連隊レベルで終戦を迎えた第24師団第32歩兵連隊の終焉の地を伝える場所。~歩兵第32連隊終焉之地~
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- 旅行時期:2016/03(約10年前)
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by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
糸満・ひめゆり クチコミ:207件
沖縄戦に於いて台湾へ転出した第9師団の代わりに配属となった第24師団。その隷下の部隊である歩兵第32連隊が第32軍司令部の南部撤退命令によりこの碑のある国吉台の地にやってきたのは、日本軍の敗色が濃くなった昭和20(1945)年6月初旬のことでした。通信網の途絶により連隊本部や大隊との連絡も取れず、お互いが無事なのかどうかすらわからない状況でゲリラ戦を仕掛けていたようです。
第32軍牛島満司令官と長勇参謀長の自決により日本軍の組織的抵抗が終了しますが、それから2カ月後の昭和20(1945)年8月22日、歩兵第32連隊第一大隊が籠る壕に既に捕虜になっていた日本軍の下士官を連れた軍使がやってきます。戦いは終わったという降伏の勧めですが、第一大隊長の伊藤孝一大尉も最初は信じられなかったそうです。しかし軍使として米軍司令部に通う中で、捕虜となっていた第32軍司令部高級参謀八原博通大佐に出会ったことにで敗戦を知り、連隊長に降伏を進言します。米軍との橋渡しを一任された伊藤隊長は、8月29日に第32連隊は武装解除することを伝えます。その前夜には連隊旗を奉焼し、明治31(1894)年から続いた連隊の栄光と伝統に終止符を打ちました。
第32連隊終焉之地というと連隊の玉砕の場所だと思われがちですが、こちらは意味が異なります。確かに連隊の歴史は終わりましたが、その連隊を構成する兵士は降伏により助かっています。連隊本部と第一大隊で一説には300余名とも言われ、また通信が途絶えていた第二大隊も伊藤隊長が間に入り200余名の兵士の命が救われました。
勿論時期の問題はあれど、現状の?的確な判断?がなされたことによる結果であったことには違いありません。かと言って偉そうなことは絶対に言われない第一大隊長伊藤孝一隊長は、昨年の沖縄慰霊の日にまつわる記事の中で「多くの部下を死なせてしまった」と悔いておられたのが心に残っています。
もしこのような判断ができる将校がトップであれば、戦争の流れそのものが変わっていたかも知れない・・・。そんな気持ちを強くさせるこの第32連隊終焉之地の碑のように思えました。
- 施設の満足度
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5.0
クチコミ投稿日:2016/04/02
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