『木曽殿と背中合わせの寒さかな』と松尾芭蕉の弟子又玄が詠みました。
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- 旅行時期:2016/09(約9年前)
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by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
大津 クチコミ:111件
旧東海道沿いにある義仲寺。創建は不明ではあるものの平安時代末期源頼朝と敵対することになった木曽義仲が、粟津原で討たれた後巴御前が義仲の遺骸を葬り庵を結んだことが創始とする説があります。
その後戦国時代には荒廃し、近江守護職佐々木氏の手によって再興され、石山寺に属した後江戸時代には園城寺に属します。ちょうどその時期に俳人松尾芭蕉が木曽義仲と義仲寺を愛し、度々この地を訪れて滞在しています。最終的に上方で亡くなった松尾芭蕉でしたが、『骸(から)は木曽塚に送るべし』との遺言により義仲の墓隣に埋葬されました。
時は移り太平洋戦争敗戦後、義仲寺は再び荒廃壊滅の危機に瀕するも、昭和40(1965)年に再興され単立の寺院となり、昭和42(1967)年国の史跡に指定され現在に至っています。
『木曽殿と背中合わせの寒さかな』の句が有名な義仲寺ではありますが、これは芭蕉の句ではありません。芭蕉の死後亡骸を義仲寺に収めた弟子『又玄』が詠んだものです。義仲びいきの芭蕉らしいことからそう誤解されたままになっているところもあるように思います。
実はこの義仲寺、この地で亡くなったとされているのは、諸説ある中で『巴御前』だけだということです。木曽義仲は粟津原、現在の石山駅北口一帯とされその場所には義仲の重臣今井四朗兼平も眠っています。そして松尾芭蕉は大阪で客死しています。
歴史上の重鎮達に加え、昭和の時代に義仲寺再興に携わった著名人が眠る場所は、お寺という『万人受け』するものとは少し違うようにも思えます。しかしその共通点は900年もの間変わっていない事実を参拝者に伝えています。訪れる人によって感じ方は違うとは思いますが、『求めるものが同じ』だということに違和感すら感じない…そんな不思議な気持ちを受ける場所のように思えてなりません。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 膳所駅から徒歩7分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れた時は空いていました。
- バリアフリー:
- 3.0
- 足元は砂利敷きです。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 小さな敷地にたくさんの碑が並んでいます。
クチコミ投稿日:2016/09/06
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