義仲と芭蕉、そして巴御前も眠る墓所です。
- 5.0
- 旅行時期:2017/08(約8年前)
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by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
大津 クチコミ:111件
膳所駅から北に下ること約10分、旧東海道に面した街道筋に義仲寺はあります。創建は不明であるものの、平家討伐の兵を挙げた木曽義仲が後白河上皇と対立し、最後は粟津原で源範頼・義経軍に討たれた時は数え31歳だったとされています。その後重臣の今井兼平も自害して果てており、亡骸を葬ったのは側室の巴御前であったとされています。無名の尼と称して庵を結び、義仲の遺骸を葬ったとの伝承が残っています。
元々特定の宗教に属していたわけではない義仲寺は、時代の移り変わりで荒廃することもあったとされていますが、戦国時代には近江国守佐々木氏が〝源家大将軍の御墳墓荒るるにまかすべからず〟と再建に動きました。その後真言宗東寺派総本山石山寺や天台宗寺門派総本山園城寺に属し、一時はそれなりに栄えていた時期もある最中にあの俳人松尾芭蕉がこの地を訪れました。木曽義仲と義仲寺を寵愛した芭蕉は、度々この地を訪れており、最後は上方でその生涯を終えるものの、その遺言である『骸(から)は木曽塚に送るべし』に従って、義仲塚の右手に埋葬されて永遠の眠りについています。
芭蕉の辞世の句である『旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る』をはじめとした数々の句碑が境内に建てられており、義仲の忠誠心溢れた生涯とはかなさに強く惹かれ、大の義仲ファンといっても過言でないほどだった芭蕉、そしてその芭蕉を愛してやまず、第二次世界大戦後に荒廃した義仲寺を再興した著名人の句碑も建立されていることから、その繋がりの深さゆえに義仲を、そして芭蕉を愛した人々の気持ちが伝わって来ました。
また境内奥の翁堂の天井画には伊が最晩年に手掛けたとされる『四季花卉(かき)図』(全15面)が復元されて公開されています。翁堂が再建された安政6(1859)年には既にはめ込まれていたものとされ、それをデジタル技術によって復元されたものが現在の翁堂で見ることができます。若冲が芭蕉とどんな繋がりがあったのかは定かではありませんが、全国に『ふたつ』しかない天井画がこの義仲寺に納められているのは単なる偶然ではないでしょう。
機内にある寺院のように大きさもなく、駆け足で回れば1時間はかからない場所ではありますが、境内にある木曽義仲・巴御前・松尾芭蕉他なんらかの『繋がり』を持った〝もののふ〟達に歴史の面白さを感じる場所です。
休館日:月曜日【祝日は開館】
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 膳所駅より徒歩10分程です。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 今回は他に一組おられました。
- バリアフリー:
- 3.5
- 境内は砂利時期です。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 芭蕉の想いが伝ってきます。
クチコミ投稿日:2017/10/18
いいね!:11票
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