本当に湖中に聳え立つ城郭のようでした。~大津城跡~
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- 旅行時期:2016/01(約10年前)
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by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
大津 クチコミ:111件
わずか15年間しか存在しなかった大津城は、本能寺の変後豊臣秀吉が明智光秀の居城であった坂本城を廃し、浅野長政に命じ作らせたものです。浅野・増田・新庄氏と城主が変わった後文禄4(1595)年に京極高次が城主となりました。
元々琵琶湖を渡る物資の管理を目的に作られたものであり、今の大津港桟橋付近一帯にあったとされる本丸は、戦闘向けではなかったようです。
豊臣秀吉の死後、徳川家康と石田三成をはじめとする豊臣方の後継者争いが生じ、慶長5(1600)年天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発します。戦闘向けではない大津城に京極高次は3,000名の兵と共に籠城、毛利元康以下15,000名の兵力に挑みました。しかし多勢に無勢の戦いに加えて城下の堀まで埋められてしまい、結果高次は降伏し開城します。これなら敗軍の将としかなれない高次でしたが、開城した日は9月15日、つまり関ヶ原の戦いの当日でした。
開城を確認した毛利・立花といった西軍の兵力(となるはずだった)は、幾ばくも進まないうちに関ヶ原の戦いの敗戦を知り、大坂城や領地へととって返しました。局所的な戦いには勝ったものの、大局的には負けてしまった大津城の戦いが、戦場ではないものの天下分け目の戦いの結果を左右したと言われる要因です。
戦いの後損害が大きかった大津城は廃城となり、その一部の建物は膳所城や彦根城へと移設されました。
往時の城跡地図を見ても今の街からは想像することは難しいことだと思います。しかし休館中の琵琶湖文化館が大津城をモチーフとして作られたという逸話を信じるかどうかは抜きにして、琵琶湖にせり出た本丸がいかに素晴らしかったかはなんとなくわかることかも知れません。
- 施設の満足度
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5.0
クチコミ投稿日:2016/02/07
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