を乱した英国人リチャードソンを斬殺し二人に傷を負わせた。このことが原因となって薩英戦争が始まった。文久3年2月薩藩は英艦の錦江湾来攻を察知して沿岸の防備を固めたがこの時本町の根占港津柱神社裏と現在地そして上ノ山の三カ所に五番陣(小根占、大根占、佐多、大姶良、鹿屋)の郷士が主になって台場を構築した。今、この砲台の跡を土地の人々は「台場跡」とよんでいるが台場の3メートル、幅4メートルのこのみかげ石の石垣は延長60メートルにも達し、中央に砲身を構えた凹部が二つ残っている。近くにはエンショウ倉(煙硝庫)もあった。薩英戦争の際、発射する機会はなかったが錦江湾沿岸に数十の台場が構築されたなかで当時の台場として原型をはっきりととどめているのはこの台場だけという貴重な史跡である。http://www.osumi.or.jp/sakata/furusatokaze/furusatokaze2/hasi/daiba.html
今も台場の石垣や島津斉彬が使用した手水鉢が残る.道路のわきなので佐多岬に行くときに寄るとよい
- 施設の満足度
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3.5
- 利用した際の同行者:
- 友人
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.0
クチコミ投稿日:2018/04/20
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