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山形の塔

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山形県ご出身の戦没者を祀る慰霊塔です~山形の塔~

  • 5.0
  • 旅行時期:2016/03(約10年前)
たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)

糸満・ひめゆり クチコミ:207件

沖縄島南部糸満市真栄里にある山形の塔は、山形県ご出身で戦没された40,834柱(沖縄戦:765柱・南方諸地域:25,612柱・その他地域:14,457柱)の御霊を祀るべく昭和40(1965)年2月6日に建立されました。

都道府県別の慰霊碑というと摩文仁だと思われがちですが、違うものもあります。宜野湾市嘉数にある京都の塔、そしてこの山形の塔がそうなのですが、部隊の所縁の地に建立されています。第24師団歩兵第32連隊通称霞連隊は山形・秋田の兵士により構成されていました。上位組織の第32軍司令部の南部撤退命令に従いこの国吉台の地に南下し、壕やガマに籠りながらゲリラ戦を繰り広げていたようです。

昭和20(1945)年6月23日摩文仁にて第32軍牛島満司令官と参謀長長勇中将が自決し、日本軍の組織的抵抗は終ります。そして1週間後の6月30日には第24師団長雨宮巽中将も宇江城の壕で自決。隷下の第32連隊は上位組織を持たない集団となってしまいます。しかし戦争の混乱の中通信網が途絶し、司令官や師団長の自決すら伝わらず、大隊レベルでのゲリラ戦を繰り広げていたようです。

たまたまなのかも知れませんが捕虜になった日本軍の下士官を連れた米兵が、昭和20(1945)年8月22日第一大隊の壕を訪ね降伏を呼び掛けます。最初は信じられなかった伊藤孝一大隊長でしたが、連れて行かれた米軍司令部で既に捕虜となっていた第32軍高級参謀八原博通大佐と出会い漸く納得し、第32連隊長北郷格郎大佐に降伏を進言しその段取りを一任されます。また連絡が途絶していた第二大隊(志村常雄大隊長)とも連隊長命令で面会し、降伏日を8月29日と定めた前夜、身動きのできる兵士が敬礼をする中で軍旗が奉焼されました。明治31(1898)年3月24日からの歴史ある歩兵32連隊はここに終焉を迎えました。翌日に連隊本部と第一大隊が武装解除に応じ、少し遅れて9月4日には第二大隊も武装解除を行います。そして9月7日には嘉手納基地に於いて日米の降伏文章への調印が終わり、沖縄戦が終了します。

山形の塔近くに現存する壕は連隊本部壕として使われていたもののようで、この場所で軍旗の奉焼が行われたそうです。ただすぐ近くにある?白梅学徒自決の壕?のように馬乗り攻撃を受け、進退窮まった上での自決というものではないようです。勿論将兵が籠っている壕であれば攻撃を受けるのは当たり前のようには思うものの、時期的に米軍の掃討作戦の終結が7月2日とされていることから、場所は近くても背景は全く異なるものではないかと推測します。

山形で招集され、中国戦線を経て沖縄戦への転戦されたということは気温に体を慣らせることに苦労されたに違いありません。連隊終焉の地である国吉台から別の観点からの戦争の生き証人としての役目を果たして頂きたい…そう思いました。

施設の満足度

5.0

利用した際の同行者:
一人旅
アクセス:
5.0
白梅之塔から歩いて3分。
人混みの少なさ:
5.0
平日の夕方では誰もいませんでした。
バリアフリー:
3.0
階段があります。
見ごたえ:
5.0
みっつの碑とひとつの壕がセットになって見学者に訴えかけます。

クチコミ投稿日:2016/04/03

いいね!:8

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